海津城外郭城塞群1
武田氏が川中島地方支配のために築いた海津城は、統治支配に適した平城である。
しかし、西側前面に千曲川という天然の大堀を持ち、背後の3方は山に囲まれているものの、この城単独では、防御面で今一つという感は免れない。
防御的には周囲の山に支城を構え、攻撃を受けた場合の防御や後詰にするのが当然であり、まさに周囲の山には金井山城、寺尾城、雨飾城、鞍骨城等が海津城を取り巻くように築かれている。
これらの城塞は海津城築城に伴い築かれたものではなく、武田氏の支配が及ぶ前の時代、この地の土豪、清野氏や寺尾氏によって築かれたものである。

武田氏はこれらの土豪を支配下に置き、整備し支城としたものである。
この平地の城館を山上の城塞が守る構想は真田の谷の真田氏の城郭群と同じである。
このルーツは山麓の根古屋を山上の複合城郭群が守る戸石城、丸子城、塩田城、荒砥城で見られる形式である。

このシステムの完成は永禄年間末期であり、このシステムは上杉氏の攻撃を想定したものである。
しかし、その効果を実証したのは皮肉にも上杉氏であり、本能寺の変後、支配者がいなくなったこの地を上杉氏が占領し、ここに北条氏が侵攻するが、この城塞群に兵を入れた劣勢の上杉軍に対し、大軍の北条軍は手も足もでなかったという。
これらの城郭群が廃城になったのは、江戸時代になってからであろう。

海津城外郭城砦群はいずれも山城であり、かなり険しい山に築かれているため、余り開発の波が及んでいない。
このため遺構は良く残る。ほとんどの場合、石垣が主要部に見られる。
石垣と言っても近世城郭のような見上げるようなものはない。
せいぜい高さ2m前後のものに過ぎない。
さすがに450年近い年月で崩落が激しく、特に昭和40年ころの松代群発地震でかなり崩れてしまったようである。

以下にこれらの城砦群を紹介するが、困ったことに古墳群と重複して城郭が築かれているため、どこまでが城郭遺構か古墳なのか混乱する。
城の井戸と古墳の石室を誤認するという笑えるような、笑えないようなこともある。
もっとも古墳の墳丘はそのまま物見台や櫓台として使っていることもあるのであろう。

鞍骨城(長野市松代町清野/千曲市倉科)
妻女山の南東2q、千曲市との境にある標高798mの高所にある石垣造りの城。
麓の松代町清野にある松代PA付近から南を見ると山の上に鉄塔が見えるが、ここが主郭の入口に当たる二重堀切がある場所である。
そのやや東の高いところが本郭である。
麓から見てもかなり高い場所にあり、比高は450mある。
現場に行っていると城がある付近の尾根筋には堀切や郭が至るところにあり、どこまでが城域なのか分からない。
ちなみに鉄塔の西側にあるピークの標高は695mあり、ここにも郭や堀切があり、こちらは天城(てぐ)城という。

城までは直線的には大したことはないが、実際に行くとなると標高差450mを山を迂回しながら登ることになる。
妻女山側や南側の倉科側から林道や遊歩道がついており道なき道を進む必要はないが、妻女山からは4qは歩く。
最も林道で天城城の下まで行けるので、軽の4輪駆動車かオフロードバイクがあれば1.5q西地点まで行くことは可能である。
なお、鞍骨城の主郭部と天城城の主郭部間は実際には1.2kmの距離と100mの高度差があるが、この距離感、高度差感はある程度犠牲にして描いている。

今回は妻女山から延びる林道を歩いた。
標高420mの妻女山から60mほど登ると鞍部に出る。
右に行くと土口将軍塚のある薬師山に行ける。
左の道を1.5qほど行くと天城城の袂に出る。途中の標高500m付近は平坦地が広がり、この場所から薬師山にかけてならかなりの兵を置くことが可能である。


本郭から見た川中島。
川は千曲川。
右手の半島状の山は金井山城
中央やや上の林が川中島古戦場。その先に長野市街が見える。
海津城は写真の右端に当たる。

林道から別れ遊歩道に入り、天城城の東を通るとそのまま鞍骨城に行けるが、それが分からず林道を進み、天城城を横断し、倉科側の尾根に行ってしまった。
それでも尾根を切るA、B等の堀切がいくつもあり、鞍骨城に行けるものと誤認。
 しかし、肝心の石垣造りの主郭は姿を現さない。
そのうち尾根は下りとなる。
ここで道を間違えたことに気づき引き返す。

正規のルートに戻り、天城城東下を200mほど行くと横堀のような堀切Iが現れる。
 ここの標高は650m。
ここから若干登りになるが、尾根筋であるため余り苦にならない。
いきなり深さ6m位の大堀切9が現れ、さらに進むと麓から見える鉄塔が建つ場所に出る。
ここの標高は725m。主郭部がその東に聳えたって見えてくる。
主郭部は鉄塔の場所からさらに75mほど高い。

二重堀切Gを過ぎると、二郭に相当するやや緩斜面Fに出る。
南側は平坦な腰曲輪があり、所々に堀切、竪堀がある。
主郭部手前に最後の関門として巨大な岩盤むき出しの堀切6がたちはだかり、行く手をさえぎる。
 塁上までは、堀底からの高さ8mはある。本郭はその向こうに聳え立つ。

塁壁上部はかなり崩れてはいるが石垣で補強されている。
 塁に登るとさらに2段の曲輪B、Aが上に見え、それらを越えると本郭@である。

しかし、曲輪Bからの高さは30m近くあり、しかも斜面は急勾配。
石垣で取り巻かれた城壁が接近を阻む。
 しかたなく、南側に回り、南側の2段の腰曲輪 C、Aを経て本郭@に入る。(よじ登る。)

本郭の南側も石垣が取り巻く。
 周囲の斜面には石垣に用いられていたと思われる石がたくさん転がっており、長年の歳月と地震でかなり崩落してしまったようである。
 本郭は南側に虎口があり、直径20m位の広さである。
東端に櫓台のような土壇がある。
 しかし、この場所は吹きさらしで風を遮るものがなにもない。
風が吹きさらしで寒い。
あくまでも見張り台か本当に攻められた場合の指揮所というべき場所であろう。

本郭の東側の5m低くなった場所に曲輪Dがあり、東の尾根に続く。
この先には2箇所の二重堀切があり、さらにその先に大堀切がある。

その先は行っていないが、何らかの遺構があるかもしれない。
尾根をそのまま行くと竹山城まで行ける。
本郭の北側(松代側)は急斜面である。

主郭部はくぬぎ、ならなどの落葉樹が植えているため、訪れた冬場は非常に視界が良く、郭や下方まで良く見ることができる。
しかし、落ち葉は滑りやすく半面危険でもある。 

Iの堀切。横堀に近い。 Hの大堀切。 HとEの間の郭から主郭部を見る。 Gの二重堀切の堀底。
Fの郭。南側に平坦な腰曲輪がある。 Fの郭から主郭部を見る。 Eの大堀切が口を開ける。 Eの堀切の本郭側上部は石垣。
Eの堀切を登ったBの郭。 2の郭よりBの郭を見る。 Aの郭から見た本郭西の石垣。 南側のCの郭。井戸がある。
Aの郭南側の石垣。 Cの郭よりAの郭と本郭を見上げる。 本郭@内部。東に櫓台跡がある。 Dの郭東の二重堀切。

鞍骨城の起源はこの地の土豪、清野氏が築いたということであるが、当初は戦時の避難場所程度のものであったのであろう。
 ここに本格的な石垣を築いたのはおそらく海津城の支城とした武田氏であろう。

 しかし、この城が歴史に登場するのは本能寺の変後である。
 天正10年(1582)支配者がいなくなったこの地を上杉氏が占領し、ここに北条氏が侵攻する。
 上杉景勝の命を受けた直江兼続等の部隊がこの城に入り、山上に日章旗を建て、それを見た北条軍が頭を抑えられて身動きがとれなくなり、手も足も出ず撤退したという。

なお、永禄4年(1561)の第4回川中島合戦では武田軍の別働隊12000が妻女山の背後を突いたことになっている。
 その場合、竹山城付近から尾根伝いに鞍骨城に出て、天城城を経由して妻女山に向うことになるが、この尾根道は幅1m弱しかなく、両側は崖である。
 通れる道は他にはない。
 1人で恐る恐る通る道を12000もの大軍が通れる訳がない。
 先頭が妻女山についたら最後尾はまだ海津城である。
ましてや馬など通れる訳がない。
 それに上杉方は布陣していた背後の山に物見は当然配置しているはずである。感ずかれないことはあり得ない。
 したがって、1000、2000規模の小部隊での奇襲作戦ならともかく12000という大部隊による奇襲作戦は現地を見る限り創作としか言えない。
それに12000の軍勢は全員徒歩だったのであろうか?
今まで疑問に思っていた12000の奇襲部隊の大軍による啄木鳥戦法は現地を見る限り完全にあり得ないことが実感された。
 あの話は二次元の平面上の話である。現実の三次元の世界の話ではない。
 実際は1000,2000程度の兵力による奇襲であったのが考えられる限度である。  
 さて道を西にもどり天城城に登る。
堀切Iから50mほど登ると標高695mの天城城の南の物見Jであるが、この城の鞍骨城側斜面は勾配が緩い。

 防御もなされていないので鞍骨城側からの攻撃をほとんど想定していない。
どちらかというと攻撃を受けて危うくなった場合、鞍骨城側への退避を容易にしているようである。

このようなことから独立した城ではなく、鞍骨城の西出城というべきであろう。
山上には平坦地や堀切があり、西側には石垣M、Nで補強された段郭が広がり、途中には堀切Kも見られるなど城址遺構はあるが非常に貧弱である。
驚くべきことに山上に石で囲った穴Lが2つあった。
当初、井戸かと思ったがこれは古墳の石室のようである。

標高695mの山頂に墓を造る者なんてよほど自己顕示欲の強い者であったのであろう。
 天城城はさらに南に延びる始めに迷い込んだ尾根上にP、Q他、の3つの堀切があり、その尾根を先に進むと鷲尾城である。

一方、西に向うと鞍部を経て、巨岩がある物見台Oのような場所に行ける。
 そこを尾根伝いに行くと唐崎城(雨宮城)である。

このようなことからこの付近の城は全て尾根でつながっていることになり、城域が極めて曖昧である。
 その尾根ネットワークの中心が鞍骨城であり、鞍骨城が竹山城、唐崎城、鷲尾城の詰めの城という関係になる。

 (天城城写真)

J天城城の南側の物見台。 Kの堀切。ここを越えると天城城本郭。 L本郭にあった石垣。
どうやら古墳の石室らしい。
M本郭西側の石垣。
N本郭西側の堀切。 O西端にある物見岩。
ここを過ぎると唐崎城に行ける。
Pの堀切 Qの堀切。
この先にも2箇所の堀切があり、
先は鷲尾城に至る。

鞍骨城は清野氏の城であったが一族の西条氏(竹山城)、雨宮氏(唐崎城)、倉科氏(鷲尾城)の中心でもあり、鞍骨城と尾根ネットワークで一族を統制し、外敵の侵入に対して協力して当たっていたものと考えられる。
 その後、武田氏が海津城の外郭防衛の中心に改修したものと思われる。
 ここにさらに天正10年(1582)この地を占領した上杉氏がさらに手を加えたものが今に残る姿であると思われる。