陣場平城砦群(長野市七二会)
長野市西部、七二会地区は信州の代表的な山地集落地帯。
今は過疎化が進み、人は少なくなってはいるが、古くから人が住んでいた。

当時もこの地は穀物の生産などは少なかったはずである。
そんな場所にも人が住んだのは、この地が牧場経営に適していたからである。

当時は馬は重要な軍事物資であり、輸送機器でもあり、生産用機器でもあったわけである。
その経営を担ったのは長野県佐久地方の牧場経営のプロ、望月一族など。
鎌倉時代、かれらの一部がここに移住し開拓をおこなった。
また、ここは糸魚川からの塩の運搬ルートでもあった。

しかし、戦国時代、武田氏の侵略を受けて、彼らに生活は破たん、翻弄される。
結局、最後は武田氏滅亡後、川中島を占拠した上杉氏に従い、会津に移り。米沢藩士として子孫が今に続く。

そんな激動の土豪、春日氏、小田切氏などの牧場を経営していた土豪に係る城砦群がここにも存在する。
居館は中腹部にあるが、詰めの城が標高1200mを越える陣場平山の山系に点々と存在する。
そのうちのいくつかを。

↑の写真は川中島の南東端、松代から見た陣場平山である。
左手下の赤い屋根は長野市立博物館、すなわち、川中島の古戦場である。これらの城郭群は川中島合戦の目撃者でもあるのだ。


萩野城(長野市七二会若草)

七二会中心地から県道86号を戸隠方向に地蔵峠から南西900mの標高1178.4mの山にある。東峰、西峰からなる。
春日氏の戸屋城の詰め城と思われる。

戸屋城のある南斜面から登るハイキングコースも整備されているが、けっこう時間がかかるようである。
そんで、近道である北東側、県道地蔵峠の駐車場(標高1143m)から。所要時間30分。

まず、西の物見山1180mに向かい、物見山から城址の山に通じる標高1130mほどの300m続く尾根を行き、城の北側から東峰と西峰の鞍部に出る。

この間、結構アップダウンしており、比高50mを2回登り降りすることになる。

道は東峰の北側を回り込んで登るが、いやあ、東峰の東側の崖、凄いこと。

←の写真がその崖なんだけど。F
下を覗き込んだら足が震えた。
俺、高所恐怖症なんだ。

道は東峰と西峰の間の鞍部に出る。ここが大手曲輪というべきか。
北側に土塁があるが、風避けのようにも見える。

東峰の頂上までは比高15m程度であるが、途中は上のほうに腰曲輪がある程度。
頂上部分@は15m×10m程度の狭いもの。
東に尾根状に突き出た部分がある。
南側には堀切Aがある。

この東峰は標高1184mというので西峰より少し高い。
しかし、小さいものであり、物見台程度のものである。

一方の西峰の曲輪は大きい。
鞍部から上がって行くと、大きな岩Bがあり、南側に帯曲輪が延びる。

その反対の北側には竪堀が下る。
頂上部は幅20〜30mの細長い曲輪が西に続くが、総延長は100mほどある。
東側が若干高く。
ここが本郭Cであろう。

その西に深さ4mほどの堀Dがあり、長さ80mほどの細長い曲輪Eが続く。
尾根を平坦化したのであろうが、けっこうな土木工事量である。
このから南に延びる尾根の末端が春日氏の拠点、戸屋城、春日山城であり、ここが詰めの城である。
しかし、この大きさ、これは住民の避難スペースであろう。
果たして、実際ここに住民が避難した事態はあったのか?

←は東峰頂上から見た南東の川中島方面である。
手前の集落が七二会地区、春日氏の領土である。
その向こうの山には吉窪城、小松原城が見える。
川中島は霞んでいる。
@東峰の頂上部。物見の曲輪だろう。 A東峰南側の堀切 B東峰と西峰の鞍部から見た西峰の虎口
C西峰の東にある本郭部 D西峰の曲輪はこの堀で二分される。 E西峰西端から見た曲輪内。総延長は100mほどある。


萩野北城(長野市七二会若草)
地蔵峠から萩野城に向かう道にある山の名は「物見山」という。
この名前、ずばり城ではないか!
でも、城郭と登録されていないようである。

宮坂武男氏の著作にも掲載されていない。
道を歩いていた時、北の斜面に竪堀が数本下っているのが確認できた。
萩野城に通じる幅10m程度の尾根筋も平坦化されており、段々状になっている。

堀や土塁、曲輪のような平坦地もある。これは間違いなく城郭遺構であろう。
山頂に登ってみると、山頂部は平坦化されており、2,3段の曲輪が存在する。
最上段のものは15m×10m程度の広さである。
東側は崖である。
北側だけが傾斜が比較的緩いので竪堀が構築されたのであろう。

地蔵峠方向にも段々状に曲輪があり、竪堀らしいものが下る。
(かつての山道かもしれない。)
なお、山の西側にも尾根が続いており、その方面に堀切が存在する可能性もあるが、行かなかった。
萩野城の北を守る砦と言えるだろう。
一応、萩野北城と名付けておくことにする。
@山頂の曲輪、段々になっている程度のもの。 A北に下る竪堀 B萩野城に続く南の尾根に展開する曲輪群

小野平城(長野市七二会小野平)
城址の標高は1166.9m、波多古城、旗古城とも言う。
陣場平山の北側を走る林道馬場平線の東の終点で林道坪根線と林道小野平線が分岐する。その場所、坪根峠の標高は1150m、ハイキング客用の駐車場がある。
そこから東に延びる尾根を行けば城址であるが、道などない。
ひたすら木の枝をかき分け尾根を進むのみ。

しかし、それほどの藪ではないので冬場なら問題なく進める。
尾根は凸凹しており、高さ7mのたんこぶのような山を越える。

すると城西端の堀切に出るが、ここはかなり埋もれており、見逃してしまうような規模である。

その東に小山があり、それを越えると若干平坦な鞍部@となる。
この鞍部の南側は崖状の急斜面、北側は緩斜面であり、下に林道小野平線が望まれる。

鞍部の先、東側に2本の堀切があり、その東に土塁を持つ曲輪がある。
その土塁の東に堀切Aがあり、堀は横堀状に北に延びる。南は竪堀となる。

高さ7mの切岸を越えると主郭部であるが、途中に土塁があり内部が仕切られる。
その東に5m四方ほどの土壇Bがある。

この城は東方向に勢力を持つ小田切氏が西に備えた城という。
しかし、明らかに見ているのは東方向のように思える。西に朝日城があり、朝日城の方が40mほど高く、見下ろせる。
朝日城も小田切氏の城であり、小野平城がその番城とすれば小田切氏の城ということも考えられる。

当然、その場合は想定の敵は西の勢力、春日氏であろうが、両者が敵対することは果たしてあったのか。
しかし、城にそれほどの緊張感は感じられない。
戦国時代前期に使命を終え、この地が武田氏による侵略に晒されたころはすでに使命を終えていたのではないかと思われる。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。
@西側の鞍部、小屋でもあったのか? A本郭(右)下の堀切 B本郭の土壇にある三角点

朝日城(長野市七二会小野平)

宮坂武男氏の「信濃の山城と館」でも取り上げていない城である。
林道馬場平線の終点で林道坪根線と林道小野平線が分岐する場所、坪根峠の駐車場から小野平城と反対の西の山に登る。

その山標高1210mであるが、ダラダラした登りが続く、丸っぽい山である。
登るのはけっこう疲れる。
その山頂が朝日城であるが、「城」と名が付くようなレベルのものではない。ここは典型的な狼煙台である。
それでも城郭であることは間違いない。

山頂部の遺構@は東西25m、南北8mの楕円形であり、周囲を高さ80p程度の低い土塁Aが覆い、西側に虎口、土橋らしいものがあるのみである。
周囲を探索してみたが、周囲は緩やかに傾斜した斜面で、南下に平場Bが確認できるのみである。
葭きり物見が西700mに望まれる。
小野平城からは直線で500mである。
想定の敵の方向が東か西か分からないが、いずれにせよ戦闘を行う城ではない。
小野平城とパックで運用していたのではないかと思われる。
合図の狼煙を上げた後、城兵は速やかに撤収するのであろう。
@遺構は狼煙台程度のもの。東屋が建つ。 A周囲を巡る土塁は規模が小さい。 B南東下の平場は駐屯スペースか?


葭きり神社物見(長野市七二会坪根)

地蔵峠より林道を馬場平林道を東に1.5q進と、山に登って行く道があるのでここを進む。
途中に広い場所があり、車でそこまで行くことができる。
ここは神社に参拝する者のための駐車場と思われる。

物見はそこの北側の標高1250.5mの山にあるが、駐車場から山に向かうとまず堀切がある。

そこからは比高40mを登るのであるが、その道、岩がゴロゴロ、しかも急坂であるので息があがる。
物見のある山頂部は「く」の字形をしている。

鳥居@から80mほどで社殿であるが、その間は比較的平坦な尾根の参道であるが一段低く帯曲輪がある。
社殿のある曲輪の手前に堀と土橋Aがあるが、小規模であり風化している。本郭に建つ神社の社殿Bが変わっている。
石積の古墳の石室の中に建物がある感じなのである。
これは積雪や寒さにたいする防御なのであろうか。

曲輪はさらに東に50m細長く曲輪が延びる。
ここも特段、凝った遺構はなく物見程度のものである。
西の萩野城の東の警戒施設であろう。
北の戸隠方面、東の川中島方面と西側以外の眺望が開ける。
果たして東の朝日城との関係は、敵対する城か?それとも一体の城か。


宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。
@神社入口の鳥居、ここから細長い曲輪が続く。 A主郭直下の堀切と土橋 B神社社殿、まるで竪穴住居?古墳の石室?

戸屋城(長野市七二会橋詰地蔵堂)
七二会中学校の西、直線で600m、県道401号を西に走った標高720mの山にある。
この地の土豪、春日氏の城という。
城には1軒の民家があり、号を戸屋林といい、石坂家が建つ。


↑昭和50年 国土地理院撮影の城址付近
右上付近がBの撮影位置。
下側の道路は県道401号線。
城址の山の東から南、そして西を回る。
←は西側、春日山城の東下から見た城址。

南の先端が本郭Aであり一辺50mの三角形、その中に高さ3mの東屋が建つ土壇がある。

その北に幅30mの曲輪、そして5mの切岸Bの下に石坂家、さらに北下5mに曲輪があり、さらに2段の曲輪があり、集落となる。
集落がおそらく根小屋であり、ここの標高は700mである。
城の広さとしては120m×60mである。

江戸末期、弘化4年(1847) 5月8日に発生した善光寺地震で一部が崩落して形が変わってしまっているという。
どうもその場所、現地を見た感じでは本郭の東側ではないかと思う。
@北側からの登り口。
石坂家があり、曲輪が段々になっている。
A本郭の土壇には東屋が建つ。
かつてはここで牛が放牧されていたとか?
B本郭北側の曲輪の切岸。右が石坂家の敷地。

この部分には帯曲輪が存在していたようにも思われる。
また、かつては本郭では牛が放牧されていたというので改変を受けているらしい。

承久の変でここに所領をもらった佐久の春日出身の春日氏の居城であり、春日氏はこの七二会地区を支配していたという。
戦国時代は村上氏の家臣であり、そのまとめ役が小田切氏であったようである。

村上氏、小田切氏が武田氏の侵略で没落すると武田氏に下り、のち笹平城に移る。
武田氏が滅亡し、上杉氏に占領されると上杉氏にしたがい、最後は上杉氏に従い会津に移った。
なお、ここの城主の春日氏、笹平城の項で書いたように越後出身とも言われるが、佐久出身説と2通りが存在することになる。
この付近の土豪である小田切氏、布施氏、いずれも佐久出身であり、春日氏も佐久出身の可能性の方が高いと思うのだが。
越後説は春日山神社からの連想か、あるいは会津移封後の経歴改ざんか?


←は城址から見た南東方向、家が多くある集落が小中学校がある七二会の中心地。
川中島は遠くに霞む山の向こう側。
撮影場所の下側が善光寺地震での崩壊部か?。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。

春日山城(長野市七二会御射山)
思わずあの超有名な城を思い浮かべるが、ここは全く違う同名の別城。
こちらは本当に城だろうかと「?」マークが付くような物件である。


↑ 城址から見た南東方向。正面が川中島。
谷間に犀川が流れ、小田切ダムのダム湖が見える。
その左の盛り上がった山が吉窪城。
反対側が小松原城。


長野市の西の山地、七二会中学校の西、直線で900m、県道401号を西に走った標高756mの山にある。
戸屋城からは寺社堂沢を挟んで直線距離で南西600mである。


この地に来た春日氏が始めに居館を構えた場所という。
春日山神社があり、周囲は公園化されているためここまで車で来ることがで、駐車場もある。
@神社入口は虎口状になっている。 A境内の土壇、何が建ていたのだろうか? B神社社殿は北側の少し低い場所にある。

境内は150m×70mの広さ、参道の西に土壇Aがある。
春日山神社の社殿Bは北の低い場所にある。
周囲は緩斜面であり、居住性は問題ないが、全く要害性はない。
でもこんな山の中までやってくる敵もいるのか?
戸屋城に移転後はの西の物見として使われたのであろう。
しかし、ここから見る北アルプスの風景、絶品である。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。

飯森城(長野市七二会飯森)

国道19号線を犀川に沿って、長野から松本方面に走行し、小田切ダムを過ぎ、ダム湖にかかる小笹橋を北にわたる。
そのまま進むと生活改善センターがある。
その西の高台が城址である。
上にはお堂があり火の見やぐらが建つ。南側は高さ5mほどの切岸になっている。
岡の上は50m四方程度の広さで墓地になっている。
西側の犀川側は崖になっている。
東側の生活改善センターのある場所は堀の跡である。
小田切氏の街道筋、犀川の水運を監視する城ではないかと思う。

↑東側、小田切ダムのダム湖越しに見た城址
@生活改善センターから見た城址。 A城内は墓地になっている。

宮坂武男:「信濃の山城と館」参考。