春山城(長野市若穂町綿内)

綿内要害ともいう。
千曲川と犀川が合流する落合橋の東、太郎山から北に張り出した尾根のピークに築かれる綿内井上氏の城である。
大城、小城からなるこの地方に多い形式の尾根式の城郭である。
この尾根の先端部近くを上信越自動車道「綿内トンネル」が通るが、城址はトンネル直上部から南に600mの地点である。
大城の標高は634m、小城の標高は662mというから麓からの比高は何と300mを越える。
下の写真は西側、綿内地区から見た城址である。
大城の西側斜面が岩場であることが、分かるであろう。
写真でも大城の堀切や鞍部の堀切も確認できる。
地図だけを見ると先端部から登れるように見える。確かにそのとおりであり、先端から遊歩道が付いている。
先端部から城址までは水平距離で1km程度である。これは意外に楽勝かとこの道を進むが、途中で遊歩道はなくなり、後は林業で山に入る人だけが通る道が続く。まともな道があるのは綿内トンネルの直上部の少し南付近までである。ここからが大変である。城址まではあと高度差で90mある。急斜面である上に大きな岩が林立している。道らしいものなどない。

この先、大城までの登りは、岩に手をかけ、根っこをつかみ、まるでロッククライミングである。おまけに落ち葉で足が滑る。
今まで行った山城の中で最悪である。
登城路が尾根の先端から付いていたというが、本当だろうか?400年以上の歳月で消えうせているのだろうか?
何度かもうやめようとしたが、すぐそこに頂上が見えるので止める訳にもいかん。という訳で悪戦苦闘の末やっと頂上へ。
この城のきつさは雨飾城よりひどい。雨飾城はきついが何とか道らしいものは付いていた。
頂上はは結構、平らな細尾根である。岩が物見台になっている。長さは70mほど。ここが曲輪Xである。
眼下には長野市内が一望の元である。尾根を南に行くと、巨大堀切が姿を表す。 その先に本郭が立ちふさがる。本郭側からは堀底までは10m。西側は巨岩の間を竪堀となって下っていく。東側はS字を描いて下っている。
本郭(曲輪T)内は予想外に平坦。東西15m、南北40mの広さであり、南と北に物見台がある。
物見台と言っても北側のものは単なる巨岩である。

南側のものはちゃんと高さ3mほどの土壇になっている。
本郭の東下7mに腰曲輪があり、北側の堀切まで廻っている。南側の土壇の南下に堀切があり、その南は長さ25mの曲輪Uである。
途中に堀切があるが、どうも井戸のような感じである。
曲輪内には巨石が多くあり、石門のようになっている場所もある。
曲輪の南端は周囲を土塁(東側は岩)が覆う。その南に深さ7mの堀切があり、曲輪Vが展開する。
15m四方程度の広さであり、ここも南側と西側は土塁を持つ。
さらにその先に深さ7mの堀切があり曲輪Wとなる。この曲輪も15m四方ほど、先に土塁を持ち、深さ8mの堀切で終わる。
大城はここが南限であり、大城の総延長は200m程度であろう。
堀切に面した曲輪全てが前面を土塁が覆うという山城はこの付近にはないのではないだろうか。
大城の西側の面は巨岩の壁である。良くこの巨岩だらけの山にこれだけの遺構を作ったものである。
曲輪Wの南が小城との鞍部に当たり、鞍部の一番低い場所の標高は600m位である。

大城

本郭北側の堀切の東はS字状の竪堀になって斜面を下る。 本郭北側は堀切に面して腰曲輪がある。 本郭南側には高さ2mほどの土壇がある。 本郭南の土壇前から本郭北方向を見る。平坦で北端に岩の物見台がある。
本郭の土壇の南はお決まりの堀切である。 左の堀底から本郭の土壇を見る。堀底から高さ5mほどある。 曲輪Uは長さ25mほど。先端部は土塁が覆う。 曲輪V南側の堀切。岩が沢山顔を出している。
曲輪Wも前面を土塁が覆う。 曲輪W南の堀切。深さ5m。大城の南端である。 大城と小城の間にある岩を利用した堀切。 大城と小城間にあるもう1つの堀切。

小城

鞍部には深さ5mの大きな堀切が中央部にあるほか、小堀切、小規模な岩盤堀切があるだけである。
この鞍部の南に小城が聳え立つ。鞍部からは高度60m位である。
小城までの道も大城までの道と余り変わらない。ここで嫌なものを発見。熊の○○である。
どうもこの山にも熊が居そうなため、ラジオを付けてきたのだが、ここでホイッスルを吹く。
そして最終兵器、カプサイシン入りの熊撃退スプレーの点検をする。
小城も北側に巨岩があるため、西側に迂回して登る。
小城の主郭は2つであり、2つ合わせても南北25m、東西15mほどに過ぎない。
真中が1mほどの段差になっている。この南にはおなじみの堀切がある。これがでかい。深さ10m、幅15mはある。
堀切の南側は土塁になっており、その先は緩やかで広い場所である。ここでその場所を動く物体を発見。がさ藪の中で何かが動いている。「かもしか」か?それとも・・・。黒いお尻が見えるんだけど・・・。やに足が短い。あれは「かもしか」なんかじゃなくまさに「熊さん!」

山を下る途中、遊歩道であった老人は「この山は熊がいるんだ。俺も10年以上前に熊に会って、もうそれっきり奥にはいかね。」
とのこと。大体、熊に遭うことを承知(覚悟)した装備でこんな山に入るのは、異常この上ない。
もうこの城にはきついし、熊も怖いので2度と行かね。

小城は単郭であり、2段になっている。 南側に大きな堀切がある。その先は広く比較的平坦。 小城南端から北側を見る。 小城から見た北の大城。

 春山城が文献に登場するのは南北朝末期、応永3年(1370)藤井全切の代官、上遠野政行が南朝方と戦ったことが確認される。
(この上遠野政行はいわきの上遠野一族か?)
また、弘治2年(1556)武田氏の侵攻でこの城で攻防があったことが確認されている。
この時、城は武田氏の手に落ち、綿内井上氏に与えられている。
井上氏本家は上杉氏を頼りこの地を後にし、本能寺の変の後、この地に復帰するが、武田氏滅亡で綿内井上氏はどうしたのだろうか?
上杉氏に帰参したのだろうか。
いずれにせよ春山城は川中島合戦初期に攻防があり、武田氏支配時代は綿内井上氏の詰めの城として使われていたようであるが、武田氏滅亡時期に廃城になったものと思われる。


川田古城(長野市松代町大室/若穂町川田)

千曲川にかかる関崎橋の東側は山が川突き出る交通の難所であった。
この山の東の尾根ピークにあるのが川田古城である。ちょうど南側には霞城があり、霞城との間の谷間が積石塚古墳群で有名な大室古墳群である。
一方、山の北側は保科地区であり、保科の谷を隔てた山に春山城、小出城、霜台城がある。
標高は544mであるからこの城も比高は200m近い。
この城は2度目のチャレンジである。前回トライした2年前は場所を間違え撃退されるという苦汁を飲まされたので、今回は意地である。
しかし、意地を張って行く価値は見出せない超ヤブ城であった。

ちなみに直下は上信越自動車道大室第二トンネルである。
城には先端部の「大室の湯」裏に道から行く、山の尾根先端部は公園化されているのでここまでは大したことはない。
しかし、城まで行く道は途中でなくなる。後は道などない。全くの藪である。
これほどの藪城、そうあるもんじゃない。おかげで写真を撮っても藪しか写っていない。
登っていくと何と古墳がある。大室18号墳である。全長40mほどの前方後円墳である。
これがちゃっかり城郭に取り込まれている。北側に堀切と土塁がある。物見台としては確かにうってつけであり、眺めが良い。
古墳を城郭に取り込む例としてはこの付近では鷲尾城がある。
ただし、鷲尾城は背後の防備を固める目的での古墳利用であり、この城は前進の曲輪としての利用であり、利用方法は逆である。
この先を進むが藪は一層激しくなる。
堀切はあるし、切岸も明確なのだが、写真には良く写らない。
格闘の末に本郭に立つが、潅木と熊笹で構造がさっぱり分からない。
北側の尾根筋にも曲輪群が展開しているはずであるがとても行けない。
南側に巨大な二重堀切があるが藪に埋もれて良く確認できない。

道もなく、ここまで来るのは熊位だろう。
管理を期待するのは無理であるが、多少でも人が入っていれば何とか遺構は良く見れるのだが・・。
この城は川田氏の詰めの城であったと言われる。古風であり川中島の合戦では使われなかったのではないかと思われる。
川田氏の館は今の川田小学校の地に比定されている。

西から見た川田古城。 古墳の手前に堀と土塁がある。 古墳の北の堀は横堀となって西に向かう。 主郭部手前の堀切であるが・・。