旭山城(長野市小柴見)
長野市街地の西にそびえる標高785mの旭山に築かれた城。
 山の比高は400mを測る。この山は南側にはやや傾斜が緩いが、東側、北側は絶壁状である。
 このため、南側川中島方面から見ると頂上が平坦で広い山のように見えるが、東側長野市街から見るとピラミッド状に見える。
 頂上部は東西に細長く、城郭はその尾根上の部分を中心に造られている。
 川中島の戦いでは、海津城、葛山城に並ぶ知名度を有する城である。
 城に行くには南斜面にある旭山観音堂まで林道があり、車で行ける。
 ここの標高は600mである。ここに車を置き、裏の道を上がる。
 この道が後述する大手道である。
 しかし、本郭までの190mの比高差は結構きつい。


 この城が歴史に登場するのは天文24年(1555)の第2回合戦である。

 しかし、実際は善光寺別当の栗田氏の詰め城としてそれ以前に存在していたと思われる。

 ちなみに栗田氏の居館は現在の長野駅東の栗田神社一帯にあった栗田城である。

 犀川以北への進出を図る(というより善光寺を支配化に置くことが目的か)武田信玄(当時は晴信)は善光寺別当職、栗田氏の内部分裂を利用し、栗田鶴寿を取り込み3000の援軍と300の鉄砲(これについては論議がある。 鉄砲が伝来して数年しか経っていないこの時点で300挺も揃えられるのか?

ここでいう鉄砲とは火縄銃ではなく「もののけ姫」に登場した中国式の鉄砲ではないかと言われている。)を付けて旭山城に篭らせた。

 これを受けて上杉謙信(当時は長尾景虎)が善光寺の東の横山城(城山)に着陣し、次いで武田信玄が出陣し、犀川南大塚(大堀館)に本陣を置いて越後勢と対峙。
 謙信は旭山城の存在により南進ができなくなり、旭山城に付け城をおいて攻撃するが効果はなく、裾花川対岸山上の葛山城によりけん制することにより、旭山城の動きを封じ、南進が可能となる。
 南進する越後勢と武田軍は犀川付近で衝突したらしいが、その後は睨み合い状態となった。

 睨み合いは200日にも及び双方で兵糧の調達や軍規の乱れが生じ、今川義元が仲介となり、和議が成立して撤兵したという。
 この時の条件として旭山城が破却されたという。
 しかし、弘治3年(1557)冬、雪で上杉軍が動けない時を狙い武田軍が葛山城を落としたたことで和議は破れ、第3回川中島合戦が起こる。
 上杉謙信が4月に善光寺に着陣し、旭山城を再興し兵を入れる。両軍の戦闘は上野原付近で行われたが、決定的なものではなく、9月に両軍は撤収した。
なお、上野原がどこなのかははっきりしていない。
髻山南山麓の長野市北部徳間付近という説もあれば黒姫山ろくという説もある。
 さらに永禄4年(1561)年の第4回川中島合戦では上杉軍の部隊が入り後詰行動を行い、撤退する上杉軍を支援したという。
 それ以後はこの地が武田氏の支配下となり、記録に登場しない。
 武田氏の支配が確立するにともない軍事的位置づけが無くなり、機能を少しづつ縮小し、廃城になったものと思われる。

@大手口にある馬場の平坦地。 A馬場の東下の井戸?古墳の石室? Bの堀切、この先が主郭部。 Bを過ぎ登って行くと本郭南側の石垣Cが見えてくる。
本郭と二郭間の堀切D。
崩れた石垣の石が散在する。
E本郭内部。周囲は土塁状に盛り上っているが
かつては石塁であったらしい。
F本郭西側の堀切(横堀)底から本郭を見る。
崩れた石垣の石が点在する。
G 蔵屋敷跡という6の曲輪内。
H蔵屋敷南の腰曲輪。 I蔵屋敷西の石垣。 J 城域西西端の堀切(横堀) K 二郭東の堀切
Lの堀切 M 謙信物見岩と言われる巨石 N 最東端の物見の曲輪 Nから見た川中島。犀川が流れ、
正面に金井山城が突出し、左上に雨飾城。

旭山城であるが、比較的規模は大きく、かなりの兵を長期間、置くことができる。
 特に本郭は広く、35m四方の大きさがある。周囲には土塁があるが、もともとは石塁であったようである。
 本郭の周囲に石垣もかなり用いていたらしいが、崩落も激しく、石垣の石が堀底に転がり落ちている。
 東側に堀切が有り、本郭へはこの堀切から上がっていたようである。本郭の北側には4m下に曲輪がある。
 堀切を隔てた東側が二郭と言われているが、ここは平坦ではなく凸凹している。
 東西40m、南北15m程度の大きさであり、居住性は疑問である。
 その先には深さ6m程度の大きな堀切があり、その東に小さな郭3がある。
 ここは東西15m程度の大きさである。さらに堀切を隔てて、謙信物見岩という巨石4がある。
 弘治3年の第3回合戦において上杉謙信がこの岩から川中島地方を見たという伝説がある。
 その東に30m行くと、物見の郭5がある。その間の南側は抉れており、腰曲輪となり井戸がある。
 物見の郭は東西30m、南北15mほどであり、かなり平坦で広く、ここから東側の長野市内や南の川中島地方が一望の下に納めることができる。
 本郭の西側は尾根幅が広くなり、ここには堀切ではなく横堀がある。
 その北西には6,7の曲輪が段々状に3段配置される。

 このうち本郭側の曲輪6は「蔵屋敷」と呼ばれる。35m×15mの広さがあり、平坦である。食料倉庫でも建っていたのであろうか?
 蔵屋敷の南北にも段々状の曲輪がある。また、郭間の切岸には石垣が見られる。
 一番北西に堀切(横堀)があり、その北西側は結構広く、西側への緩斜面になるが、城郭遺構は見られない。
 しかし、この方面から攻撃された場合は防御が手薄なような気がする。
 基本的には連郭式の尾根城郭であるが、南の斜面にも城郭遺構がある。

 大手道は本郭と二郭の堀底から下りる道であり、この道は本郭下を曲がりくねって下る。道は石垣で補強される。
 途中に小さい曲輪があり、南に延びる尾根につながっていく。尾根の付け根には8の堀切と土橋がある。
 尾根筋にもいくつかの曲輪があり、最後に馬場のような広い平坦地9に出る。ここが大手であろう。
 その東下には石囲の井戸跡のようなものがあるが、古墳の石室かもしれない。
 この城は武田氏、上杉氏双方の手が入っていると考えられるが、どこまでが「武田流」か「上杉流」か分からない。
 石垣の使用法などを見ると、竹山、金井山、鞍骨、松尾古城、根小屋などの武田氏が関係した城郭に似ているので、この点は武田氏の築城技術が色濃いのかもしれない。
 石垣はあるもののベースは川中島合戦以前から存在していた栗田氏の旭山城であり、もともと結構規模が大きかったようである。
 これを武田、上杉両氏が自分流にさらにアレンジし、現在残る姿になったものと思われる。