瑞竜城砦群
瑞竜城砦群は佐竹氏の本拠地、常陸太田城のある鯨ヶ丘台地の東側の南北に長い半島状台地、瑞竜台地の南端部にあった。
この台地、幅は400mほど、比高は25m程度である。城砦群と書いたが、小さな防衛用の砦も兼ねた館が周辺部に3つ、あるいは4つ(4つ目の小野館の場所は旧瑞竜小学校の地とも言われていたが発掘では遺構が確認できず特定できていない。)存在し、台地を堀と土塁で区画した城砦都市と言うべきであろう。なお、館の築かれた時期にはばらつきはあると思われる。
しかし、戦国末期においては、4つの城館とも廃城になっていたとは考えられず、4城館とも現役であったと思われる。
館の遺構はほとんど湮滅しているが、台地を分断する堀と土塁が現存していることが確認されたことにより、ここが城砦都市であったことが判明している。

館と堀、土塁で区画された内部は武家の住居が存在していたものと思われ、旧棚倉街道も通っていたようなので宿もあったかもしれない。
そのイメージを復元想像図で表現してみた。
この城砦都市の支配人(管理者)は戦国初期は小野崎氏でしたが、山尾城、石神城移転後は佐竹一族今宮氏になったと思われる。
常陸太田城との距離的関係から常陸太田城の防備を担当する佐竹氏の旗本クラスの居館団地、あるいは奥州に出陣する佐竹軍の軍勢集合地・宿営地ではなかったかと思うのですが?
さて、真相は如何に?

小野崎城(常陸太田市瑞竜町)
瑞竜城砦群最大の城館であり、城砦群の中心的な城である。
現在の瑞竜中学校の敷地が城址である。
台地の南端に位置し、台地下からの比高は27m。直ぐ西には今宮館がある。

東西180m、南北350mの単郭式居館様式であったと言われ、周囲に土塁が築かれていたという。
この広さからして現在の瑞竜中学校の敷地が、ほぼ主郭部に相当するものと思われ、敷地境界が土塁、その外側の道路が堀の跡であったと推定される。
しかし、北側は現在、人家と畑であり、その痕跡は見られない。

ただし、西側は若干、畑が窪んでおり、堀の名残のようである。
この城については、中学校建設で一般には遺構は湮滅したとされている。
しかし、南側にまわってみると、見事な帯曲輪が斜面に残され、かつての大手道であったと思われる小道が台地南下に続いている。
この小道沿いに、かつて門の礎石が発見されている。
帯曲輪は大手道を挟んで東西にあり、総延長は100m近い。
主郭部跡である校庭からは6mほど下に位置する。
切岸の勾配は鋭く、曲輪内は平坦であり、突き出しは15mほどである。
なお、現在、校庭の南側を小道が1周しているが、これは犬走の跡のように思える。

台地平坦部に続く北側には搦手口があったという。
発掘調査では大型の掘立式建物跡や柵列が検出され、陶器片や北宋銭が出土している。
鳥瞰図は中学敷地が主郭という仮定に基づき、周囲を土塁が覆っていたということと、北に搦手口があるという事実を盛り込りんだ。
北側は、当初、2重堀ではないかと推定したのだが1重であったらしい。

作図には川崎春二氏の「奥七郡の城館跡と佐竹470年史」掲載の図を参考とした。
この図は戦前に描かれたものであるが、南斜面の遺構の記載は現状と一致しており、かなり精度が高いものと思われ、十分信頼できるものとおもわれる。

郭内に土壇があったというが、これは古墳かもしれない。
鳥瞰図では、南側斜面に実地で見たとおりに帯曲輪を描いた。
西側の谷津沿いを旧棚倉街道がとおり、街道を西の今宮館と挟んでいた。

小野崎氏退去後は、やはり常陸太田城の出丸として、棚倉街道を扼する砦・城であったと考えるべきであろう。
また、単郭としては郭内が広く、佐竹氏が奥州に出陣する際の参集してきた軍勢の駐屯地にも使われていたのではないだろうか。

現在、南側の低地から瑞竜台地に上がる道路は、今宮館(白鷺神社)の南斜面から東斜面を削って造られているが、旧棚倉街道はその道路の東側の谷津を通っていたようである。
この街道こそが、佐竹義重の奥州出陣の道であり、里川沿いに里美の谷を抜け、東館、羽黒山、寺山、赤館に通じる。
また、古くは源義家が後三年の役で奥州に行った道でもある。
近世においては、この北に水戸徳川家の墓所があり、歴代藩主が先祖の墓参りに通った道でもある。
当然、その中には水戸光圀や徳川斉昭もいたはずである。


西側から見た城址。木の手前が窪んでおり、堀跡
のように思える。
南側斜面の帯曲輪を主郭部側から見る。 帯曲輪内部。右側が主郭部の切岸である。

この城は小野崎通盛が久安年間(1145〜51)に築城し、10代目の通胤が櫛形城に転出するまでの200年間居城したというが、この小野崎氏も佐竹家臣では外様ではありながら、特異な地位にあった一族である。

小野崎氏は『尊卑分脈』や『小野崎系図』などによれば、藤原秀郷の曾孫、通延のとき、常陸国太田郡に住み太田大夫を称したとある。
しかし、この説には異論がある。
第一、藤原秀郷の子孫の一族が移って来た明確な記録や伝承がないのである。
当然、移ってきたとすると既にこの地に根を張った部族との間に何らかの確執が生じるものであるが、その様相を記録した資料も伝承もないのである。
このため、小野崎氏はもともとこの地にいた部族の末裔ではないかという説である。
(詳細は樹童さんのHP「古樹紀之房間」の「常陸の小野崎・那珂一族の系譜」http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/hitatinaka.htm 参照。)
この可能性がある氏族としては、金砂神社に係る氏族か常陸風土記に登場し、古墳群や線刻壁画横穴を残した長幡部族等、海から来たという伝承を持つ律令時代に既にこの地に来ていた氏族が考えられるという。
その末裔と考えれば結構筋が通る話である。

藤原秀郷の子孫を称したのは、将門を倒した英雄を先祖とすることで一族の地位向上を狙ったものかもしれない。
このようなことは戦国時代も通常的にやられている一般的なことである。
ともかく、平安時代の中ごろには、小野崎氏の居城は後の常陸太田城の地にあり、一族が馬坂城にいたらしい。
この小野崎城も既にその当時から存在しており、一族が住んでいたのかもしれない。

通延の子通成の代に新羅三郎義光が常陸に入り、馬坂に子の昌義が居住する。
この経緯としては、後三年の役に出陣する源義家がこの地で長期間駐留して軍備を整え、この間にこの地の土豪に支配権が及ぼしたという下地があったため、比較的すんなり入部できたのではないかと考えられる。
この時、すでに小野崎氏も朝廷の命を受け、都から派遣された源氏の権威に従属していたようである。
やはり田舎者の小野崎氏にとっては都の朝廷の権威は絶対であったのであろう。
源義家がこの地に長期間駐留していたことは数々の伝説から伺える。

水戸市渡里の長者屋敷伝説、那珂市の義家鞍掛石、高萩の堅割石等である。
また、常陸太田市の三才の地名は、義家が3年間ここに駐留して、兵馬を養ったという言い伝えが残っているので事実であろう。

しかし、馬坂に居を構えた佐竹初代昌義は、小野崎氏支族、天神林氏刑部丞正恒が居城していた馬坂城を長承2年(1133)に奪い、3代目隆義が常陸太田の地に館を構えていた太田太夫こと通盛を追い常陸太田城に移る。
この時、小野崎通盛が移った先がこの小野崎城という。
都の政争で諜略に長けていた源氏にとっては、田舎者の小野崎氏を手玉に採るのは朝飯前であったであろう。

なお、この時始めて地名を取って小野崎氏を名乗ったという。
通盛の子盛通、通頼らは根本、赤須に分家して居住したという。今でも根本姓、赤須姓はこの地方に多いがいずれも、小野崎氏の子孫である。
根本館は里川の対岸にあり、赤須館は里川の上流に位置するので、この里川流域が小野崎氏の領土であったようである。
常陸太田城に移った佐竹氏は強大化し、小野崎通盛の子通長の代には、佐竹昌義に完全に従属し、家臣となる。
以後の小野崎氏の歴史は佐竹氏とともにある。

山入の乱で一時的に佐竹氏が弱体化した頃、子孫の額田小野崎氏が佐竹氏の領地を押領したり、最後には反逆して滅ぼされる支族もあったが、主流の山尾小野崎氏や石神小野崎氏などは佐竹氏の秋田移封に同行してこの地を去るまで忠心をつくしている。
このため、佐竹氏も小野崎氏を頼ることが多く、必然的に重臣の地位が保障される。
鎌倉時代は佐竹氏の力が金砂合戦の敗退の影響で弱かったようで小野崎氏も余り登場して来ない。
小野崎氏が本格的に登場してくるのは南北朝期以降である。
当時の当主は小野崎通胤であり、彼は北朝方に属した佐竹氏に従って戦い、南朝方の大塚氏に備えるため、佐竹氏より櫛形城を与えられる。
貞和4年(1348)通胤は櫛形に移す。

この時、小野崎城は廃城になったというが、小野崎城が常陸太田城の北西600mと近く、小野崎氏を警戒した佐竹氏が領地拡張を餌に退去させたというのが本当ではなかっただろうか?
小野崎城は常陸太田城防衛上は出丸に位置する場所にある。
この場所を占拠され、付け城を置かれたら常陸太田城が危なくなる。
したがって、実際は廃城にはなってはおらず、棚倉街道筋を守る関所城として存続していたと考えるのが自然であろう。

櫛形に移った小野崎氏は、応安三年(1370)通春の代に山尾城に移っている。
このため、この家を山尾小野崎氏という。通春の弟、通房は石神小野崎氏、通業は額田小野崎氏と分家する。
山入の乱は、小野崎氏にとって独立大名となる絶好のチャンスであった。
しかし、小野崎氏の行動は独立を目指すほど積極的ではない。

額田城は山入氏側に付いた佐竹系額田氏滅亡の後、小野崎氏に与えられたので、佐竹宗家側に付いていたようである。
その後、佐竹氏の内紛に係る動きをしているが、決して佐竹氏を駆逐し取って代わるという意思はなかったようである。
これは江戸氏も同様であり、領土拡張という野心があっただけのようである。
小野崎氏、江戸氏にとっても、源氏という武家の名門である佐竹氏という存在は別格であり、常陸国の代表という見方があったようである。
この考えは戦国時代末期まであったようであり、常陸には鹿行の島崎、麻生、武田氏や江戸氏等多くの半独立の小大名が乱立していたが、彼らも佐竹氏の命があると北条氏との合戦に出兵したりしている。
どうも彼らにとって佐竹氏は常陸国というクラスの取りまとめ役、学級委員長のような感じではなかったのだろうか。

佐竹系額田氏が滅亡したあとの額田城に入ったのが通業の孫通重であり、通重の流れが額田小野崎氏である。
小野崎氏は佐竹宗家に付いたり、山入氏に付いたりするが、主目的は領土の拡大であった。
しかし、乱の終盤になると岩城氏が仲介し、小野崎氏や江戸氏も佐竹宗家側で行動するようになる。
山入の乱は永正元年(1504)山入氏滅亡で終息するが、乱の終盤、佐竹氏を支援したことで小野崎氏の地位は佐竹家臣団の中で上がる。
しかし、これは1方で小野崎氏が独立大名となる機会を永遠に失ったことを意味する。

山尾小野崎氏は成通に嗣子がなく、佐竹義篤の二男義昌を娘の婿とし、佐竹一族となる。
この小野崎義昌は、人取橋の合戦で下僕に刺殺された佐竹義政と同一人物であったようである。
義昌の跡は、佐竹一族の東義久の二男源三郎宣政が継ぎ、彼の代に秋田に行く。
なお、秋田でも佐竹氏の重臣として明治まで続き、その子孫は秋田を中心に健在である。
一方、分家した額田、石神の両家のうち、額田小野崎氏は、自立性が高く、たびたび佐竹氏に反抗し、天正18年佐竹義宣の攻撃を受け滅亡。
当主、小野崎従通が伊達政宗を頼って逃げている。(佐竹氏が秋田に去った後、帰国し、水戸徳川氏に仕える。)

一方、石神小野崎氏は、延徳元年(1489)、深荻の戦いで戦死した小野崎通綱の功により、佐竹義治から子の通業に石神、河合の地を与えられ、石神城を居城にした家である。
以後、石神小野崎氏は佐竹氏とともに行動し、佐竹氏に従い秋田に去っている。

なお、同族の額田小野崎氏と石神小野崎氏は仲が悪く、久慈川の鮭の密漁を巡って紛争を起こし、佐竹氏の仲介を招いている。
この扮装をモデルにし江戸時代に書かれたものが「石神後鑑記」である。
ここでは石神小野崎氏は滅亡したことになっているが、これは事実ではなく、戦国末期も健在であった。
小野崎氏の子孫は一族にゆかりのこの城址に「小野崎城跡」の碑を建てている。
その碑文には次のように書かれている。

『小野崎氏は中世の常陸国で佐竹氏の宿老や守護代の重職を勤めた名族である。
はじめ鎮守府将軍藤原秀郷の六世の孫・通延が常陸国太田郷に移住し太田大夫と称した。
その子の通成は佐都郡に移り孫の通盛のとき、小野崎の地に土着して小野崎氏を名乗り城を築いた。

通盛の子通長の時に佐竹氏に臣従し、代々主家を助け身命を授け打って多くの合戦に活躍した。
南北朝の動乱がはじまると小野崎一門は佐竹義篤に属して各地に転戦し、討死する者もあった。
佐竹氏はこの動乱に対処するため小野崎通胤を多珂庄に移した。
通胤は父祖の地を去り友部に築城して移住した。

その子通春は隣接の地・山尾に築城して移り小野崎惣領家は代々山尾に居住して山城守を称することになった。
小野崎城址は小野崎氏発祥の地であり通盛、通長、通政、通経、通房、為通、高通、常通、行通、通胤に至る十代約二百年間の血と汗の地である。
ここに小野崎氏の末裔が相はかり祖先の偉業をしのび、史跡を後世に伝えるために記念碑を建立するものである。』

2007年 2月4日 小野崎城南斜面突入記

2006年夏に小野崎城のある瑞竜台地の南端の斜面部に遺構が残存することを確認したが、この時は、何しろ夏であり、下まで行くのは躊躇した。
このため、鳥瞰図の斜面下部はある程度の想像で描いた。
ようやく冬になり、大嫌いな蛇も冬眠し、草も少なくなったので突入を試みた。
しかし、ここは何と言っても中学校の敷地である。
いくら休日であっても部活などで生徒がいる。
そこにカメラを持った怪しげなおっさんがウロチョロしていたら、これはヤバイ。
そこでこの瑞竜中の生徒である娘をカモフラージュに利用。
さすがに親子連れ、おまけに生徒なら疑われることはないであろう。
2007年2月4日突入。
確認の結果、鳥瞰図とは異なる部分がかなりあった。
その結果、描いたのが右の図である。
南斜面は、腰曲輪が2段程度の単純さかと思っていたが、予想以上に複雑であった。
台地上の道から下にある曲輪T、Uまでは5mほどの高さがあり、切岸が崖状で降りるのが大変である。
ここには、斜めに降りる道がちゃんとついていた。
(小竹が密集していて夏場は分かりにくい。)これが大手道であろう。
したがって、大手門は、校庭が内側にカーブした奥側の位置にあったのであろう。
曲輪T、Uの間が谷間になっており、その谷沿いに大手道が下り、曲輪Vがある。
ここは階段状に3段の構成になっている。
大手道はここを下っていたのであろうが、道は分からなくなっている。
ここまで降りるのが大変であるが、娘は躊躇するかと思ったが、面白がって付いてくる。
歩きにくい場所も平気なようである。
曲輪V内は平坦であり、一番下の曲輪は一辺30mの三角形をしており結構広い。
内部は孟宗竹が密集しており、特に枯れた竹が倒れていて歩きにくいことこの上ない。
一番下の曲輪の西に沼地がある。
ここに湧水があったようであり、当時は水堀であったのかもしれない。
ここから下までまだ8mほどある。
この南斜面は急傾斜であり、この部分だけ見るとまるで山城に来ているかのようであった。
一番下の曲輪からは西下に通じる小道があるが、これが大手道であろう。
また、東側にまわる道が付いている。この道は犬走といった感じである。
この道を行くと東側の中腹にある曲輪のような平坦地に出る。
しかし、道はここで途切れている。
しかたがないので、上の曲輪まで親子で急斜面をよじ登る。
よじ登った場所が曲輪Wである。北側に下に下る道と上に登る道が付いている。
上に行くと瑞竜中のプールの横に出る。
これもかつての登城路であり、東虎口があったのであろう。
北東側にも鳥瞰図では堀を描いたが、現在の地形を見ると、急な切岸のみがあったと思われ、堀は存在していなかったようである。
娘の感想「ああ、面白かった。」冒険気分なのだろう。
しかし、主要部は失われてしまったものの、少し外れた場所には遺構は、結構残っているものである。

左の写真は中学校敷地の西側である。
当初、ここは敷地造成に伴う段差かと思っていたのだが、ここが切岸の跡なのだそうである。
かつては右手本郭側には土塁があったため、もっと高かったはずである。
左側が堀跡である。埋められてはいるが若干窪んでいる。
曲輪V内部であるが、御覧のとおり枯れた竹が倒れて歩きにくい状態。 斜面中腹には犬走のような道が斜面を半周していた。 これが東虎口であろう。ここを登ると中学校のプールが目の前に現れる。
東斜面の曲輪W。東虎口に至る道はこの曲輪を経由して台地下に下る。 中学校の東側。下のぶどう園には堀はなかったように思える。 曲輪Xである。東虎口を守る曲輪だろうか。

今宮館(瑞竜町字今宮)
白鷺神社境内が館跡。
瑞竜台地の南西端に位置し、東側には浅い侵食谷を挟んで小野崎城がある。
館は台地端の基部を堀切り、掘り上げた土で土塁を構築していたらしい。

東西、南北とも100m程度の大きさの単郭式である。
始めの館主は、佐竹氏十三代義憲の第五子、義森であり、応永年間に今宮別当として住み、後に小野岡(生瀬)の高倉城に移ったという。
その後、館主として佐竹十六代義舜の庶子永義が今宮別当となって居館し、ここを本拠に修験頭となり領内の山伏を統率したと言われる。
このため今宮大納言坊館という別名がある。
今宮氏は佐竹七党または七頭と称する武装修験僧集団を統率し、この集団が佐竹氏の重要な軍事力として封建支配機構の一端を担って小野崎城や小野館等に駐屯していたと言われる。

館は北側に土塁と堀があったというが僅かにその痕跡が確認できる程度である。
東側の現在市道となっている旧棚倉街道も、当時は堀底道となっていたものと思われる。
ここから上がる道の両側に土塁が比較的良く残る。館の西側、南側は崖であり、この方面に土塁はない。(古墳が1基存在する。)
館は西側の低地を挟み、常陸太田城がある鯨が丘台地と相対し、馬場城、馬渕館と対する。
この館は小野崎城と共に常陸太田城の東側の出城、砦としての役目もあったものと思われる。
永義から始まる今宮氏は4代続き、義賢の代、館は佐竹氏の秋田移封で廃された。
なお、現在、館跡に建つ白鷺神社は江戸時代、ここに移されたという。
はじめは熊野権現と称していたが、水戸光圀が白鷺が舞うのを見て「白鷺神社」と名付けたという。

館内、東側に土塁跡と思われる盛り上がり
がある。
東側から見た館址入口。道路は堀底道跡? 南東低地より見た館址(林の部分)

八百岐館(瑞竜町)
瑞竜台地の中央部西側に位置する。
台地の東側にある小野館とは約500mの位置である。
西側は比高20mの台地崖面であり、東から南西にかけて台地を侵食した谷津があり、北東側のみが台地平坦部に続く。
東西50m、南北70mのほぼ長方形をした単郭の館であり、北側と東側に土塁と堀が築かれていた。
現在は土塁の土で堀が埋められた状態であるが、それでも郭部は周囲より2m程度高く、虎口も明確に確認できる。
鳥瞰図は測量図と現地調査に基づき作成したものである。
 初代館主は小野崎一族、小野崎城主小野崎通胤の2男通房であり、南北朝期に築館したと言う。
 3代後の通茂は延徳元年(1489)芦名、伊達、白河、結城の連合軍と里美村深来の戦いで戦死し、この功により4代通老は石神城を与えられ、館は廃されたらしい。
後に石神小野崎氏として佐竹重臣として発展することとなる。

(追加)

2007年3月4日この八百岐館に城内に住むPさんの案内で突入。
館跡は廃館後、密蔵院という寺院となっていたそうである。

あったはずの土塁はほとんど失われていたが、西側に一部残存していた。
堀もほとんど失われていたが、どうも館内にある墓地が少し低くこの付近が堀だったようである。
面白ことにこの墓地の墓の家紋は全て「佐竹扇」なのである。
墓地の南側が若干高いがここは土塁を崩して均した跡のように思える。
主郭と推定される部分は杉林である。
西側に1段、腰曲輪があり、南側には4段の腰曲輪が段々状にある。
段々になった曲輪には水が湧いている部分があり、これにはまると大変である。
ただし、ここは凄まじい小竹の藪であった。
西側には抉れたような部分があるが、崩落したもののようにも見える。
しかし、岡の下には崩落した土砂が見られないので、館があった当時のままの地形のようにも思える。
南東側は大堀から続く、谷津であるが、ここは自然地形であろう。
岡の下の部分はやはり湧水が多く、ぐちゃぐちゃ状態である。

館北東に明確に残る虎口部分 館東側の窪地 これが大堀の跡らしい。
館東下の畑が堀跡らしい。右が主郭。 西端には土塁が残る。 主郭内部は孟宗竹と杉が密集。

小野館(瑞竜町能ノ堂)
小野崎城の北800mの位置にあり、旧瑞竜小学校の敷地が館の跡と言われていた。。
約60m四方の単郭の館であったという。

周囲に2重の土塁と堀が存在したと言われるが、小学校の建設で遺構は分からなくなっている。
北から南に細長く延びる瑞竜台地の中央部の東端にあり、東側は崖、南側は侵食谷で自然の大堀を成している。
この立地は東を西に代えれば八百岐館と同じである。

小学校南側の道(江戸中期以降の棚倉街道がこの道らしい。)が二重土塁間の堀底道を拡張したものと考えられ、城郭的雰囲気があるのだが・・。
しかし、小学校校庭の発掘調査では城郭遺構は確認されていなく、この場所と特定できない状況になっている。
佐竹十三代義憲の子義高が小野氏を称し居住した。
館は佐竹氏の秋田移封で廃された。常陸太田城の里美方面の出城的な位置付けがあったと思われる。

瑞竜城砦群について

小野崎城については「瑞竜中の敷地だけが城域ではなく、より広い城であった。北側の小野館、八百岐館付近まで城域であり、大きな堀が存在していた。」という伝承がある。

このことは、小野崎城の防御が弱い台地続きの北側に堀、土塁が1重しかなかったことからも、小野崎城の北に何らかの防御施設が存在していたことが想定できる。

八百岐館の東側には堀跡と考えられる窪みがあるが、どうもこの窪み(堀)は小野館(瑞竜小)南側の谷津まで続いていたように思える。
台地中央部にも堀跡を思わせる若干窪んだような部分がある。

これらのことから小野館の南から八百岐館の東にかけて台地を仕切る大堀が存在していたことが想定できる。
小野館と八百岐館は堀の外側に位置することになるが、両館は「馬出」のような機能があったのではないだろうか。
また、八百岐館北側の小字を「外城」というが、これは八百岐館自体のことではないだろうか。
すなわち、八百岐館は出城ということになる。

外城があれば当然、内城が存在する。その内城こそは、この大堀の南側を言っているのではないだろうか?
現在の字では八百岐館付近を「北屋敷」といい、その南を「南屋敷」という。
この字がついた場所からは、瓦の破片が出るそうである。このことから大堀の内側に屋敷があったと推定され、総構えを持つ城下町が形成されていたようである。
鳥瞰図においては、内城である区域に「居館」を描いているが、これはフィクションであり、本当にこのように存在していたのかは分からない。
小野崎城北側一帯のこの城下町の部分が、小野崎の二郭に相当し、これが広義の小野崎城と言えるであろう。
上の2枚は城砦群の位置関係図(国土地理院HP地理閲覧サービスの25000分の1の地図、当該部分を使用して作成。)と想像鳥瞰図である。
中を主要幹線である棚倉街道が通っているので、常陸太田城の出城であるとともに、関所城、宿城でもあったのであろう。
このような城砦都市が形成されたのは、小野崎氏の移転後、佐竹氏によってであろう。
この城砦群の主が誰かは分からないが、佐竹一族の今宮氏の居館が今宮館であったので、今宮氏一族ではなかっただろうか。


(2007年3月4日外郭の堀と土塁を確認)
上の記事に「八百岐館の東側には堀跡と考えられる窪みがあるが、どうもこの窪み(堀)は小野館(瑞竜小)南側の谷津まで続いていたように思える。
台地中央部にも堀跡を思わせる若干窪んだような部分がある。これらのことから小野館の南から八百岐館の東にかけて台地を仕切る大堀が存在していたことが想定できる。」
と書いた。この日、この付近に住むPさんと「台地中央部にも堀跡を思わせる若干窪んだような部分」の確認に行く。
まさにこれが、堀と土塁なのであった。民家北側に高さ2mの土塁が50m続いているのである。その北側が堀なのであるが、竹が密集しておりかなり埋もれている。幅は8m位はあったようだ。
この部分は北側の道路からは竹林しか見えなく、その南にある土塁が見えなかったのである。
「ことから小野館の南から八百岐館の東にかけて台地を仕切る大堀が存在していたことが想定できる。」
という記述は「ことから小野館の南から八百岐館の東にかけて台地を仕切る大堀が存在していた。」と書き換えることができるのである。
まさに小野崎城は瑞竜中学校だけが城域ではなく、その北側に外郭を持っていた大型の城郭だったのである。

これが外郭の土塁である。 土塁上から撮影。左の竹林が堀。 堀の中なのであるが・・。これじゃ分らん。

(おまけ
棚倉御山道碑

小野崎城(瑞竜中)西側の道を600mほど北に行くと、左右に道路が分岐する。
その交差点にこの碑が建つ。
碑には「従此右棚倉、左御山道」と刻まれている。
この碑が建ったのは、江戸時代中ごろであり、水戸徳川家が墓所の瑞龍山に墓参りに行く道を整備した時に建てたものという。
江戸時代中ごろ以降はここを右に折れて、小野館(瑞竜小)南側の坂を下りていくのが棚倉街道となった。
なお、御山は瑞竜山のことである。しかし、それ以前は、この場所の東、50mにある車が1台通れるだけの細い道路が棚倉街道であったという。
この旧棚倉街道は小野館(瑞竜小)の西側を通っていたという。
なお、瑞竜の名は源義家が関わっており、行軍中、義家の馬が暴走し、この地で留まったので「隋留」の地名が起こり、光圀がこの地に墓所を定めた時、竜(竜って何のことだろうか?トカゲ?おそらく黄門さんのフィクションだろう。)が現れ、これを瑞兆とし、「瑞龍」と改めたという。
(その後、龍を竜と書いたりして、ばらばらになっている。)