善光寺
ご存知長野市のシンボル、というより善光寺の門前町が長野市である。
長野市のある長野盆地、別名が「善光寺平」ともいうので、この寺のネームバリュ−すごいものである。
正式には定額山善光寺。
宗派は天台宗と浄土宗の合同本山という変則的なもの。
はっきり言えば、無宗派の寺と言った方がよい。
全国から多くの人が参拝に訪れる超有名な寺であるが、謎に満ちた寺である。
もしかしたら日本最古の寺なのかもしれない。

天台宗は大勧進と25院、浄土宗は大本願と14坊により運営されている。
大勧進の住職は「御貫主」と呼ばれる。
一方、大本願は尼寺なのである。住職は「上人」と呼ばれる。
現在は公家出身の鷹司誓玉さんが121世法主となっている。この方が良くTVに登場する。
本尊は阿弥陀三尊という秘仏であり、誰も見たことがないという。
本堂の「瑠璃壇」と呼ばれる部屋に、その本尊が厨子に入れられて安置されているが、その厨子を運搬する際、カタカタいうとのことであり、確かに中に何かが入っていることは間違いないようだ。
この本尊は、欽明天皇の時代、552年に百済の聖明王から献呈されたものとされ、紆余曲折を経て推古天皇の命により本田(本多)善光の手で初め飯田市に、次いで現在地に遷座したと伝えられる。
本尊は非公開であるが、その代役として、前立本尊が本尊の役目を担う。
御開帳で見られるのがこの前立本尊である。
本物のコピーらしいが、こっちが重要文化財である。本物は何の指定も受けていない。

本堂正面、おなじみの写真 本堂裏側 本堂東側 山門
大勧進 仁王門 国重文の経堂 仁王門から見た参道

「善光寺」の名前は、本田善光の名から付けられたと伝えられる。
もう1つ。百済最後の王の息子で日本に定着した百済王氏の始祖である「善光」の名前からつけられたとの説もある。
しかし、これはあくまで伝説。

この長野盆地(善光寺平、川中島ともいう)は5世紀頃から百済や高句麗出身の人たちが移住した地域としても知られる。
日本海を経由し、信濃川を遡るルートでこの地に至ったらしい。
その物証として、千曲川東岸の大室地区は、高句麗に多い積石塚古墳の日本一の密集地帯である大室古墳群が存在する。
彼らは牧を経営する馬育成技術者であったらしい。
その移住者の守護仏として持ち込まれたものが、この阿弥陀三尊であったようである。
つまり、朝廷ルート以外でも仏教が伝来していたらしいのである。

なお、その高句麗系渡来民の子孫はどうなったか?
これは分からない。おそらくこの地の豪族、井上、須田、高梨氏などが子孫ではないのだろうか。
表向きには源氏を名乗っているが・・。

彼らは前九年の役でこの地を恩賞としてもらいやって来たということになっている。
しかし、それなら先住民との間に諍いが起こるはずである。そんな記録はない。
彼らこそが、渡来民の末裔ではないのか?
平安末期、木曽義仲の軍の主力に井上氏の騎馬軍団がいる。
牧を経営していた高句麗渡来民、この関係は?

仏教伝来の50年後、602年(推古天皇10年)に本田善光が仏像を信濃に持ち帰ったということになっているが、これは移住民の寺を大和朝廷の下に組み込んだことを示しているのではないだろうか。
だいたい百済の聖明王から推古天皇に献呈された貴重な仏像が、飛鳥からはるか遠いこの地になぜあるのだ?
飯田の元善光寺の伝承、これこそアリバイ工作ではないのか?
(この説、善光寺研究の第一人者の小林計一郎氏に聞いた話に管理人の説を加えたものです。なお、小林氏は管理人の高校時代の恩師です。)

はじめの善光寺がどこにあったか不明である。(徳間地区に謎の寺院遺跡が存在する。)
今の地からは、9世紀ころの遺物が出土しているので平安時代初期には今の地に寺が建っていた可能性がある。

鎌倉時代以降、善光寺信仰が爆発的に広まり、源頼朝をはじめ多くの参拝者が訪れる。
それとともに善光寺本尊のコピー像が多く作られ、日本の各地に「善光寺」や「新善光寺」が建てられた。
戦国時代、善光寺平は戦乱の舞台になる。

言うまでもなく信濃支配を狙う武田信玄と信濃国衆を支援する上杉謙信の争い、川中島の合戦である。
しかし、この合戦、実は善光寺本尊争奪戦でもあったという。
善光寺本尊があれば信仰で人が集まるという経済効果が狙いである。
このため、善光寺本尊は信玄により甲府へ移され、この時に建てられたのが甲斐善光寺である。

武田氏滅亡後、本尊は織田信長の手で岐阜へ、さらに豊臣秀吉により京へ移されるなどしたが、秀吉の夢の中で帰りたいと本尊が言ったということで1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃に戻った。
境内北側に残る堀跡 境内東に残る土塁

川中島合戦では善光寺は上杉軍の宿営地となり、ここを基点に謙信は出撃する。
しかし、境内に本陣を置いた訳ではなく、隣接する東の丘にある横山城であったらしい。
しかし、この善光寺自体も一種の城であり、東には土塁が残り、北側には堀と水堀が残る。
朱善光寺本尊があれば信仰で人が集まるという経済効果が狙いである。このため、善光寺本尊は信玄により甲府へ移され、この時に建てられたのが甲斐善光寺である。武田氏滅亡後、本尊は織田信長の手で岐阜へ、さらに豊臣秀吉により京へ移されるなどしたが、秀吉の夢の中で帰りたいと本尊が言ったということで1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃に戻った。

善光寺本堂、宝永4年(1707年)の再建。高さ約27m、間口約24m、奥行約53mの国宝建築である。
木造建築物としたは国内3番目に大きい。寛延3年(1750年)に完成の山門(三門)と経堂は国重文。

なお、善光寺の門前町を善光寺町と言ったが、今は長野市となっており、それが県の名前にまでなっている。
この長野という地名は善光寺の西の信州大学教育学部付近の字名で、山の末端斜面の緩傾斜地から長野と呼ばれ、善光寺付近は公式には「善光寺町」ではなく、「長野村」と言っていたという。
そのうち「長野村」という村名が一般的に使われはじめ、長野盆地一帯が長野市となり、旧信濃国が長野県というようになったという。
単なる1つの「字」名が1県の名称?冗談のような・・・。

横山城(長野市箱清水)

善光寺の東側に城山公園があり、公園内に信濃美術館、東山魁夷美術館がある。
その東が一段高く、彦分別神社がある。この神社付近が横山城である。

神社社殿裏に土塁が残る。川中島合戦で上杉謙信が陣を置いた城として知られる。
弘治元年(1555年)の第2次川中島合戦では、上杉謙信(当時は長尾景虎)はここを本陣を置き、犀川対岸の大堀館(更北中学校の地)を本陣とする武田晴信と対陣する。
この時、武田晴信は旭山城を強化し、謙信の南下を阻む。これに対して謙信は裾花川対岸に葛山城を置き、牽制。
そして南下を開始、犀川付近で戦いとなったが、勝敗は決せず、対陣が200日余と長期化。
今川義元が調停して撤退。

当時、横山城は武田氏に抵抗する小田切氏の家臣横山氏の城であったらしい。
さらに大激戦となったという永禄4年(1561年)の第4次川中島合戦では、妻女山に陣どった主力とは別に上杉軍の別働隊がここ横山城と旭山城におり、撤退する上杉軍の主力の撤退を援護し、上杉軍はここ横山城に終結したという。
川中島地方が武田領になると家臣の相木氏が管理し、武田氏が滅び、上杉領になると廃城になったようである。
この城、川中島合戦が圧倒的に有名であるが、築城は古く南北朝時代という。
善光寺自体が、政治的なものであったため、この城も多くの騒乱に巻き込まれる。
その最初は南北朝の騒乱である。観応2年(1351年)足利尊氏と直義兄弟間の争いで、直義方の祢津宗貞が攻めるが落城はしなかったという。

応安2年(1369年)、春山城(長野市若穂)の上遠野左近蔵人救出のため、関東管領上杉朝房が藤井下野入道横山城を攻撃、この時、善光寺が焼失したという。さらに嘉慶元年(1387年)5月、守護斯波義種に対して村上、小笠原、高梨、島津氏ら国人衆が横山城に集結。平芝にあった守護館を攻め、漆田原(長野駅付近)で合戦が行われている。

応永10年(1403年)には、細川兵庫助慈忠が幕府代官として横山城に入り、大塔合戦以来の混乱の収拾を図るが、村上満信、大井光矩、井上光頼、小笠原為経らが反発し、横山城を攻撃するが撃退される。
並の城以上のすごい経歴である。やはり、善光寺に隣接した城というためであろう。
横山城本郭の彦神社から見た西方の風景。正面に善光寺本堂。
左の山が旭山城。右の山が葛山城。
弘治元年(1555年)の第2次川中島合戦の時、上杉謙信が見た光景。
いや、この城は善光寺の一部というべきだろう。
@ 主郭に当たる彦神社境内 A 神社東の曲輪 B 神社社殿裏手に残る土塁 C 蔵春閣との間の道路は堀跡?

主郭であったという彦神社境内は独立した丘になっており、60m×40mほどの大きさである。
北側に土塁が残る。その南の80m×70mの境内が二郭跡か、その南の蔵春閣との間の道は堀切跡か?
境内北の長野市城山分室の地は80m四方の広さがあるが、ここも曲輪であろう。
城山公園側は今では分からない状態である。

葛山城(長野市茂菅)
善光寺の真西に位置する標高は812mの葛山山頂部にある城。
 川中島合戦では海津城、旭山城と並んで合戦を語る上で欠かせない城である。

 この山、見た目にはずんぐりしているが、結構険しい山である。
 麓の標高が400m程度であるので比高は400mを越える。

山上からは長野市内を始め、川中島全体を望むことができる。
 山頂部は南側と北東側は急傾斜であるが、他はそれほど急傾斜ではない。

 どちらかというとこの山は裾野部分の勾配がきついくらいである。
特に尾根続きの北側の荒安方面からはそれほどの比高差はない。
 葛山に登るには幾つかのルートがある。

 一般的なのは往生寺や静松寺から登るルートであり、小学校の遠足はこのルートで登るらしい。
 他にも葛山神社脇から及び北側の伊飯神社付近から登るルートがある。

 伊飯神社から登るルートが最も比高差がなくて、比較的楽であるが、付近は道が狭く車を置く場所がない。
 このため、比高は若干あるが、車も路上駐車できる標高630mの葛山神社から北尾根の曲輪群を通って登るルートで登攀した。
このルートでも比高180mを登る。登り道は杉林の中を通る。

途中で林道に合流するが、林道を横断してさらに登る。
 右の写真は北側の荒安地区から見た葛山城である。
 林道横の斜面には曲輪のような平坦地があるが、縄張図にもなく遺構かどうか分からない。

 少し登るとかなり標高730m地点の広い平坦地に出る。
長さが東西200m、南北50mほどある。
軍勢の駐屯場所のような感じである。
 ここから再び登り道となり、本郭に向かうが、まず二重堀切@が出迎える。
ここまで本郭からは水平距離で300m近くある。
堀底が道になっているが水が湧いていてスリップして転倒。
 ここを過ぎると曲輪、堀切が連続である。
ここが北尾根の曲輪群である。
 堀切が竪堀になりさらに横堀になって斜面を這う部分Bは見ものである。
最後の堀切を越え、2つの曲輪を通ると本郭北下に25m四方の広い曲輪Aがあり、本郭の急傾斜の切岸が迫る。
 本郭の高さは8m程度である。
本郭は40m×25m位の広さがあり、平坦である。ここからは長野市内、川中島一帯が一望できる。
 約2km南には第2回川中島の戦いで、上杉方の葛山城と対した武田方の旭山城がすぐそこに見え、堀切もくっきり確認できる。

 いかに堅固な旭山城でもこんなところから見られていたら全く動きは封殺されてしまう。
 現実には両城間には深さ400mもある裾花川の渓谷が横たわっており、お互いに攻撃するのは不可能であるが、心理的圧迫には効果があるだろう。

この葛山城は旭山城に篭城して上杉方の南下を牽制していた武田方に対して、上杉謙信(当時は長尾景虎)が武田方の旭山城の動きを封殺するために、地元の豪族葛山衆の落合氏を味方に取り込み、その城を改修したとされる。
 それまでの城は避難用の小規模なものであったと思われるが、上杉方がここに手を入れたと言われる。

 今残る姿は、上杉謙信が手を入れ、武田氏の攻撃で落城した時の姿というが、これは誤解であろう。
 若干の手を入れたのは事実であろうが、恐らくは今残る姿から比べたら小規模な城にすぎなかったであろう。
 今残る姿は、落城後、武田方の城となり、武田氏が滅亡した後、再び上杉氏が支配した時に拠点城郭として再整備しているので、2度目の上杉氏支配時代の姿であろう。

 武田氏の攻撃による落城の悲劇のみが有名であるが、その後、この城は30年以上機能している。
 この歴史を考慮しないととんでもない誤解をする恐れがある。

 城はT字形をしており、北方向だけでなく、西尾根、東尾根に曲輪群が展開する。
 西尾根の曲輪群は深さ10m近い大堀切Dで本郭が隔てられて展開する。
 この堀切は二重堀切となっており規模と深さが見所である。

 西曲輪群Eは極めてオーソドックスな堀切と曲輪が展開し、100mにわたる平坦な部分を過ぎると斜面に小さな曲輪群が展開する。
 総じて古い感じを受ける。
 一方、東尾根は全く様相が異なる。
 本郭とは深さ10mの二重堀切Fで隔てられているのは西尾根と同様であるが、その東は10本の堀切Gが連続し、斜面を竪堀になって下る。本郭との標高差はない。
 最東端に本郭と同規模の大きさの郭がある。(ただし藪が酷い。)まさに大規模な連続堀切、連続竪堀構造である。
 100mほどで堀切群が途絶え、下り斜面となるが、斜面には竪堀が這い回る。
 この点は大峰城と良く似ている。

@北尾根曲輪群先端の2重堀切。 A 北尾根曲輪群最南端の郭を
本郭から見る。
B北尾根曲輪群の途中では堀切が竪堀になり、
さらに横堀になる。
C本郭内部は平坦で整備されている。 本郭から見た旭山城。丸見えである。 D本郭西の巨大二重堀切、深さ10m。
E西尾根曲輪群、古めかしい感じである。 F本郭を東の堀切底から見る。
高さ10m。
G尾根には堀切が10本連続する。

残念ながら東尾根は熊笹が凄く、冬場でも遺構の確認が難しい。
 この尾根を下りていくと静松寺に至る。
 途中には出城があったという。

 葛山城は地元の豪族落合備中守の城である。
 落合氏は始め村上義清に従い、村上氏が没落すると上杉謙信に属する。
 第2回川中島合戦で旭山城を完全に封殺し、上杉軍の南下を容易にした点で重要な役割を演じる。
 このような重要性を持つ城であるため、武田信玄の目の敵とされ攻略対象に据えられる。

 武田信玄は弘治3年(1557)2月、越後はまだ雪が深く、上杉軍が出陣できない時期を見計らい、部下の馬場美濃守に命じ大軍でこの城を攻撃する。
 しかし、城の防護は堅固で攻めあぐむ。
 ところが、城は水が不自由で、城兵は崖から米を落とし滝があるように見せたり、米で馬を洗うように見せかけ、水は十分にあるよう偽装した。
 武田軍は中腹の静松寺の僧からこの事実を聞き、水を断ち、火攻めにし城を落としたという。
 この時、多くの女性達が谷に身を投げ、姫谷と呼ばれる谷底からは、後の世まで女の哀しい泣き声が聞かれると伝承されている。
 また、城跡を掘ると今でも焼けた米が出るという。

 この伝説は落城した山城にポピュラーな白米城伝説であるが、落城し、落合備中守以下が戦死したのは事実であろう。
 どうも実際は武田軍は包囲して心理的圧力をかけ、その間、武田氏が得意の諜略で落合一族を仲間割れさせて、親上杉派の落合備中守一統がクーデターが起き、それに乗じて武田軍が城に乱入したのではなかったかと思われる。
 水がないと言うが、北の曲輪群の堀底に水が湧いており、谷筋も結構水が流れていた。
 結構、水には苦労するような城とは思えないが。

 いかに戦国時代でもこんな山城を力攻めしたら多くの戦死者が出るのは目に見えている。
 さすがの武田軍もそんな攻撃はしないであろう。
 この後、武田方となった落合一族が城主となり、武田方の城として上杉軍を牽制することを期待され第3回川中島合戦を迎える。
 ところが武田方の城であり、講和条件として破却した旭山城を今度は、上杉方が再興し軍勢を入れるため、当初の目論見は崩れてしまう。
 城の支配者が全く交代してしまうのも面白い話である。