馬坂城(天神林町)

 間坂城、天神林城、佐竹城ともいう。佐竹氏発祥の地として有名である。
 しかし、意外であるが佐竹氏の築城ではなく、藤原秀郷流の小野崎氏支族、天神林氏刑部丞正恒という者が築いて居城していたのを長承2年(1133)佐竹初代昌義が奪いと取ったものと言われる。
 さらに佐竹氏は3代目隆義が常陸太田の地に館を構えていた小野崎氏を追い常陸太田に移ったため、この城には庶家の稲木氏が居城した。
 しかし、稲木氏は応永24年(1417)8代義信の時、山入の乱で山入氏に組し滅亡した。
 その後、佐竹14代義俊の子義成が天神林氏を称して居城したという。
 しかし、この天神林氏も山入の乱で滅亡し、佐竹氏側についた一族が曽目城(中染町)の城主として存続したに過ぎない。天神林氏滅亡後の城主については不明である。
 左の写真は南側の低地から見た馬坂城である。 

常陸太田城の南西3kmの距離にあり、常陸太田市街より瓜連方面に向かう県道61号線を走り、佐竹寺を過ぎ、道が下り付近北側が二郭(押葉平)に当たる。
 西側に突き出た細長い台地突端部を3つの空堀で区分し、三つの郭を設け、中央を本郭とした比高35mの丘にある連郭式平山城であり、城址からは北、西、南の水田地帯が見わたせ、眺めは良い。
 
主郭部は東西400m、南北150mの規模である。
 城の南側斜面も曲輪が幾重にも築かれ、城域であったはずであるが、人家が建ち改変を受けおり、当時の姿は失われている。
 また、北に延びる尾根にも曲輪や土塁が残り、元々の規模は400m四方程度ある広大なものであったと推定される。
 現在、本郭の位置には城址碑と説明板が建つが、その付近の城郭遺構は東側に残る堀跡程度であり大した城という印象は与えない。
 本郭は変形五角形であり、100m×100mほどの広さがあり、西側と北側が1mほど低く2段になっている。
 北側に尾根が2本延び土塁と堀切があるが藪がものすごい。その尾根間の谷は急勾配である。
 西側の西城に行くと中世城郭としてのこの城の豪快な遺構を見ることができる。
 本郭との間は深さ5m、幅15mほどの堀切がある。
 西城のほとんどはやぶ状態であるが、高さ6m、直径30mほどある古墳(源氏塚)を転用した物見台があり、天守台のようである。
 西城の東西は100mほどであるが、南側は段々状になっており畑になっている。古墳の西側の曲輪には前面に土塁があったようである。最大の見所は西端にある周囲が横堀で囲まれた曲輪である。
 西城の間には堀切がある。周囲に横堀を持つ曲輪は東西70m、南北20〜30m程度である。
 曲輪の西側5m下を横堀が巡るが、余り深いものではない。
 田渡城の横堀と似ており、鉄砲射撃用の塹壕、兵の移動用通路のように思える。この横堀は南側で竪堀となるが、この竪堀は出撃口のように思える。
 現在、西城の西下は墓地になっているがこの横堀は本来はこの部分にまで廻っていたかもしれない。 
西城は築城当時の部分であったと思われる。
ただし、横堀の部分は戦国末期に整備された遺構と考えられる。 
 構造的には北にある久米城の南城にある堀の形状と良く似ている。
 西城の北側に2本の尾根が延びている。
 西側の尾根には基部に土塁がある。
 南側に堀があるように窪んでいるが、どうも土塁を盛り上げた跡といったほうが妥当かもしれない。
 尾根を遮断するためには普通、堀切を造るが土塁のみで遮断する手法は余り見たことはない。同じものは大子の荒蒔城にある。
 この尾根の先はだらだら下るが、水田地帯に突き出た先端部は岩山があり、ここが物見台であったようである。
 もう1本の東側の尾根には2段の曲輪があり、その北側は急になり、5m下に幅5mほどの小曲輪があり、その先にも曲輪状の平坦地が確認できる。
 この2本の尾根間の谷も深く、この城の緩やかな南側斜面とは全く様相が異なる。北側だけ見ると山入城のようである。
 右は北から見た鳥瞰図である。
この方面から見ると完全な山城であり、南から見た姿とは全く印象を異にする。
  
北側台地下にあった鶴ヶ池は自然の水堀となっていた。台地突端の西側は崖である。東側は佐竹寺に続く平坦部となっている。
 本郭の東側は台地の平坦地に続くが、堀を介し、押葉平と言われる二郭が存在する。

二郭内を通る道は旧道であったという。つまり瓜連方面に通じる街道が城内を通っていたことになり、街道を扼する城、関所城でもあったようである。
 この点では、山方城や石塚城と同じである。
  ここは現在、住宅地と畑地となっているが、東端に幅15mの堀跡が明確に残る。
 これより東側は佐竹寺までは一面の畑であり、城郭遺構は見られない。失われてしまったのか、始めから存在しないのかは分からない。
 二郭の北に突き出た尾根先端にある稲村神社の地は出城であろう。
 城としては郭を段状に配置する比較的古い様式の城であるが、端々には雄大な中世城郭の遺構が残る。
 山入の乱で天神林氏が滅亡してからの城主の名は不明であるが、この城は関所としてまた常陸太田城の出城として佐竹氏が直轄して城代を置いて存続していたと思われる。
 戦国末期の遺構もあることから、佐竹氏が常陸太田城に移った後も常陸太田城の南西方面を守る拠点の役割を担っていたものと考えられる。

本郭は畑になっており城址碑が建つ。 本郭と西城間の堀。 本郭と二郭間の堀。 西城にある源氏塚古墳。
源氏塚の南側は畑になっている。 西城西側の堀切。 西城西の曲輪は横堀を持つ。 二郭東側の堀跡。幅20m程度。

 この城には馬坂城、間坂城、佐竹城と他に稲木城、天神林城という別名もある。
 小野崎系天神林氏、佐竹氏、佐竹系稲木氏、佐竹系天神林氏と城主が多く交代し、それも戦国前期以前の話であり、記録も定かでない。
 これだけの数の別名を持つ城も珍しい。
 同一城説が有力であるが、これが全てこの城を指すのかについては諸説がある。
 稲木城跡と伝承される場所もある。(宅地化で城郭遺構は分からなくなっているらしい。)稲村神社別城説もある。

 稲村神社は二郭と佐竹寺の間から北側に突き出た半島状の尾根突端にある。
 この本殿に建つ部分がいかにも城らしい雰囲気を持つ。神社のある尾根上に参道がある。
 この道は尾根先端に向かうにつれて下りになる。途中、参道は堀底のような感じとなり、両側には切岸のような段差があるところもある。
 神社本殿のある部分は7mほど盛り上がり、その手前は細尾根となり参道が土橋状である。(左の写真)
 本殿のある地は直径40mほどの平坦地であり、周囲は一気に高度差25mの急斜面である。


 

 本殿の地に北側は深さ3m、幅30mにわたり窪んでおり、堀状となる。
 その北側が2mほど盛り上がり、直径30mほどの平坦地となっている。ここは藪状態であるが社が建っている。(右の写真)
 この地形は要害性に富み、小型の城そのものである。 
 この場所が稲木城であったのか、馬坂城の単なる出城として築かれたのかは分からないが、城であったのは間違いないものと思う。

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