常陸太田城(茨城県常陸太田市)
戦国時代、常陸国と奥州南部を支配し、北条氏、伊達氏とバトルを繰り広げた佐竹氏が本拠にしたのが、常陸太田城である。
しかし、この城、名前は知られている割にどんな城だったのかよく分らない。謎の城と言えるでだろう。
なお、戦国時代、「常陸太田」という名前はない。
明治時代、町制施行で群馬の太田と競合してしまい、区分するため常陸を付けたとのこととういう。
それ以前は単に「太田」と言ったようであるが、太田とはだいたい地方の中心地に付けられる名で、常陸の太田は守護所を置いたため付いたのではないかと思われる。
したがって、戦国時代は「太田城」と言ったのかもしれないが確証はない。
「舞鶴城」とは言っていたようではあるが、守護館を指す「お館」と通称していたのではないかと思うが、ここでは便宜上「常陸太田城」という名前を使う。

謎の城と言ったが、若干の遺構は残っている。しかし、それも断片的、部分的で、全体像が市街地に埋もれてしまい掴めない。
江戸時代は水戸藩の支所として使われていたようであり、絵図も残っている。
ただし、この絵図に描かれた城が佐竹氏時代のものを改変したものなのかどうかは分らない。
現実に絵図とは異なる図も存在する。
江戸時代は行政用の支所であるので、事務所スペースを確保するため、堀、土塁は破壊して埋めている可能性もあり得る。
いくつかの制約条件はあるが、歴史に名を残す城であり、残された資料からこの幻の城の再現を試みた。

1 歴史と構造
中世の常陸の国を語る上で欠かせない城郭である。
関東七名城の一つに数えられているほどの城郭であるが、前述のように遺構はほとんど残っていない「幻の城」である。
城は遠浅の海底が隆起し、里川と源氏川により侵食されて残った南北に長い標高約45mの半島状に台地である鯨が丘台地上の中央部にある。
この台地は幅500m程度と狭いが、台地上はほぼ平坦であり、城は台地中央部を何本かの堀で堀切して築かれている連郭式の平山城である。
台地の東は高さ30m程度の崖であり、台地下は湿地帯であり、東から城を攻撃することは難しい。

↑は西側の西山公園から見た三郭。林の部分が若宮八幡宮、その右側が常陸太田市の旧市街、当時の根小屋である。城、根小屋とも岡の上にある。

台地西側は東側よりは若干勾配が緩やかであるが、源氏川の湿地が広がっており、実質の水堀状態であったと思われる。
南端部はややなだらかに低地につながり、その先の現在の常陸太田駅の南側は湿地であった。
城は台地の比高が最も高い台地中央部に主郭部を置き、南に城下町(外郭、外曲輪)を置いている。
北側はそのまま阿武隈山系の山地につながる。

言うまでもなく中世常陸国の主人公である佐竹氏の本城として名高く、佐竹氏はこの城で460年間にわたる歴史を持つ。
城の起源は必ずしも明確ではないが、平安時代中期 天仁2年(1109)藤原秀郷の4代後の通延の築城と言われる。

佐竹氏は西方の馬坂城を居城としていたが、3代目の隆義の時に太田城主の通成(通延の孫)に圧力をかけ、小野崎城に追い太田城を手に入れたという。
つまり、佐竹氏のオリジナルではないのである。ちなみに佐竹氏が常陸国で居城とした馬坂城、常陸太田城、水戸城、すべて奪い取った城であり、オリジナルの城は秋田に移って築城した久保田城が始めてなのである。
この時、追われた通成は小野崎氏を名乗っており、後の山尾城、石神城、額田城の城主となる小野崎氏の先祖である。
隆義入城の際、鶴が城の上空を飛んだので舞鶴城という別名が生まれたとも言う。
(丘の上に本郭を中心に二郭、三郭が左右に並び、白壁であったため、鶴が羽を広げたように見えるので舞鶴城というという説もある。)

以後、460年間にわたる佐竹氏の歴史は波乱に富んだものであったが、拠点を水戸城に移すまで太田城を根拠地としている。
この間、源頼朝との戦い、南北朝時代、山入の乱の時等、何度か城を離れたり、奪われたりしたことがあった。
常陸太田城は関が原の戦い後の佐竹氏の秋田移封で生命を終えた訳ではなく、江戸時代は水戸藩の支庁が置かれ、太田御殿として存続している。
江戸時代に描かれた図面では佐竹時代よりは縮小されてはいるようではあるが、郭配置等は佐竹氏の時代のものが、ほぼそのまま継承されている。
最終的に城が廃城となったのは明治に入ってからであり、その間、城の寿命は750年近くに及ぶ。
明治初期に城域は払い下げられ、宅地造成のため土塁は破壊され、堀が埋められてしまった。

2 遺構
主郭部

太田小学校の校庭付近が本郭に相当する。
小学校北側に堀があり、その北側、旧日本たばこ跡地付近が二郭、小学校南側、進徳幼稚園から若宮八幡宮、郵便局付近が三郭、太田1高の地が北郭、帰願寺の地が出城の駒柵であり、帰願寺境内には櫓台跡、帯曲輪が確認できる。東西に延びる道路はほぼ堀跡に相当する。
太田小学校と東側の県道33号線の間に段差があり、その段差が本郭の東端に相当し、土塁と堀があった。

@本郭南西端の突起部、ここには何があったのだろう。 A本郭と西下の帯曲輪 B本郭西側に残る土塁
C二郭西端の櫓台跡 D帰願寺前から見た二郭の切岸と櫓台 E二郭西側に段差があるが、ここが土塁と堀の位置。
F本郭内部は2つに分かれていたともいう。ここが堀跡? G二郭のほとんどは日本たばこの工場になっていた。 H二郭北東の通路兼用の堀跡。
I本郭(右)と三郭間の堀跡。 J三郭に建つ若宮八幡宮、かつては本郭にあった。 K三郭西下の横堀跡



県道33号線はおそらく当時もそのまま街道として存在していたのではないかと思われる。
この間南北1000mの大きさがあり、東西は最大500mという広大なものである。
なお、若宮八幡宮は現在の太田小学校の北東端部付近に位置していた。
そこは本郭にあたり、源氏である佐竹氏の氏神であり、出陣時に勝利を祈願したものと思われるが、江戸時代、本郭を水戸藩の政庁として使うため、現在地に移転したという。

L出城の駒柵跡に建つ帰願寺 M駒柵の櫓台 N駒柵に残る腰曲輪



外郭部

主郭部の南には城下町(外郭、外曲輪)が長さ約1500m、幅300〜500mの細長い形で続く。今の旧市街地に相当する。
この城下部分も台地上の平坦部にある。
東西は高さ30m程度の崖であり、城下に入るには台地に上る急勾配の数本の道以外になく、城下町自体も十分な要害性を有している。

↓は東下から浄光寺を見たもの。凄い崖である。

台地上へ上がる道には木戸があり、木戸を抑えられると城下に入るのも難しかったと思われる。
↓板谷(ばんや)坂もその1つであるが、番屋が訛ったものであり、ここに文字通り城下への入口を管理する「番屋」があった。

台地上の要所要所には出丸が築かれていた。現在、寺院となっている浄光寺、法然寺、梅照院がこの跡地に当たる。
法然寺境内には堀跡が見られ、砦状になっている。
その南側、旧消防署跡地の公園南側の三叉路には東西に堀が存在していた。

法然寺の切岸、城郭地形である。 消防署跡前の三叉路には堀があった。

城下を土塁と堀で包んだ総構は平城に多く見られる。
小田原城はその代表例である。
この付近では額田城や戸村城の外郭がこれに近い。
常陸太田の街は東西の崖が天然の防壁となり、堀、土塁に代わるものとなっているため、台地上の街全体が総構えの中にあると言える。
崖上の平坦地、崖の勾配は城郭と言っても十分に通用するものである。
類似の構造が水戸城であり、現市街地に岡を南北に分断する紀州堀などがその遺構であり、同じコンセプトで整備されていたことが分る。

常陸太田城は東、西、南の防御には地形上も要害性が高いが、北側は台地平坦部に続いているため比較的防御は弱い、東側の馬渕坂方面も若干弱い。
このため、馬渕坂方面には古くから存在した馬渕館、馬場城を出丸として用い、その東方の今宮館、小野崎城も出城として活用していたと考えられる。
北側にある馬場八幡宮も城郭地形であり、ここも出丸としていたと思われる。

3. 常陸太田城主郭部の再現  
堀跡と土塁の位置がほぼ現在道路の位置と言われているため、郭の配置等はある程度範囲が推定できる。
南北1000m、東西最大500mという広大なものであり、中世常陸国最大の城郭である。
曲輪は周囲を堀で囲まれ、土塁も存在し、土塁の隅には櫓台があったと推定される。

曲輪を区画する堀は細長い台地を掘り切る形で掘られ、堀底は崖につながる。
一部は堀底道となっていたのであろう。
ここから台地下に通じる道があったと思われる。

主郭の西側は勾配がやや緩やかである。
このため、防御性を高める目的で、勾配を急にし、その前に帯曲輪を置いている。
帯曲輪は前小屋城、宇留野城、南酒井出城同様、堀底から連絡する方式となっており、これは現在も確認できる。
大部分の堀の形状は箱堀であった可能性がある。

これに対して主郭の東側(里川側)は崖状の断崖となっており、この方面からの攻撃は困難であるため、舞鶴橋の南側に帯曲輪跡が認められるのみである。
本郭、三郭の西側斜面には畝傍堀と思われる凹凸があるが確証は持てない。
内郭の東側には堀と土塁を挟んで、細長い曲輪があったようであり、その東側は崖である。

主郭は4あるいは5郭からなり、台地中央部に立地するため、中央部に本郭を持ち南北に二郭と三郭を配置している。
この本郭は東西2つの郭に分かれていた図も存在する。
一方、江戸時代の図では本郭部は1つである。
江戸時代、東西の郭間の堀は埋められた可能性もある。または小田城の本郭内でも見られるように曲輪内部を区画するものであったのかもしれない。
本郭内部には城主佐竹氏の居館、プライベートエリアと行政事務を行う政庁があったと思われるので公私のエリアを区画していたのかもしれない。

常陸太田城には付近の戦国大名や家臣やその使者等が頻繁に訪れたはずであり、二郭には客間、迎賓館に相当する建物があったのではないかと思う。
三郭は倉庫群であろうか?(または、その逆かもしれない。)

北郭は隠居場があったというので、人質等を住まわせていたともいう。
隠居した佐竹義重の父、佐竹義昭はここに住んでいたともいうし、失脚した織田信雄を佐竹氏が一時、預かっているが、彼はここに住んでいたという。
鳥瞰図は川崎春二氏の「奥七郡の城館跡と佐竹470年史」掲載の図から再現してみた姿である。

一方、一番先に掲載した想像復元図は、江戸時代の絵図等を基に再現してみたものであり、佐竹氏時代の城の縄張を改変していないということを前提にしている。
両図はかなり異なった感じではあるが、両方とも正解かもしれない。
時代が異なるため姿が違う可能性がある。

4.外郭、出城を含めた常陸太田城の姿の再現

常陸太田城は内郭部のみが城ではなく、多くの出丸、出城を有し、城域は南は現在、常陸太田駅がある木崎あたりから北は馬場八幡宮付近までの南北3000mが総構の中に入る広大なものとなる。
この部分は常陸太田市旧市街そのものであり、鯨が丘台地全体、旧市街地全体が常陸太田城と言える。
推定される城の全体図を示す。

常陸太田城は性格的に守護の居館であり、政庁である。戦闘する城ではない。金砂山合戦時、南北朝の騒乱時に佐竹氏が城を放棄していることもそれを証明している。
戦国時代には防衛を強化してはいるが、立地上の限界がある。
このため、城の西には久米城、馬坂城が、さらにその西方には前小屋城、宇留野城、部垂城が、東方には馬場城、馬渕館、小野崎城(戦国末期には小野崎城の小野崎氏の子孫は山尾城や石神城に移っていたが、昭和30年頃まで土塁があったということであり、小野崎氏が去っても廃城にはなっていなかったと思われる。)、今宮館が配置され、里川を挟んだ東方には茅根城、田渡城が、東南方向には石神城、南には額田城という支城群を持つ防衛体制を取っている。

また、北には詰めの城とも言うべき山入城(国安城)を配置している。

上記の鳥瞰図、復元図の姿は佐竹義重、義宣の時代に完成され巨大城郭となった姿を推定したものである。
築城当時の姿はより小さく、おそらく本郭部程度の規模だったと思われる。
その後、佐竹氏が戦国大名化するとともに徐々に拡大されていったものであるが、義重、義宣の時代には、佐竹氏は常陸太田城を拠点に領外で戦闘を行うことがほとんどであり、常陸太田城を舞台に攻防戦が繰り広げられることはなかった。
それ以前、山入の乱で若干の攻防があったと思われるが、常陸太田城を舞台に大きな攻防戦が行われたという記録はない。

常陸太田城と水戸城及びその城下の姿は良く似ている。
城の主郭部の位置は異なるが、両者とも細長い台地の上に城と城下町を置き、台地の崖そのものを防塁にしている。
水戸城の場合、小野崎城、今宮館に相当するのが枝川館、吉田城、見川城と言えよう。(偕楽園は庭園に名を借りた出城であると言われている。)

50万石級の大名として、国内支配を行うための必須条件である交通の便は水戸の方が断然有利である。
佐竹氏に攻略された当時の水戸城もそれなりの規模を有していたようであるが、今の水戸市市街地がある台地上は広く、未開発であり発達の余地が大きかったといわれる。
一方で常陸太田の街を乗せる台地は狭く、現在も常陸太田市の発展上、問題のある地であるが、当時、既に飽和状態に達しており、これ以上の発展性が期待できなかったと思われる。

ちなみに源氏川の低地にある「新宿」という地は丘の上が飽和状態となった結果、新しくできた町という意味とのことである。これは丘の上が飽和状態であったことを意味する。
城自体の要害性も那珂川、千波湖のある水戸城の方が高いと思われるが、水戸は山地から遠く、堅固な詰め城を持たない。
攻撃を受け落城する事態になった場合の脱出という観点では、山地が連なり、堅固な詰めの城である国安城を持つ常陸太田城の方が有利であったであろう。
ただし、戦国時代が終わりつつあり、領内統治に領主の業務の中心が移行する時代にあっては、常陸太田城の持つ要件は必要なくなって行ったのであろう。
     

▲お手数ですがブラワザの「戻る」でお戻りください。