海津城外郭城砦群2

寺尾城(長野市松代町東寺尾)

 海津城に最も近い南側の支城が竹山城とすれば、最も近い北側の支城が寺尾城である。
 距離としては約2kmである。
 上信越自動車道長野インターチェンジの東側の山にあり、直線連郭式の尾根城郭である。
 長野インターチェンジから見れば山上の郭や堀切もくっきり確認することができる。
 城のある山は北から南西に1qほど延びる尾根の中央部の若干高いピークに本郭を置き、城域の長さは400m程度にわたる。
 本郭部の標高は450m、比高は100mである。城の東側には低地を隔て雨飾城が聳えたち、北側には金井山城が迫る。
 西下は長野電鉄河東線と上信越自動車道が通る。(かつてはここに千曲川が流れていたという。) 

城はこの地の土豪 寺尾氏が築いたといわれる。寺尾氏はすでに建久元年(1190)源頼朝に従って上洛した中に「寺尾太郎」、「寺尾三郎太郎」の名が吾妻鏡に見える。
戦国期は村上氏の被官であったが、天文18年(1550)武田氏の命を受けた真田幸隆にそそのかされて、村上氏に背き攻撃を受けたことがある。
これを契機に武田氏は戸石城を攻撃する訳であるが、寺尾氏が村上氏と和睦したため、武田氏は村上氏の反撃を受けて戸石崩れという大敗を喫する。
 武田氏が川中島地方を制圧すると武田氏に属するが、武田氏滅亡後は上杉氏に従い、会津転封に同行しこの地を去った。

城へは南側の愛宕神社より登るが、登り道はあるようなないような、ひたすら雑木林の中を登る。
 斜面には所々石垣がある。城の遺構かと思ったが、下の民家への岩の滑落防止用に造られた後世のもののようである。
城は大体次のような感じである。

西下から見た主郭部。右の高い場所が本郭。
少し下がった左に堀切2と郭、堀切3がくっきり見える。

 城の遺構はやや平坦になった場所から現れる。
 まず、長さ150mもある8の平坦地が現れ、その周囲は補強用の石垣が積まれる。
 その先には7、6の堀切が2箇所あり、曲輪が段々となる。この付近の東側斜面には曲輪が3枚ほど見られる。
 西斜面は勾配が急であり、曲輪はない。曲輪間の高度さは最大5m程度あり、徐々に登っていく。
 本郭は堀切5から1段の曲輪を介して入るが、桝形がある。 本郭は20m四方の大きさで周囲は土塁に囲まれる。
 一部、石垣が残り、郭の下にも崩落したと思われる岩が転がっているため、本来は本郭の周囲は石垣で補強されていたものと思われる。

8の曲輪東側の石垣。 6の堀切 5の堀切底から本郭部を見上げる。 本郭南の曲輪から見た本郭虎口
本郭内部。周囲は石塁に囲まれる。 本郭北側3の堀切 4の堀切 北側から本郭部を見る。


 本郭には寺尾氏の墓が建ち、北側が一段と高い。本郭の北側は高さ8mの切岸になっており、堀切2が切られ、その北側には3段の小曲輪を経て、落差6m程度の深い堀切3となる。
 その間、東斜面に竪堀が2本駆け下りる。さらにその北側に深さ3mの堀切4があり、その北は比較的平坦であるが城郭遺構はない。
 さらに北側にある物見台と思われる高台まで行ってみたが遺構と思われるものは確認できなかった。

金井山城(長野市松代町東寺尾)

寺尾城の北、上信越自動車道長野インターチェンジの北側の山にある直線連郭式の尾根城郭である。
 寺尾城同様、長野インターチェンジから見れば山上の郭や堀切もくっきり確認することができる。
 城のある山は保基谷山系から北西に突き出た岩盤質の尾根の東側、標高480mの高いピークに本郭を置き、城域の長さは400m程度にわたる。
 比高は130mである。ちょうど本郭の下を長野自動車道金井山トンネルが貫通する。 

南側から見た主郭部。右側の平坦地が1の本郭、左に少し下がって2の郭、
大堀切3が見え、やや登って4の大岩があり、左端が6の堀切。
岩盤が剥き出しの山に城がある。
千曲川を挟んだ対岸の川中島古戦場から見ると、ちょうど山が真東にせり出した感じに見える。
 北側と南側は切り立った崖であり、背後、東側、保基谷山側との鞍部(標高430m)を鳥打峠が通る。
 かつて千曲川は金井山の先端部を巻くように流れていたため、千曲川東岸を松代に入る道はこの鳥打峠を通っており、寺尾城と金井山城はこの峠を扼する城であった。
 千曲川の跡は河跡湖である金井池として山の西端に残る。(ここは釣のメッカであり、小学生の時に良く釣に来た遊び場である。)
 築城時期は不明であるが、寺尾氏の家臣、金井氏が城主であったと言われる。
 主郭部は鳥打峠側にあるが、西側の先端部から城址に向う。

 途中までは金井山公園として道がついているが、途中から道はなくなり大きな岩がごろごろした場所を登る。
 この山には積石塚古墳群で名高い大室古墳群の金井山支群があり、途中にいくつかの古墳がある。
 城址に向って行くと直ぐには城の遺構は現れない。

ただし、物見と思われる場所はある。
 一段高い場所8があり、物見台かと思ったが、背後に回ると石室の入口が開口しており直径20m、高さ5m程度の円墳であった。
 ここまで山の西端からは500mはある。その間、道は大岩の間をだらだら登ることになる。

 この古墳は高さからして戦国期には物見台としてかっこうであり、そのように使っていたものと推定する。
 ここからが本郭的な城域である。
 古墳を過ぎると不思議な場所がある。
 尾根一面が人工的に南北両側から交互に半分づつジグザグに堀切たように凸凹している。7の場所である。
 ところどころは方形堀である。
 このため、尾根上を蛇行するか、堀を登り降りしないと先に進めない。
 このような場所が70mほど続く。
 おそらく、主郭部への侵攻を遅延させるためのものと思われる。

 ここを過ぎると巨大な堀切6が行く手をふさぐ、高さ5m、幅10m程度ある。
 岩盤が垂直に切り立ち、両側は急斜面を竪堀が駆け下りているため、ここを突破するのはかなり危険であった。
 ここを過ぎると巨岩4が立ちはだかり、まるで何かのモニュメントのように見える。

 40m程行くとその先にまた巨大な堀切3があり、その先が本郭部である。
 この堀切3の深さは7mほどある。本郭部側には一部、石垣がある。
 本郭は西側に帯曲輪2があり、その一段上が本郭1であるが、この段差は石垣で造っている。
 本郭の周囲は石塁で囲まれ、鳥打峠を見下ろす東側に櫓台跡と思われる高い場所がある。
 もう一つ北西端に石を積んだ高い場所があるが、これはどうも積石塚古墳の残骸のようである。
 石垣を多用しているが、その石も付近の積石塚古墳を破壊して転用したものかもしれない。
 本郭の東は急斜面であるが、東下に物見台のような大岩5がある。

金井山の先端部に残る千曲川の
河跡湖である金井池。
8の高台。実は古墳。
物見台に使っていたものと思われる。
8の高台の南に廻ると古墳の入口がある。 7の堀が交互に掘られ尾根全体が
凸凹し、蛇行しなけれはあるけない部分。
6の堀切。東側(本郭側)は岩盤が
剥き出し。
4の曲輪にある岩。 3の堀切。本郭側の上部は石垣がある。 2の郭から本郭を見る。
石垣が前面を覆う。
本郭西の石垣。後方に石の塁が
ある。積石塚古墳か?
本郭内部。周囲には石塁がある。
東端に高台がある。
正面の山は雨飾城。
本郭東側の5の岩。物見台か?
この下側が鳥打峠。
本郭の真下を上信越自動車
道金井山トンネルが貫通する。


 ともかくこの城は要害堅固ではある。南北の崖側からは攻めようもなく、先端部には千曲側が回りこんで堀になっている。
 川を越えれば、この方面から攻撃は可能ではあるが、巨岩が立ちはだかりかなりの障害となる。
 ただし本郭の西側の防御が固いため、尾根先端部からの攻撃にはかなり神経を尖らしていることが伺える。
 東側の鳥打峠側から登れるがかなり急である。
 攻撃を受けた場合、上から豊富にある岩を転がせば容易に敵を撃退することは可能である。
 大手は本来、東側にあったのではなかったかと思う。
 しかし、この城は水が全く確保できそうもない。
 先端部の千曲川から汲むことは可能であるが、山道を1kmも運ぶのは重労働である。
 7の凸凹した場所はもしかしたら水貯であったのかもしれない。