山入古道(常陸太田市国安町)

山入古道という名称は仮称である。
この道に特に名前はない。
山入城に係るものと考えられるため、「山入」の名を冠しただけのものである。

この道は常陸太田市旧水府地区にある山入の乱の一方の主役、佐竹一族、山入氏の根拠地、山入城の東に位置し、山田川沿いの谷から東の源氏川上流の萱野地区に山中を通って貫ける道である。
地図にも載っていなく、近世の道ではないと思われるので一応、「古道」と称する。
場所は山入城の真東の複雑に入り組んだ谷津の中の山である。谷津の入口部にNTTの携帯電話の電波塔があり、そこを東に登り、途中で南に折れ、
その終点から東の山に入れば、そこが関所のような場所であり、@の古道の入口が見える。
この堀状の道が山頂部まで続く、それが仮称 山入古道である。
下の国土地理院地図の二重線部がその古道である。

この古道、ただの古道ではない。
軍事施設を兼ねた防衛用の道と考えられる。
道に城を合体させたような感じである。

いくつかの城では街道の沿って、あるいは街道を城の中に取り込むタイプのようなものもある。
山中城などはその代表的なものであるが、城郭要素が強すぎる。

一方、蘆名氏と伊達氏の抗争の舞台となった檜原の「鹿垣」(ししがき)などはつづれ織りの塹壕道をそのまま要害としている。
ここを訪れると一見、城郭のようには見えない。
難所を抜ける道と言った要素が大きい。

この山入古道はその「鹿垣」タイプのものに属する。
道の要素が大きく、城郭には見えない。
左が山麓部、数字は標高である。
古道に限らないが、防衛要素を持たせた道として塹壕状の道がよく使われる。
横堀の底を通路にした堀底道である。

塹壕状の道は兵を移動させる場合、あるいは住民を避難させる場合には敵から姿を遮断する役目を果たし、逆に敵の侵入を許してしまった場合は侵入路を限定させ、迎撃を有利にさせる役目も果たす。
当然、横堀にもなり、敵兵の道を横切っての移動を阻止できる。
中に逆木を放り込めば効果はより向上するであろう。
そのような道は常陸大宮市の高館城、北茨城市の山小屋城、桜川市の雨引要害、橋本城に麓の居館部から至る道に見られる。
これらは城の一部と言えるだろう。

@塹壕状古道の入口部、すぐに直角に曲がる。 A入口から100mほどの場所の道底。幅8m、深さ4m。 B古道に沿った土塁上から見た古道はまるで横堀である。

この山入古道は東西に長い尾根に沿って全長400m程度、標高差70m程度に渡って、塹壕状の道が断続的に構築される。
ただ、山を横断するだけの道はこのような塹壕状にすることはあり得ない。
その点でこの遺構は異様である。

塹壕状の道には何等かの意味があると考えるのが当然である。
第一、このようなものを構築するにはマンパワーが必要である。
ただ交通路にそのような工事をする訳はない。
と、すればやはりこれは軍事目的のものと考えるのが妥当であろう。

それほど埋没が進んでいる感じでなく、近世においても山で刈った薪を運ぶ道として使われていたのであろう。
現在は倒木が多く歩ける状態ではなく、すでに忘れられた存在のようである。

Cピーク上は何もない。削平された感じもない。
古道は右下の斜面を通るが低い土塁を伴うだけである。
DCのピーク(右上側)の東で古道が尾根上に再度出る。 Eさらに登ると古道が尾根上を直角に曲がる。

山入古道では尾根上部の道が塹壕状(というより横堀?)となり、尾根ピーク部の下を通る場合は土塁を伴わない、あるいは小規模な土塁を伴う道となる。
尾根のピーク部の周囲を迂回する場合は直角状に曲がる部分もある。

規模は幅6mほど、深さが今でも約4m、最大で6mほどにもなる場所もある。
一見すれば規模の大きな横堀に見える。

尾根ピーク部の周囲を迂回する場所CFなどではピークに小規模な井楼櫓等の迎撃施設が建てられていたのかもしれない。
その他、要所要所には柵等の障害物が構築されていたのではないかと思われる。

F古道は尾根上のやや下を曲がる。
左上には櫓があったのだろうか?
西側、山田川の谷への出口部から見た古道のある山。
撮影場所の背後が山入城であり、山入城からよく見える。
左の写真の反対側、山入城が真正面に見える。
山入古道に木がなければ、どこからでも
山入城が見えるはずである。

また、塹壕状の道の西側の出口部分@が道がS字状に曲がっていたり、土塁があったり、関所のよう場所がある。
Dを過ぎると分岐があり、道が東の▲方向に延び、南側の山と尾根がDで合流する。その部分が下のイラストのように関所のようになっている。


GD部の堀底道がが湾曲する部分、正面に土塁がある。
その先を右上方向に行くとピークCである。

Dからは南西側に尾根が派生し、A、B、Cのピークがある。
国土地理院の地図の道はこのピーク上に付いている。

管理人はこれらのピークに城郭遺構が存在するのではないかと予想した。
特に西端のピークAはちょうど山田川の谷を挟んだ対岸、真西が山入城であり、南には松平城、久米城など山田川の下流方面が良く見える。
この山こそが山入向館ではないかと予想した。
しかし、期待は裏切られた。

地図上では道になっているが、尾根上が何とか歩ける程度であった。
ピークC上は若干広いが、には石の社があり、ピークBも若干の広さがある程度、肝心のピークAには大きな岩があっただけであった。
ピークAとB間の鞍部に堀でもあればと期待したが、無かった。
その記述を図にしたのが、右下のイラストである。
ピーク西側に標高117mの場所に若干の平坦地があり、小屋がて建てられないことはない。
ここが見張り台程度には使われていた可能性はあろう。

南西側から見たピ−クA、
ここが山入向館と思ったのだが。
そのピークA付近をイラストにすると↑のような感じであった。
数字は標高m
そのピークAには大きな岩があっただけ。 ピークCには石の社があったが、城郭遺構ではない。

←ピークCから見た南に位置する久米城

城郭遺構はなかったが、ピークB、Cも物見台には使うことは可能と思われる。

さて、この施設がいつ構築されたか?
山入氏が山入城の城主だった時代に山入城防衛用のものとして、あるいは山入氏滅亡後、山入城が常陸太田城の詰の城としてその一環で佐竹氏が整備した、という2説が想定される。
前者の可能性としては佐竹義舜が在城していた大門城からの攻撃を防ぐ目的が考えられる。

しかし、比較的規模が大きく、風化も進んでいない。
戦国後期の城郭遺構の横堀と似た感じである。
この点から判断すれば、後者ではないかと思われる。
あるいは山入氏時代から存在していたものを整備し佐竹氏が継続使用したのかもしれない。
←谷津出口、正面に山入城、左の民家の場所が怪しい。居館の地では?
常陸太田から山入城に至る道はいくつかあると思われる。
現在の県道29号線の一つ北の谷を通過する道もその一つであるが、この山入古道もこれだけ防衛を考慮している点からして、その主要道の一つだったのではないだろうか?
この道の場合、山入城の真東にあたり、道が東西に延びているため、山入城からよく見える点も防衛上、重要であろう。
以上のことから、管理人は城郭とは言いかねるが、城郭機能を持たせた軍事道路と判断する。

戦国時代の山を通る古道
「古道」とは名前の通り「昔の道」のことである。道は当然だけど昔からあった。
今も昔の道をそのまま拡張整備されて主要道路として使われている場合もあるし、畑や田んぼの中の農道や街中の小道として残っていることもある。
でも平地の場合、宅地化や耕地整理でかなり分からなくなってしまっているのが現実だろう。
当然、道は山にも付けられる。
山の場合も開発を受けた場所は既に昔の道は失われている。
しかし、すべての山に開発が及ぶ訳はなく、風化はしているかもしれないが残存している場合が多いと思われる。
多くの場合は普通のけもの道のような人が何とか歩けるような山道がその跡である可能性もある。
その中でしっかりした造りの道や人が並んで歩けるような道の場合、古道であった可能性があるのではないかと思われる。

山を通る道は現在では沢筋や谷津沿いを通り、峠のような部分は山の斜面を通過したりさせている。
しかし、昔はどうであったか?
いくつか、山で古道と思われる場所を見たが、沢沿い、谷津沿い、急斜面にはあまり道は通していないのではないかと思われる。
当然ながら沢沿いに道を付けた方が工事も楽であり、登ったり下ったりする頻度も少なく、負荷も小さいはずである。
しかし、現実には必ずしもそうではないようである。
その理由としては大雨や洪水等の自然災害で水没、崩落が起こるなどして通行不能に陥る可能性が高いためではないかと思われる。
地形上、やむを得ず避けられれない場合を除いては、沢沿い、谷津沿い、急斜面に道を付けることは避けているように思える。

いくつかの山を見た経験では山の稜線や尾根上にけっこうしっかりした道がある場合があった。
ここでは「古代の道」も同じだった可能性があるが、HPの性格上、「戦国時代の山を通る古道」に絞って記述する。
戦国時代の山を通る古道としては、信玄棒道、春日山城から三国峠に延びる謙信の軍用道などが有名である。

稜線上、尾根上を通る道としては、茨城県桜川市の雨引要害のある雨引山(409)付近から加波山(708)方面に向かう山稜沿いの道、さらに南の足尾山(627)からきのこ山(527)に向かう山稜上の道、
栃木県那珂川町東部、健武神社北側の山の稜線を通る道、茨城県石岡市八郷地区の手葉井山城の城内を通る道、長野県上田市北西の太郎山の稜線上の道、同じく長野市南部鞍骨山から天城山、妻女山を結ぶ稜線上の道等である。
これらの稜線上には城が築かれており、道は城を結ぶ連絡路、軍事用の道でもある。

稜線上、尾根上に道が造られる理由としては、稜線上まで登るのは大変ではある。
しかし、稜線上、尾根上は洪水や崩落のリスクが少なく、不通になる可能性が低く安定しており、敵からの奇襲を受けた場合でも高低差がないので、迎撃上のデメリットが少ない、比較的アップダウンが少なく負荷が小さい等のいくつかのメリットがあるからであろう。

前述した城の例は、比較的しっかりした城というポイント間を線として道が結ぶが、その道自体に防衛機能を持たせた感じは少ない。
おそらく柵や木戸程度のものはあったかもしれないが、現在ではその遺構は表向きには確認できない。
中には道自体を城砦化したものもある。塹壕状の道などはその例であろう。
城の横堀としての機能を持たせたと言えるだろう。
その代表例が蘆名氏と伊達氏の抗争の舞台となった檜原の「鹿垣」であろう。
ここはつづれ織りの塹壕道をそのまま要害としている。
ここを見ると一見、城郭のようには見えなく、道としての要素が大きい。
ここで蘆名氏は侵入を試みる伊達氏の軍勢を撃破する実績を上げ、その軍事施設としての効果を実証している。
山入古道もその「鹿垣」タイプに属するであろう。