関屋城(長野市松代町豊栄)
松代から地蔵峠に向かう街道筋を監視する城である。
場所は皆神山の南東、豊栄小学校、明徳寺の南側の標高510m、関屋集落からの比高45m山である。

なお、すぐ南側の山ではなく、さらに小さな沢を越えた山の尾根先端部にあるので注意を要する。
この立地であるがすぐ南側の山からは松代方面の眺望はあるが、地蔵峠方面が死角となって見えないからである。

場所的には簡単に行けるように思えるのだが、意外と手ごわい。
この城のある山付近は猪がいるらしく、山裾を猪防御ネットが張られており、一部、電気柵も設置されているのである。
城に行くには明徳寺南裏から林道が延び、林道の入口が猪防御ネットの扉で塞がれているので、その扉を外して入り、林道を行く、
明徳寺の南の山の先端には給水場があるが、ここが城址ではない。

←西側から見た城址、集落背後の山である。遠くの山が地蔵峠、
峠を越えると真田の谷となる。
なお、ここで異臭が・・・そうあの動物臭である。
思わず撃退スプレーを手が延びる。
道を先に進むが城址などは見えない。
見えたのは既に耕作が放棄された畑の跡。

間違えたか不安になるが、尾根が西に下っているので試しに進んでみる。
すると下の方に堀と土橋、その先に土壇が見えてきた。↓F

そこが城址であった。
堀切Aは幅15〜20mがあるけっこう大きいものであるが、埋没が進んでいるようである。
中央に土橋@があり、12m四方の土檀Bがあり、その西側に35×20mの主郭Cがある。
この主郭南側に若干傾斜Dしている。
その周囲3m下に帯曲輪があり、北側さらに2段、南側2m下に1段、さらに1段の曲輪がある。

南側は石垣Eが確認されるが、一部コンクリートで固められており、後世の城址を畑として使っていたころのものと思われ、どこまで本来のものか判断できない。
しかし、耕作地にしていた割には城本来の姿はそれほど改変してはいない感じである。

基本的には単郭の城であり、物見用、監視用である。
尾根の末端にあり、尾根からは城内が丸見えである。
尾根を遮断する堀の規模が大きいがこの弱点を考慮したものであろう。
しかし、この程度でも城内は弓矢の射程内に入り防御は疑問である。

尾根続きにも石垣があるが、中途半端な場所にある。
これが城に伴うものか、耕作に伴うものか判別ができない。

@斜面を下ると堀切と土塁が見えてくる。 A堀切南側はかなり深く岩がある。 B曲輪東側の土壇
C土壇から見た西側に展開する主郭 D主郭部は南側に傾斜している。 E主郭南側の腰曲輪には石垣があるが、
本物かどうか疑問が残る。

↑G城東側斜面部にも石垣があるが、耕作によるものか、城に伴うものか?

築城は諏訪大祝出身の関屋氏というが、村上氏に滅ぼされてしまう。
ところで関屋氏の居館がどこかはっきりしない。

明徳寺の地が想定されるが、山の北側に位置し、日当たりはあまりよくない。
やはり南下の日当たりが良く、北風も防げる関屋集落の中にあったかもしれない。

また、関屋城は街道監視の城であり、緊急時の詰めの城ではない。
詰めの城がどこか分からないが、東の山中に埋もれている可能性がある。
関屋氏ごはこの地を支配した土豪東条氏または清野氏が管理していたと思われる。
もちろん、地蔵峠方面の街道筋を監視するための城である。

武田氏にこの地が制圧され、支配が安定すると使われなくなったのではないかと思われる。
(宮坂武雄「信濃の山城と館」長野・更埴編 参考)

霞城(長野市松代町大室) 

上信越自動車道霞長野ICを過ぎ、上越方面に向かうと金井山トンネルに続き霞トンネルがある。

 この霞トンネルがある山上にある城。
 東の奇妙山系から千曲川の流れる平野部に張り出した尾根末端の盛り上がり部にあり、主郭部分の標高は400m、比高60mとこの地方の山城としては低い。
また、山の全長も250mほどしかない。
 城域は底辺200m、高さ100mの二等辺三角形の形をしている。
 写真は南側から見た霞城である。盛り上がった部分が主郭部である。
 山の木を切ったら、何段かに重なった石垣が姿を現すはずである。

ここまではどうと言う事もない小城であるが、この城の特徴は石垣を持つ点である。
 石垣を持つ城はこの地方では珍しくはないが、その石垣構造は戦国末期の織豊系であることが大きく異なる。

 ただし、城の北 三分の一は土主体の城であり、古い様相を示し、南三分の二が完全な石垣造りとなっている。
 北東斜面は急であり、曲輪も石垣もない。

 石垣造りの部分は、階段状に曲輪を展開させている。
 2、3、4、5、6の曲輪周囲は全て石垣造りであり、城の南、西に面する部分は全て石垣ということになる。

 特に曲輪2の西側は高さ2mの石垣が50mほど続き、途中折れがある技巧的なものである。

 他の石垣は1m程度のものであるが、折れ、屈曲が多い。
 石垣は平たい細長い石を組み合わせるものであり、積み方はこの付近の城と余り違わない。
 

曲輪2西側の石垣。高さは2m。 曲輪2南西端の石垣。 主郭部西の堀切。ここから先は石垣はない。
本郭南側の石垣。高さは1m程度。 曲輪2南側の石垣と虎口。石垣の高さは1m。 主郭部東の斜面を下る竪堀。

本郭南面には余り石垣はない。北側の虎口は総石垣造りである。
 曲輪2の南側に虎口跡3箇所ある。
 大手口は南側の曲輪7であるが、半分砕石場となって隠滅状態である。
 南の麓に小滝遺跡があり、館跡が検出されている。

井上氏系の大室氏の城である。
 ただしいつ頃築かれたのかは分からない。
 大室氏は武田氏の侵攻で武田氏に従い、武田氏滅亡後は織田家臣森氏に、その後、上杉氏に従う。
 上杉氏時代の資料には大室源次郎の名が見え、彼が城主であったと思われる。

この地は積石塚古墳群の密集地である大室古墳群があり、この山にも霞城支群があったので、元々、城があったとすればある程度の石垣があったものとは思われる。

今残る姿は森氏統治時代に織豊系の築城技術を導入して整備された姿であると思われる。
 武田氏が滅び、豊臣秀吉による天下統一がされると戦闘目的の険しい山にある山岳城郭はすたれ、政庁的性格の平城や平山城が主体になる。
 この城も山城と言うよりは平山城に近いものであり、木を切れば石垣が目立つ視覚的要素が強いと考えられ、領主の実力をアピールする目的、見せるための城と言える。