荒砥城(千曲市戸倉)
 千曲市の千曲川左岸、戸倉上山田温泉の西側にある山が城址。
 この地は中世、村上氏の支配地であり、千曲川が上田盆地から長野盆地に抜ける谷部に当たり、この谷に沿った山には村上氏の本城葛尾城等、村上氏系の多くの城郭が築かれている。
 築城は大永4年(1524)村上義清の家臣、山田越中守二郎によると伝えられるが、山田国政は天文20年(1551)真田幸隆の戸石城攻撃で戦死、その後、村上義清の葛尾城落城により荒砥城は武田氏に帰属した屋代政国に与えられた。

 川中島合戦が始まるとこの城も争奪の対象となり、落城、奪還を繰り返す。
 城主屋代政国は武田方で永禄4年(1561)の大激戦に参陣して戦死し、養子屋代秀正が城主になる。

 武田氏が滅亡し、川中島地方が上杉氏に占領されると屋代秀正は上杉氏に帰属し、海津城代になるが、徳川家康にそそのかされて上杉氏に反抗、天正11年(1583)荒砥城が上杉軍に攻撃され落城、屋代秀正が逃亡し、この時点で城が廃城となった。

 足掛け60年程度の寿命の城であったが、波乱万丈、境目の城の苦悩を代表するような歴史である。
 武田、上杉、徳川といった強豪大名の中で生き残りを図り結局は敗れ去った屋代氏の苦悩が見えるようである。
 (徳川氏に従った屋代氏は江戸時代、一時、大名までなったため、敗れ去ったというのは言い過ぎか?)

 さて、城であるが、荒砥城は数多くある信州の山城の中ではマイナーな部類に属する。

 ここも信州の山城に特徴的な複合城塞群であり、4つの城からなる。
一番低い位置にあるのが本城に当たる荒砥城である。
 低いといっても標高は600mあり、麓からの比高は200m、傾斜はきつい。
 城は西の姥捨山山系から東に伸びる尾根の末端に築かれているので、尾根筋を守るように荒砥小城、若宮入山城、証城が西に向かって築かれている。

 最高位置にある証城の標高h900m近い。これらは本城の荒砥城に比べれば小規模であり、砦程度のものである。

 各城の間は堀切で遮断されている。
南の山麓には城主の平常時の住まいである二ノ入館があり、荒砥城は館を守る城、緊急時の避難場所である。
これらは戸石城と全く同じコンセプトである。
 

城址はかつては荒れていたが、近年、見事に復元された。
 復元といえば長野市の大峰城のように中世城郭の城址に近世城郭にしかない天守閣を建てるなどのメチャクチャな例が多いが、この城は完全な中世城郭として復元されている。
 当時の戸倉町の復元委員会のこだわりは大したものである。
 ちなみに委員長の故森嶋稔氏(元長野県考古学協会会長)は小生の小学校時代の恩師である。

 城の五郭が駐車場であり、そこまでは車で行けるが坂は急である。
 復元された城の縄張りはかつてのままと思うが、こんなに石垣があったのかな?と思う。
 でも柵列、城門、物見櫓等は完全に中世の姿であり、中世城郭についての確かな考証に基づいている。
 天守閣、高石垣、城壁に代表される近世城郭を見慣れた普通の人にとっては奇異な感じを受けるかもしれない。
 城址からの眺望は抜群であり、眼下を流れる千曲川の流れ、葛尾城等の山城群が一望の下に収められる。

南側から見た城址。 二郭に建つ物見櫓。 二郭の城門。 二郭城門内。
二郭から見た本郭。 本郭内から城門を見る。 同左 本郭から見た二郭。
城門内を入ったところ。 城址から見た荒砥小城。 城址から見た葛尾城と千曲川。 城址から見た岩井堂山城。

屋代城(千曲市屋代)

 「しなの鉄道」屋代駅の東側の山、一重山が屋代城址である。
 この山は南の有明山から北に延びる尾根であり、東西は平地であり、西は屋代駅がある屋代市街、東には長野新幹線、上信越自動車道が通る。
 また、一つ東の尾根上には有名な森将軍塚古墳がある。

 城址は一重山公園として遊歩道が付いており、北端部から登って行ける。
 しかし、遊歩道は余り整備された状態ではなく、夏は草ぼうぼうであり、探索に苦労する。
 肝心の城であるが、どこからどこまでが城域であるのかは論議がある。
 多くの文献には一重山にある主郭部300mのみが城域のように記載されているが、その北側にも城郭遺構が明瞭に残り、尾根の先端部からが城域であると考えられる。
 全体としては総延長1q近い大規模城郭である。
 ただし幅は35m程度が最大であり、うなぎの寝床状の尾根城郭である。

戦国城郭としてはこの付近では最大級であろう。
 城は2つの部分からなり、一重山の部分(南城という。)とその北側の御岳神社のある山(北城という。)からなる。

 一重山は標高458mあり、御岳神社のある山は標高420m、その間の鞍部は410mであり、丸子城、井上城と全く同じ一城別郭構造と言える。

 麓の標高が360m遺構であるが、南城の南部分120m分が土取りのため隠滅しているが、他の部分はほぼ完全に残っている。
 北の登口から登ると墓地があるが、この部分も郭であったと思われる。
 さらに登ると矢代神社が建つ平坦地に出る。ここは50m×20mもある平坦地であり、馬場であったのであろう。
 3mほど一段上の15m四方の忠魂碑の建つ郭の背後に堀切があり、明確な城郭遺構はここから見られる。
 

 ここからがいよいよ北城の領域である。
 北城は長さ100m程度の規模であるが、郭は3つ程度しかない。
 最南端の30m×20mの郭が本郭であるが、本郭の手前には前面に土塁を持つ大きな堀切がある。
 本郭内には鳥居が建ち、南端に高さ1m程度の櫓台と思える土壇がある。

 土壇の北側はえぐれて竪堀となって斜面を下る。本郭の南は一気に15mほど下り、鞍部になるが、ここは80m×20mの大きさがあり、完全な平坦地である。
 スペース的に館か何かがあってもおかしくはない。

北城の八代神社の建つ平坦地。 八代神社を過ぎると堀切がある。 北城本郭北側の堀切。
北城本郭には御岳神社があった。 北城本郭より見た南城。 北城と南城間の鞍部。館跡か?

 鞍部の平坦地の南が南城である。
 平坦地から本郭までは比高50m、水平距離180mを登ることになる。

 北城に比べればはるかに複雑かつ精巧な遺構が見られる。
 本郭までに10程度の郭が見られ、堀切も4つある。
 全ての堀切は前面に土塁を持つ。

 最高部が本郭であるが、35m×20mの平坦地である。
 その北2m下に二郭がある。30m×25mの広さがあり、この2つの郭はかつて桑畑であったという。
 土塁が存在していたのではないかという説もある。
 二郭の北は小曲輪を経て一気に7m低くなり、下に堀切と土塁がある。
 その北側が三郭である。25m×15mの広さがあるが内部は北側に傾斜している。
 本郭の南側は腰曲輪が1つあるのみで崖となる。あと4つの郭と5本の堀切があったというが土砂取りでなくなってしまっている。

南城三郭北の堀切。 崩落した石垣か? 三郭南の土塁と堀切。
三郭南の堀切。 二郭から見た本郭。段差があるのみ。 本郭の南の曲輪。ここから先は失われ
ている。

 予想以上の大型城郭であり、この規模の遺構が残っているとは思っていなかった。
 山城ではあるが、この付近の山城としては比高100mは低い部類に属する。

 千曲川が狭隘部を抜けて長野盆地に出る部分に当たり、戦略的に重要な場所にある。
 対岸の塩崎城と連携して川中島合戦でも整備され、駐屯地等として利用されていたものと思われる。
 屋代城は屋代氏の城であるが、この一族の物語も井上氏や須田氏同様ドラマチックである。

 屋代氏は村上明国の孫、家盛が分家し、地名を採って屋代を名乗ったのが始まりという。
 以後、村上家の重臣として「永享の乱(1440)」に村上氏の代理として出陣するなど活躍し、以後ずっと村上氏の重臣の位置にあった。
 武田氏の侵攻が始まると屋代氏は始めは村上氏に従って戦うが、いち早く村上氏を裏切り武田方に付く。結局これが葛尾落城の直接的要因となる。
 以後、武田氏の家臣となり、信濃先方衆として仕える。武田氏滅亡後は、当主、屋代秀正は北信濃を制圧した上杉景勝に従う。

 そしてかつての主家、故郷に復帰した村上義清の子景国の副将となる。
 しかし、自家を裏切り、辛酸を舐めさせた原因を作った屋代氏は村上景国と上手く行くわけがない。
 そのうち確執が起き、この地を狙う徳川氏の諜略で上杉氏を裏切り反乱を起こす。
 この時、屋代氏が立て篭もったのは屋代城ではなく、荒砥城である。

 結局は上杉氏の攻撃に敗れて徳川氏の下に逃れる。
 以後、徳川氏の下で上杉征討や大坂冬の陣、夏の陣にも参陣して旗奉行をつとめている。
 一時は安房国で一万石の大名までなったが、屋代忠位の代に年貢問題で改易され、祖先の軍功に免じて3000石の徳川旗本として続いた。
 もし、上杉氏に反乱を起こさなかったら、米沢で米沢藩士として存続していただろう。
 屋代氏にとっては3000石の旗本として残った方が、結果として良かったといえるかもしれない。

小坂城(千曲市桑原)
 長野自動車道小坂トンネルの貫通する山の上にあるのが小坂城である。
 小坂山から派生した尾根にある城という点では、赤沢城と同じである。

 赤沢城が東に派生する尾根末端にあるのに対して小坂城は南に派生する尾根にある。
 両城の距離は約1q、赤沢城の南西に位置する。
 尾根末端、標高570mの所に本郭があり、尾根沿いに城郭遺構が残る。
 この構成は鷲尾城と似ている。麓の稲荷山地区の標高が360mであるので比高は210mある。
 小坂山に続く尾根筋に大堀切が連続し、標高660mの山頂に着くここにも物見の郭がある。

 南東の山麓にある龍洞院から登るのが大手道であるが、登る比高を少しでも少なくするため、小坂トンネル南の入口の脇から登る。

 ここまでの道は道路沿いに案内板が何箇所も出ているので迷うことはない。
 トンネル脇の蟹沢の谷から登って行くが、谷は深く山の斜面は急、岩が剥きだしになっている。
 比高を稼ぐと言ったがそれでも本郭までは90m近い高さを登る。

  訪れた時はこの日3城目の山城であったので、息が上がっている。
 ともかく、15分位の格闘の末、本郭北側の堀切@に出る。
 ここは堀切兼曲輪であり、西側に2段の曲輪を持つ。
 その切岸は石垣で補強されていたようである。

 本郭はこの堀底から8mの高さがあり、切岸は急傾斜である。
 本郭は46×29mの大きさがある楕円形である。周囲に土塁等はない。
 石垣を多用していると聞いたが、本郭内には余り見当たらない。
 肝心の石垣は本郭周囲の土留め用に多用されており、本郭周囲の腰曲輪も全て石垣で補強されていた。

 ただし、年月が経ちかなり崩れており、腰曲輪内は上の曲輪から崩れた石がごろごろしている。
 本郭周囲には腰曲輪が2、3段あり、所々、竪堀が下る。
 この付近の構造は鷲尾城の本郭付近と良く似ている。
 この城を訪れる人は大体本郭までしか行かないのが普通であろう。
 しかし、この城の凄い遺構は本郭部付近ではなく、ここから小坂山山頂に向かう尾根筋にある。
南東の山麓から見た城址。 @の堀切兼曲輪を本郭から見る。 本郭内部。 本郭西側下の曲輪の石垣。
Aの二重堀切間にある石門? Bの堀切。 Cの堀切は竪堀になり豪快に下る。 Dの大堀切。すでに越える力なく。

本郭の北の堀を越え、北側の郭(二郭?)に入る。
北側の小さな堀切1本と小さな二重堀切がある。
 ここを越えると登りとなる。東側斜面は崖である。
 水平距離で100mほど、高さで30mほど行くと二重堀切Aに出る。深さは8mはあろうか。

 堀間には普通土塁があるが、ここには大きな岩が2つあり、中央が空いて門のようになっている。
 おそらく門に間違いないが、どちら側への入口か迷う。
 本郭側なのかそれとも小坂山の山頂側なのか。

 その北側に深さ8〜10mある豪快な大堀切B、C、Dが3本続き、山頂の郭に至る。堀切はそのまま大竪堀となって斜面を下って行く。

 塩崎城も赤沢城も小山の尾根末端にあり、この3城は尾根伝いに繋がり、お互い連携していたのであろう。
 

 赤沢氏がこの地の土豪桑原氏を重臣に取り立てて築かせた城という。
 武田氏の侵攻により赤沢氏没落後は、武田氏に属した井上氏系の保科氏が城主になったという。

 武田氏滅亡後は保科氏は上杉氏に属し、上杉氏の会津移封に同行してこの地を去った。
 なお、保科氏の一族は武田氏の時代に高遠に行き、仁科氏の重臣となった。
 後、徳川秀忠の3男保科正之が入り、会津に移り、松平姓に復帰。
 この子孫が会津戦争の主役を演じる会津藩である。


武水別神社(千曲市八幡)

小坂城の南東2km、稲荷山地区の南1.5kmに武水別神社がある。
 この付近で天文22年(1554)第1回川中島合戦,
八幡の戦いが行われたと言う。

 葛尾城を奪われた村上氏が越後の援軍を得て、この付近で武田軍を破り、塩田城、葛尾城を奪回。
 武田軍が反撃するが、布施の戦い(長野市篠ノ井)で越後勢に敗れ、再びこの付近まで押し返されたというのがこの戦いである。
 この神社は石清水八幡宮の分かれたものといい、上杉謙信の願文が残されている。
神社本殿 本殿の周囲には土塁が見られる。

松田館(千曲市八幡)
千曲市の千曲川西岸、八幡地区にある武水分神社の西側が館跡。
武水分神社の神主の館である。
神社に車を止め、県道77号を横断して住宅街の道を少し入るとこの館がある。

松田家の敷地になっており、史跡として整備が行われていた。南北50m、東西40mほどの広さであり、高さ3mの土塁がある。
本来はこの外側にも曲輪があり、複郭であったらしい。
堀は西側、北側に痕跡をとどめる程度であり、残りは埋められている。
東側以外は土塁と堀跡が残っているのだが、南側以外は道に面しておらず、隣家の敷地越しに土塁が見えるだけ、これじゃ写真は撮れない。

ともかく、土塁が結構、残っているだけで貴重である。
天正10年(1582)、武田氏が滅び、織田信長が本能寺で倒れると、この地は上杉景勝が占領し、遠山丹波守に知行させる。

天正12年、上杉景勝は、仁科盛直に松田氏を名乗らせ、稲荷山城の城代として、武水分神社の神主としてこの地も管理させる。

慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い松田盛直は会津へ去るが、松田縫殿助はこの館に居住し、武水分神社の神主を務めた。

天正10年(1582)、武田氏が滅び、織田信長が本能寺で倒れると、この地は上杉景勝が占領し、遠山丹波守に知行させる。
天正12年、上杉景勝は、仁科盛直に松田氏を名乗らせ、稲荷山城の城代として、武水分神社の神主としてこの地も管理させる。

慶長3年(1598)、上杉景勝の会津移封に伴い松田盛直は会津へ去るが、松田縫殿助はこの館に居住し、武水分神社の神主を務めた。
写真は館跡南側の土塁。
(日本城郭体系参照)

明徳寺館(千曲市羽尾)
長野自動車道姨捨サービスエリアの東800mに位置する。
JR篠ノ井線姨捨駅の南東1qにあたり、田毎の月で有名な棚田の間を通る県道338号線を麓方面に下って行くと、羽根尾集落があるが、その集落中にある明徳寺の境内が館跡にあたる。
この地は千曲川方面に向けた傾斜地であり、寺の地の標高は420mほどである。
この明徳寺は元々、この地にあったのではなく、移ってきたものという。
寺は元々、50m四方ほどの広さの方形館であったらしく周囲を土塁が覆っていたという。
その土塁、かなり失われててはいるが西側から北側にかけて墓地にかなり削られてはいるが残っている。
西から北を雄沢川が流れ、堀の役目があったようである。東側と南側にも堀があった可能性があるが、今では分からない。
館主等はまったく不明という。

館跡に建つ明徳寺 西側に高さ2mほどの土塁が残る。 西側館外から見た館の土塁。