中御所館(長野市中御所)
長野駅の西側から南西一帯の地区を「中御所」という。字のとおり守護館があった場所である。
でも、今では何もない。かつては若干、それらしい雰囲気はあったのだが、ここは長野駅東口に近い場所であり再開発が行われている。
この付近に母の実家があり、管理人にとってはこの付近は散歩コース、遊び場であった。
昔はまだ水田さえあり、今思えば、水田が堀跡であったのかもしれない。

その館があった場所が御所天満宮、八幡社の場所であるが、かつての雰囲気はまったくない。
いたるところ重機で掘り起こされている。
でも遺物は出土している感じではない。
ここは裾花川の扇状地であるため、川原石などがごろごろしている。

この御所天満宮という神社、守護館そのものズバリの地名である。
ここは長野駅東口からは南西500mの距離である。すぐ西に北国街道が通り、その通りをまっすぐ北上すれば善光寺である。
北に今は暗渠になっている計渇(けかち)川が流れる。
この川がかつての裾花川の跡である。

当時、この川は南東方向に流れていたといい、川を挟んで東に600mが栗田城である。
館はそれほど大きな規模ではなく60m四方ほどの方形館であったようである。
ただし、守護館としては狭すぎる。
外郭が存在していたのではないかと思われる。
しかし、ここは裾花川の扇状地である。館の痕跡がほとんどないのは裾花川の氾濫によるものであろう。

この地に館が築かれたのは鎌倉初期、建久8年(1197)に源頼朝が善光寺を参詣したとき、この地の土豪、漆田氏が頼朝を泊めるための館を建て、それを「御所」と呼んだことが「中御所」の由来といわれている。
当時は「漆田」と言っていたようであり、漆田氏もその地名を姓にしていたようである。
この漆田氏の出もよく分からないが、井上氏などと同系統ではないかと思う。
室町時代、信濃は全国に先駆けて戦国時代に突入する。

至徳4年(1387)、地元の土豪、高梨、村上、小笠原、島津氏らが平芝の守護所(小柴見城がある裾花川西岸台地付近?守護所がこの館であり、平芝にある小柴見城、旭城がこの館の詰めの城だったと考えた方が妥当かもしれない。)に攻め入り、守護代の二宮氏とここ漆田(今の中御所)で戦っている。

なお、当時は裾花川が館の北を流れていたので、平芝と漆田はつながっていた。
この戦いは地元土豪の連合軍が勝利した。

次の騒乱があの大塔合戦である。官製守護小笠原長秀の圧政に再度、地元勢力が反乱、応永7年(1400)大塔合戦が起こり、篠ノ井二ツ柳で長秀側は壊滅的打撃を受ける。
しかし、地元勢力がまとまらず、小笠原氏が守護に復帰、大塔合戦で負けた長秀には子供がなかったため、家督は弟の政康がついで守護になるが、政康の死後、長秀の兄の子持長と政康の子宗康との間で家督争いが勃発。
文安3年(1446)、その戦いの舞台がこの地であり「漆田の戦い」と呼ばれる。
宗康側は敗北したが、弟光康のいる伊那へ逃れ、光康が幕府により守護職を安堵され、持長側は代々松本に居を定めることになる。
これが後に武田氏の侵略を受ける府中小笠原氏であり、江戸時代も大名として続いた家である。
館主の漆田氏は同じ一族が続いたのか途中で変わったのかは分からないが、漆田の戦い後、隣接する栗田城の栗田氏との抗争に敗北し、歴史から姿を消す。

西にある観音寺に、漆田出羽守秀豊の墓があり、寺の前にある石柱に「漆田出羽守…」と刻まれている。


右の航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものであるが、上が長野駅である。

旭城(長野市平柴)
長野市街地の西に円錐城の山、旭山が聳え立つ。
その山頂にあるのが戦国の名城旭山城であるが、山麓にかけて2つの城がある。
一番麓に近い城が夏目ヶ原浄水場になっている小柴見城であるが、その西、旭山から東に派生する小峰末端の独立部、標高542mにあるのがこの旭城である。
別名、大黒山城という。
裾花川からの比高は170mである。


↑の写真は東の小柴見城から見た旭山城と旭城である。
旭城は赤い屋根の民家上の山である。

この城に行くには夏目ヶ原浄水場から行く道があるが、この道は良く分からない。
朝日山観音堂に行く道の途中、旭城からは南西に位置する諏訪神社から行くのがいいだろう。

諏訪神社の下から山麓沿いに東に行く道があるのでそれを進む。
車でも行くことができる。この道から見る長野盆地は絶景である。
道の先に2軒の民家がある。
1軒が「下崎建築設計事務所」さん。
こんなところで仕事ができるのは羨ましい限りである。
この先で道は2本に分かれるが山側の道を行く。
車はこの付近まで。ここから先は歩いた方が良い。
道を進むと西側に石垣があるが、ここは段々畑の跡らしい。
しかし石垣の高さが4mほどありまるで城郭遺構のようであるが、管理が放棄されているのか、地震などでけっこう崩壊している。
なんとそこがヤギが飼われている。


さらに進むと旭山との長者屋敷と呼ばれる鞍部Eのような場所にでる。
ここから東に登る道がある。登り口に朽ち果てた城址?の木柱がある。
すでに字は読めない。
ここからジグザグの小道を比高20mほど登って行くと、山頂部に左近稲荷社がある。
そこが本郭@である。本郭は25×35m程度の広さ。
南に4m下に腰曲輪Dがある。
東下にも帯曲輪がある。
社殿の北に小曲輪を介し、深さ8mほどの見事な堀切Aがあり、竪堀が下る。
その北の曲輪Bには古墳があり、石室Cが口を開ける。
この古墳が「大黒塚」というものらしい。
周囲には曲輪が段々に存在する。
城の規模としては東西50m、南北120m程度の小規模なものである。
@本郭に建つ左近稲荷神社、荒れている。 A本郭北側の巨大堀切 B堀切の北の曲輪から見た堀切、岩が古墳
C古墳の石室は開口している。 D 本郭南側の腰曲輪 E城のある山と旭山間の鞍部、長者屋敷。

↑ 本郭、左近稲荷神社境内から見上げた旭山城。
旭山城からは旭城内部は丸見えであり、
旭山城の付け城ではないであろう。
旭山城の出城だろう。
→昭和50年国土地理院撮影の航空写真。
上が旭城、右が小柴見城、左下が木曽殿屋敷。

おそらく中御所館の詰めの城として築城されたのではないかと思われる。
守護館を村上、小笠原、高梨、長沼などの国人が攻めたという記録がある。
平柴の守護所と言っているのが、それは詰めの城である小柴見城あるいはこの旭城のことではなかったかと言われている。
文安3年(1446)の漆田の戦いでもこの旭城の別名大黒塚が戦場として登場する。
おそらくこの城が戦場になったのであろう。

川中島の合戦では弘治元年の戦いで旭山城が登場するが、その支城として使われたか、逆に付け城として使われたものと思われる。
弘治元年の戦いでは武田方の旭山城に対して上杉謙信が付け城を置いて攻めたとされているが、その城が旭城であった可能性がある。

しかし、この城では旭山城からは見下ろされる位置にあり、デモンストレーションにはなるが、牽制効果は少ないように思える。
葛山城のように旭山城の城内を覗ける場所の方が心理的威圧効果は高いのではないかと思う。
永禄4年の戦いにおいても上杉軍の部隊が駐留していたのであろう。
小さな城であるが、かなりの歴戦のキャリアを持っていそうな城である。
航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。



木曽殿屋敷(長野市平柴)
諏訪神社から旭城に向かう道を進むと、道の南東の斜面部が平坦となり、果樹園となっている。
そこが木曽殿屋敷と呼ばれている場所である。

ここは市街地から比高が120mほどもある。
長野盆地一帯を見渡せる。
ここからの風景は素晴らしい。
平坦部は東西50m、南北80mほど。
内部に20、30m四方ほどの土壇が2か所ある。

何らかの建物が存在していたものと思われる。

木曽義仲の子、義高の弟の屋敷跡と言われているが、そもそも弟の存在もあやふやだし、名前も分からないのでかなり怪しい。
やはり伝説の世界であろう。

この北、斜面部の道を行くと旭城であり、城主の朝日右近という者の屋敷とも言われる。
確かにこの説の方が合理性がある。

館の背後にあたる西側はただの斜面であり、堀が存在したような感じでもなく、無防備である。
防衛力はなく、居住目的の館と言えるだろう。

南向きの斜面であり、居住性は抜群の立地である。

航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。
宮坂武男「信濃の山城と館2」参考。
@西側から見た南側の土壇部。
はるか下に長野市の中心部が広がる。
A北側から見た北の土壇部。遠景は川中島方面。
正面右が鞍骨城、左のくっきりした山が雨飾城。

小柴見城(長野市平柴)
旭山の東南の裾野、東に裾花川を望む段丘上にあり、比高は55m。ここからは長野市街が一望できる。
旭山の間には勝手沢が流れ半島状になっているが、西側は住宅地となって沢がかなり埋められている感じである。
西側には旭山城との間に旭城がある。


城址は夏目ヶ原浄水場になって湮滅状態であるが、南端にある本郭だけが健在である。
しかし、北側の2重堀切の北側が切通しの道路@に転用されてしまい湮滅状態である。
真ん中の土塁を越えると箱掘があり、その南に本郭北側の土塁がそびえる。A 高さは4mほど。
そこを越えると本郭であるが、この土塁、本郭側からは高さ2mほどB。本郭は50m四方程度の広さ。
内部は半分、畑になり、伴場のような廃墟のプレハブがある。
南側に土塁があり、南側に腰曲輪Dがある。石が転がっているので本郭周囲は石垣造りであったようである。
西側は勝手沢の急崖である。東側には腰曲輪が重なる。
北側は夏目ヶ原浄水場Eになっており、遺構は湮滅状態である。3本ほどの堀があり、3つほどの曲輪があったらしい。
南端の本郭側より地勢が高い。

@本郭北の2重堀切、北側は道路になっている。 A 本郭北の堀切底から見た本郭の土塁 B 本郭北側の土塁を西側から見る。
C本郭内部は半分畑。南端に土塁がある。 D本郭南の腰曲輪には石が・・ E 北側は浄水場になって湮滅している。

城主は小柴見氏と言われるが、城自体は信濃御所のあったという中御所館の詰めの城として旭山城、旭城とともに整備されていたのではないかと思われる。
小柴見氏の城主になった経緯は分からないが、小田切氏に従っていたといい、応永7年(1400)の大塔合戦では小柴見氏は一揆側の小田切氏に従い参陣していたようである。
戦国時代、武田氏の侵略に晒され、小田切氏などは弘治3年(1557)、武田軍の葛山城攻めでは籠城して没落したが、小柴見氏の状況については分からないようである。
葛山城攻防戦の前に善光寺別当栗田鶴寿と行動を共にし小柴見氏は武田氏に降伏したのかもしれない。
永禄5年(1562)、上杉氏に内応したため、武田氏によって成敗されたという記録もある。

国土地理院昭和50年撮影の航空写真を使用
宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。

小田切氏館(長野市安茂里)
安茂里地区小市にある。この地は筑摩山地を抜けた犀川が長野盆地に出る場所であり、その北岸、富士の塔山の山麓の高台にある。
現在館跡には市立松が丘小学校が建つが、この高台、標高410m、犀川からの比高が70mあり、非常に眺めが良い。


↑航空写真から見た館推定地。
小学校の西側一帯らしい。右上の写真、グランドの向こうが
館跡、体育館も城域であったようである。

↑館跡から見た川中島。正面部が松代、白い線が長野新幹線。手前の緑が犀川。

この地の土豪、小田切氏の館である。
小田切氏は鎌倉時代に佐久郡臼田小田切郷から地頭としてこの地に来て、犀川が長野盆地に出る付近一帯を支配した。
戦国期の城主は小田切駿河守幸長。春日、朝日、長嶺、久保寺(窪寺)、平林、布施、横山など地元の土豪七騎衆のリーダーであったという。
信濃が武田氏の侵略に晒されると小田切氏は吉窪城、小松原城を整備し、徹底抗戦。

弘治3年(1557)年2月、武田軍の侵攻で葛山城に落合氏を支援して籠城したが、内応者が出て落城し戦死。
葛山城落城の知らせを受け、吉窪城を守備していた小田切幸長一子民部少輔は逃亡してしまい、吉窪城も自落した。
この時、小田切氏館も廃城になったのではないかと推定される。
その後、小田切氏は武田氏に従ったともいう。

主郭部付近。背後の山を行くと富士の塔砦に至る。 主郭部推定地は畑になっている。値 館は段々状になっており堀があったらしい。
かすかに痕跡が残る。

小田切氏の居館は犀川南の於下館、内後館等、平地部にもあるが、当初はこの地に館を構え、後に平地部に進出したらしい。
しかし、館跡は小学校建設等でかなり失われてしまい小学校西側の畑などの段々が切岸や堀の名残である。
西側の藪の中に土塁、堀が残存していた。
しかし、夏場であり写真を撮っても藪しか写っていなかった。

広さとしては100m四方程度あったらしい。
斜面末端部の平坦地は家臣の屋敷があったらしい。
館の背後は無防備であるが、崖でありこの方面に迂回して攻撃することも困難そうである。
館裏から富士の塔砦に通じる道があったようである。
航空写真は昭和50年国土地理院撮影のものを使用。
宮坂武男「信濃の山城と館2」参考。

富士の塔砦(長野市小鍋)
長野市街の西にある富士の塔山地の最高地点、標高998mのピークにある。
浅間神社が建つ。

下の2枚の写真は長野盆地の南、南東から見た富士の塔山である。

鞍骨城から見た川中島、北側、富士の塔山方向、 川は千曲川。2004.3.28撮影
雨飾城から見た川中島、富士の塔山方向 2004.11.20撮影
1:富士の塔山 2:飯縄山 3:旭山城 4:善光寺  5:川中島古戦場 6:金井山城 7:陣場平山城砦群 
北下960mの地に平場があり小屋、水場があったものと推定される。
ここに小鍋分校の玄関を移築した東屋が建つ。
ここまでは車で何とか行ける。ここから鳥居@を潜り、比高30mの尖ったピークを登る。

車でのルートは旭山城がある東の平柴地区、北の国見、小鍋地区から林道が延びる。
舗装はされているが狭い。対向車が来たら往生する。
しかし、この林道を走ると驚く。
こんな場所に、と思うような場所にまで畑があるのである。思わず「すげえ」。

この山系は旭山から西に続く山であり、さらに西の馬場平山、そして虫倉山に繋がっていく。
標高は高いがだらだらと続き、目だったピークは不明確である。

@砦への登り口の鳥居 A山頂部の浅間神社、左の解説板の所に土塁が。 B西側の腰曲輪

それでも砦のある場所は最高箇所であり、犀川からの比高は610mもである。
山頂部は小さいものであり、主郭Aは23m×14mの広さに過ぎない。
西に高さ1m程度の土塁があり、西2m下に12×10mの腰曲輪Bがある。

ここは 小田切氏の物見の砦であり、狼煙台であったようである。
ここからは、長野盆地が一望の元である。この山を「国見山」ともいう。
信濃の中心地、長野盆地という国を一望の元に見れるためという。
冬の晴れた乾燥した日には富士山が見えるらしい。
これが富士の塔山の語源というが、本当に見えるのかな?そんな写真、見たことないのだけど。

富士の塔山から見た南方向。白い線は長野新幹線
富士の塔山から東方向 川は犀川

8:鞍骨城  9:妻女山 10:鷲尾城 11:屋代城 12:川田古城 13:霞城
宮坂武男:「信濃の山城と館」、長野市誌参考。


国見ごてんしょう砦(長野市小鍋)
国道401号を七二会方面に進んだ、小鍋国見地区、道路が左に急カーブする場所の西側に比高20m程度のやたら目立つ岡がある。
3段ほどになっており、階段状ピラミッドのようである。

これが国見ごてんしょう砦である。
「ごてんしょう」はおそらく「御殿城」と書くのではないかと思われる。
と言っても、居住性は全くない。

岡の標高は714m、国見集落からは比高30mほどである。
この部分だけ、独立して盛り上がっている。
東の鞍部からは比高20m程度である。

全体的には全体70m×40mの広さ。最上段の曲輪は17×12m、かつては墓地であったようであり明暦年間と刻印された女性の墓があった。
西に小曲輪が2段続く。
東下7mに曲輪があり、かつては畑であったようである。
さらに下に曲輪が続くが林檎畑になっている。

小田切氏の物見台であり、裾花川方面、戸隠方面を監視する砦であったと思われる。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。
東の国道401号線から見た砦の岡 岡の頂上部、お墓があった。 岡の上から見た東の国見集落