初期の常陸太田城はどこにあったか?
   〜常陸太田城北上説〜

はじめに

常陸太田城は中世戦国時代、常陸国の主人公、佐竹氏の本拠地として知られる。
(なお、常陸太田は大正時代に付けられた名称であり、それ以前は単に「太田」と言っていた。
したがって「常陸太田城」という名前の城は現役だった当時は存在していない。当時、何という名称だったかは分からない。
おそらく、特に名前はなく単に「太田」あるいは「お屋形」と言っていただけかもしれない。
便宜上、ここでは「常陸太田城」と書くことにする。)

その常陸太田城、太田小学校を中心とした場所にあったが、この立地に以前から疑問があった。
戦国時代にルーツを持つ丘城は台地の先端部や侵食谷が台地を刻んだ台地縁部に造られることが多い。
城の3方あるいは2方が崖面を利用して防御するする形式である。その代表例が水戸城である。
この形式が一番、自然地形を防御に活かし、工事量も少なくて済む、いわゆるコストパフォーマンスが優れ合理的だからである。

常陸太田城の本郭であった太田小学校、
西側に土塁が残存する。
二郭であったJT跡地に残る土塁 JT跡地の発掘で検出された薬研堀。
土塁上からの深さは約8mはある。

しかし、常陸太田城の立地は台地の中央部の広い場所、中心の本郭は西側のみが急斜面である。
これは防衛上、脆弱な立地と言える。
背後に強力な詰めの城があればそれでも良いだろうが、詰めの城に相当する山入城はかなり遠い。

また、城内は西側の西山公園から丸見えなのである。
西山公園の地に陣を敷かれ攻められたら極めて不利である。

こんな立地で果たして食うか食われるかという戦国乱世に対応できたのか?
このような中途半端な立地の理由は、どうやら広い城域を求めた結果ではないのか?
最終的に戦国末期に常陸太田城は巨大化し、城のある鯨が丘台地全体が総構化し、周辺の支城網も整備されたので、防衛上はそれほどの問題はなかったと思われる。

しかし、それ以前の時代はどうだったか?
危機が訪れると、佐竹氏は常陸太田城をいとも簡単に放棄しているのである。
この城を盾に戦うという意図は全くなかったと言える。平安末期、治承4年(1180)の頼朝との金砂合戦、南北朝期、建武3年(1336)の瓜連合戦、そして山入の乱の時がそうであった。

現在の場所にまだ規模が小さかった常陸太田城が存在していれば、放棄するのは1つの手段であり、それが妥当な選択枝だろう。
しかし、何度も放棄を繰り返す小さな規模のまま、貧弱な防御のままにしておくだろうか?
危機を考慮すれば、かなり強固な城に拡張、改修していなくてはならないだろう。
ところが、拡張されたのは戦国後期、山入の乱以後の安定化した時期のようである。
この時期、天文2年(1533)、佐竹義篤により栄町にあった太田山寿昌寺が田渡に移転させられている。
これが現在の寿松院である。
この移転は城を拡張するためである。
なお、令和元年の旧JT跡地の発掘で五輪塔あるいは供養塔の一部が出土しているが、この寺と関係がある可能性もある。
←西の西山公園から見た鯨が丘台地、ここからは城内が丸見え!

では、佐竹氏が常陸太田城を放棄した実績のある金砂合戦、瓜連合戦、山入の乱等の時期の常陸太田城どうだったのか?という疑問が生じる。
もしかしたら当時の常陸太田城は今の場所ではなかったのではないか?
常陸太田城が鯨が丘台地上にあったのは間違いないが、文献史料からは鯨が丘台地のどこにあったか分かる史料は未確認である。

常陸太田城の立地に対する疑問は何人かの人が漠然と抱いていたようである。
管理人もその一人である。先般、常陸佐竹研究会の小田倉副会長からもこの疑問が呈された。
やはり、管理人一人ではなかったのである。そこで、初期の常陸太田城がどこにあったのかを考察してみた。

現在の常陸太田城の立地について
残念なことに現在、常陸太田城の遺構はほとんど確認できないが、かつての姿を再現すれば、南は若宮八幡宮、郵便局付近、北は太田一高付近までが城域であった。
城の中心部である本郭は太田小学校から太田病院までの部分が相当する。

かなり広大な城域であるが、それでもほぼ常陸一国のみならず奥羽南部まで支配下に置くほどの実力を持つようになった戦国末期における佐竹氏の拠点としては、自身及び家族の住居、政庁、客を迎える客殿、人質を預かる人質屋敷、重臣の屋敷、倉庫等を置くには、この広さでも飽和状態で手狭であったようである。

また、根小屋、城下町に相当する常陸太田駅から郵便局付近までの台地「鯨が丘」上にあった街も地形の制約上、これ以上の発展余地がなく、最終期には飽和状態であったようである。

しかし、鯨が丘の西には源氏川の低地があり、沼地が存在しており、東には「鯉沼」が存在していた。
地形上、発展の余地が少なく、そんな中で新宿などが飽和状態の解消のために新規に開発されたと言うがそれでも十分ではなかったようである。

最終的には佐竹氏は水戸に本拠を移転するが、水戸が常陸支配のために常陸国の中心地に近いことや那珂川の水運活用という利点もあるが、「鯨が丘」台地とは比較にならないくらい広大な、城下町を造成可能な水戸台地が水戸城の背後に控えていたことも大きな要因だったと思われる。

つまり水戸城移転は常陸太田の飽和状態が大きな理由の1つだったと考えられる。
常陸太田は巨大化した戦国大名佐竹氏の支配拠点としては限界を迎えていたのだろう。
この状況はあくまでも戦国末期の佐竹氏の状況から書いたものであるが、それ以前、まだ佐竹氏の実力が小さかったころはどうであっただろう。

まず、常陸太田城が広い必要はあっただろうか?
住居、政庁、客殿、人質屋敷、重臣屋敷、倉庫等は当然、もっと小規模なものでも十分であっただろう。最終期の半分程度の広さでも十分余裕があったのではないかと思われる。

一方、防衛面から見ると常陸太田城は守りにくい城である。城のある丘上の標高は約38〜39m、丘下は14mなので比高は約25mである。
自然地形で防御面の観点で優れるのは比高約25mの東西の崖状の急斜面くらいである。
台地平坦部に続く城の南北は多重の堀、土塁を厳重に構築しないと心元ない。


↑出城であったと思われる常光院から見た北東方向、住宅地は当時は湿地帯や沼(鯉沼)だったという。

現実に常陸太田城の最終的姿はそのようになっている。
防御を自然地形に頼らず大量の土木工事量投下で防御力を確保したのである。
さらに、北側には駒柵、馬場城という出城を置き、南の鯨が丘台地上にも堀切を造り、後世、寺院の地となる梅照院、法然寺、遍照寺、常光院等のある場所には出城があったと思われ、これらを含めた多重防護を取っている。

出城があったと推定される常光院 常光院から見た鯨が丘台地の東下、道路は東坂。

南北の守りを考慮しなければならないいということは、南北で大きな土木工事を行わなくてはならず当然コストが高くなる。
それとともに攻められた場合には、南北両方面に人員を配置する必要があり、合理的ではない。
そのようなデメリットを承知で今の場所に城を置いたのは、「広さ」を求めた結果であろう。「広さ」のメリットが「防衛コスト」のデメリットを上回ったからであろう。

したがって、「広さ」を求める必要が生じた時期が現在の場所に常陸太田城が築かれた時期とみるべきではないだろうか?
その時期としては先に述べたように、佐竹氏が強大化して行った戦国後期、山入の乱(終息は永正元年(1504))以後ではないだろうか?
拡張工事が本格化したのは、部垂の乱が終息した天文9年(1540)頃だろうか?

初期の常陸太田城はどこにあったか?

さて、では初期の常陸太田城はどこにあったのだろうか?
常陸太田城の起源は必ずしも明確ではないが、平安時代中期 天仁2年(1109)、藤原秀郷の4代後の通延の築城と言われる。
当時、佐竹氏は西方の馬坂城を居城としていたが、3代目の隆義の時に常陸太田城主の通成(通延の孫)に圧力をかけ、小野崎城に追い常陸太田城を手に入れたという。
その時期は久安年間(1145〜51)と推定される。

この時、追われた通成は小野崎氏を名乗り、後の石神城主、額田城主の小野崎氏の先祖である。
藤原通延の実力もそれほど大きいとは思えず、土豪クラスであろう。
したがって、その藤原通延が築いた城、すなわちこれが初期の常陸太田城であるが、それほど大きな城ではなかったと思われる。

通成の移転先の「小野崎城」の規模から推定しても、現在の常陸太田城の本郭に相当する太田小学校の地程度の規模だろう。
したがって、初期の常陸太田城は規模の大きな「居館」程度のものと考えるのが妥当であろう。
当然、武家の居館なら防衛機能はある程度有していたであろう。まだ、武家の世ではないが、武家は武装組織・集団である。
その居館なら武力抗争、襲撃への対応を考慮した構造を持ち、ある程度、堅固である必要もあろう。
築城が平安中期ならまだ城に土塁や堀を回すという概念は少なかったと思われる。
精々、柵だろうか?主な防衛機能は崖とか河川、湖沼等の自然地形に委ねることになろう。

そのような視点から現在の本郭が置かれた太田小学校付近を見ると、いささか疑問が残る。
そこは台地の縁である。西側しか防衛上頼りになる急斜面が存在しないのである。
残りの3方は台地平坦部続きである。これでは防衛面で疑問が残る。
わざわざ台地中央部のあの場所に始めから居館を置く必要性はあるのか?

平安時代の城がどのようなものであったか分からないが、平安時代まで築城が遡れる可能性を持つ城館としては、馬坂城、小野崎城、西岡田館等が挙げられる。これらの城館を見れば、立地上、戦国時代の城とそんなに変わった感じはない。
いずれも台地や尾根先端部や台地の縁に立地し、眺望もよいという共通点がある。
もう1つ、常陸太田城のある鯨が丘と小野崎城のある瑞竜台地の共通点である。
瑞竜台地は小野崎城、今宮館、八百岐館、小野館からなる城砦群を形成している。
一方、鯨が丘は常陸太田城の周囲に馬場城、駒柵、城砦ともなりえる現在寺社になっている地を配置した形式を取る類似性がある。
主城の位置が違うだけである。
むしろ、瑞竜城砦群の構造が水戸城と良く似るのである。

これらを考慮すると当初の城は鯨が丘台地の先端部の「木崎」ではなかったかと思われる。
すなわち現在の梅照院の墓地、常陸太田簡易裁判所、東京電力常陸太田変電所がある場所である。
なお、「木崎」は江戸時代、ここに木戸があったので付いた地名というが、木戸は佐竹氏の時代からあったであろう。
木戸はもちろん城郭に係るものであり、この地名自体が城の存在を示唆していると考えられる。

@木崎の丘の最高箇所、変電所、簡易裁判所付近。
城の中心部はこの場所であろう。
A@から南の緩斜面が延びる梅照院の地も城域だろう。 B鯨が丘トンネルの東の入口付近から見た変電所の地。
比高は約20m、斜面は急勾配である。

この付近の標高は34m、(常陸太田駅付近は12m)。実際にこの場所に行ってみると驚く。
ここはかなり要害の地である。
台地両側は急斜面である。台地下の常陸太田駅付近から北西側は沼地であったようである。

常陸太田の旧市街地に続いていく北側、鯨が丘トンネルのある部分では台地が抉れるように幅約80mと細くなる。
この付近は若干標高が低くなり32mである。
さらに梅照院の先端付近からの眺望は北側以外の3方向が見渡すことができ極めて良い。
この場所なら台地続き部分を柵等で区画さえすればそれだけで城として成立するのである。居館を置くには申し分のない場所である。
ただし、山城に比べると防御力は劣る。戦国時代以前の城なら防御施設も粗末なものであろう。
金砂合戦や瓜連合戦時のような重大な危機に直面した状態では持たないと思われる。
そのため、ここを放棄して金砂山や武生城に退避し一族の存続を図ったのであろう。

C丘の西側は崖状、城の切岸としても申し分ない。 D鯨が丘台地に続く旧消防署前には堀切があった。 EDの堀切の東にある法然寺(左)も出城である。

しかし、比較的平坦な部分の広さは南北約200m、東西最大約120mしかない。
この広さでは発展性が制限される。
住居、政庁、倉庫はともかく客殿や重臣屋敷が置ける余地があるかどうか?
もちろん、根小屋、城下町の形成できる余地は少ない。
この場所を本城として使っていたとしたら、佐竹氏がまだ強大化していない南北朝期くらいまでだろうか?
←丘先端、梅照院から見た南方向。中央は常陸太田駅、当時は湿地帯だったという。
当然ではあるが戦国時代、現在の常陸太田城が機能していた頃にもここは出城として機能していたと思われる。
佐竹氏当主の居館が移転しただけであり、城としての機能は維持されていたと思われる。(むしろ強化されていたであろう)
山入の乱で佐竹氏が弱体化したころ、岩城氏が佐竹領を侵食し、文明17年(1485)、里美が占領され、村松虚空蔵が攻撃される。
さらに太田も攻められたようであり、木崎で合戦が行われたという。
これは本格的な攻撃ではなく、威力偵察のようなものであっただろう。おそらく木崎にあった城が攻撃を受けたのであろう。
この攻撃で落城等は伝わっていないが、これは城が機能していた証拠とも言えるのではないか?
ここが戦略的に重要な場所であった証なのでもあろう。

残念ながら戦国末期にここがどんな状況であったかは分からないが、柵、塀に囲まれ、櫓が建っていたのではないだろうか。
梅照院がここに移転してきたのは江戸時代である。
この頃になると城郭遺構も寺院や町屋となり、ほとんど失われてしまったようである。

ではその後、常陸太田城はどこに移動したか?
木崎の丘に初期の常陸太田城があったとして、根小屋、城下町が形成されるとすれば、北側の旧消防署前(標高30m)から常陸太田郵便局(標高36m)までの旧市街地だろうが、果たしてどうだったのか?これは分からない。
南北朝期を経て佐竹氏は北朝についたことで、常陸守護職を手に入れ、関東八屋形として発展する。そうなるとこの先端部の狭い場所では限界が生じたと思われる。

もっと広い場所に移転する必要が生じる。それが現在地だったかもしれない。
一方、梅津会館付近に城があったという説もあり、若宮八幡宮の地に館があったともいう説もある。若宮八幡宮の地は「古館」とも呼ばれ、地名から何らかの城郭が存在していたと思われる。現在地に至る前に1、2か所、中継した場所があった可能性もあるのである。

現在の常陸太田の旧市街地には坂がたくさんある。それらは竪堀跡の可能性もある。
旧市街を東西に走る道は台地を分断する横堀の跡の可能性がある。現実に旧消防署があった付近には堀切と竪堀が存在していた。
板谷坂の「板谷」は「番屋」から来ている。
文亀2年(1502)山入氏の攻撃を受けた佐竹義舜は西塙から逃走している。
(西塙は梅津会館付近である。この付近に居館すなわち当時の常陸太田城が存在していた?)
これらの事実及び想定は戦国時代に今の旧市街地が総構化した時のものと考えたが、そうではなくこの旧市街地に居館、すなわち第二期の常陸太田城が存在した名残かもしれない。
(旧消防署があった付近にあった堀切と竪堀は初期常陸太田城の北限の防御施設の名残だった可能性もある。)

以上より、常陸太田城の本郭に相当する場所は佐竹氏の実力上昇に伴い、広い場所を求めて、鯨が丘台地上を北上していった可能性があり、最終的に太田小学校の場所に至り、さらに北側に城域を拡張して行ったのではないだろうか。
それでも最終期には拡張に限界を迎え、飽和状態を迎えてしまったということではないだろうか?

なお、佐竹氏は最終的には本拠を水戸に移転する。それまでの450年近い間、この「鯨が丘」を本拠にしていた。この丘に固執する理由は何か?
1つは拡大した政庁機能を置ける広いスペースと一定以上の防御機能を持たせられる場所が近くに存在しないこともある。
もう1つの理由としては、この「鯨が丘」が聖地化していたのではないかと思われる。
何度、ここを放棄しても危機を脱したらここに復帰している事実、佐竹氏宗家を追った山入氏が常陸太田城に入ったり退去したりしている。
これらは常陸太田城、鯨が丘台地の主人がイコール常陸国支配者(守護)であるというステータスシンポルとしての意味があったのではないだろうか?
これは上杉氏の春日山にどこか似ている。

まとめ
以上の検討結果をまとめると
@ 現在の常陸太田城は比較的新しく、佐竹氏が安定し強大化していく山入の乱終息(永正元年(1504))以後の築城ではないか。
A現在地に城を置いたのは佐竹氏の強大化に伴い、常陸国統治能力を確保するため、広い場所を求めた結果であろう。
A 初期の常陸太田城は現在の梅照院等がある台地先端、木崎にあったと推定される。
C常陸太田城は、木崎→(梅津会館付近)→(若宮八幡宮の地)→現在地へと2〜4回に渡り、鯨が丘台地上を北上移転をしていたのではないかと思われる。

あとがき
上記の推論は状況証拠を積み重ねた結果から導き出したものであり、文献史料等からは読めなく裏付けがない。したがって、妄想、暴論であるかもしれない。
このような暴論に近い内容をしかるべきところに発表するのは気が進まない。
その点、HPは捏造でない限り、推論も許容される。事実、当HPには推論に基づく記載も多い。
ただし、困ったことに「思われる。」「推定される。」を取って転載され、定説のように書かれてしまったことがあり当惑している。
そのため、あえてHPに仮説、推論としてここに掲載するが、間違っても「思われる。」「推定される。」を削除して転載しないようお願したい。