山小屋城(北茨城市関本町f富士ヶ丘)
常磐自動車道 北茨城ICと湯本IC間の関本PA手前に2つのトンネルがある。
関南トンネルである。
その北側の短い方のトンネル(関南第二トンネル)上の山の尾根続きの西側の山が城址である。

↑は北側から見た城のある山

ここはJR常磐線大津港駅から県道27号線を西に5kmほど走った地点にあたり、山の北麓にマックスファシニングシステムズ常磐事業所の工場がある。
この南側の山が城である。
しかし、山小屋城とはどこにでもある安易な名前である。
本来、城には名前などはなく、麓の居館を小屋とか根小屋と言うが、それに対する山の小屋という意味でこのような名前で呼ばれ、それが定着したものと思われる。

山の標高は120m、工場の場所が50m、北下の里根川支流が40m程度であるので、比高は80mほどである。
城には工場の駐車場を借用。
登り口を捜し、山麓をウロウロするがなかなか見つからない。
余湖さんのように観音堂付近から直登する手もあるが、イバラが繁茂しており、天然の有刺鉄線ならず、有刺草線となってゆく手を遮っている。
しかし、東側に上る道を発見。とりあえずこの道を進んでみる。
これが大正解。
大正解どころか、この道、堀底道@になっており、遮蔽されながら城址まで行く塹壕なのである。

同じものが常陸大宮市の高館城、桜川市の橋本城、群馬県安中市の丹生城で見られる。
また、工場からやや上部に削平地があり、工場のある場所付近が居館跡であったことも想定される。
(日当たりがあまり良くない山の北麓に居館を置くか疑問があるが。)

この堀底道、途中で直角に南に曲がり、やがて帯曲輪のような場所に出る。
そこには堀切が2本(上側の1本は後世のもののようである。)あり、山頂から北東に延びる尾根沿いに段々に曲輪が展開している。

そして、頂上部にある神社の地Aに至る。
この地は直径20m程度に過ぎない。
周囲には腰曲輪が場所によっては3重に取り巻く。

南に続く尾根に深さ6mほどの堀切Bがある。
その南に尾根が続き、やや東にもピークがあるが、この方面には堀切等の城郭遺構はなかった。
一方、この南側の堀切の堀底を通る道を山頂南側斜面に沿って西に向かうと2重堀切Cが存在する。

@神社に向かう参道は堀底の塹壕状 A山頂が本郭、小さな祠がある。 B本郭南東下の巨大な堀切
C Bの堀切を西に向かうと2重堀切がある。 D Cをさらに西に行くと虎口がある。 E麓の観音堂から直登するとこの横堀に出る。

さらに西に向かうと土塁に囲まれた通路を経て虎口Dがあり、北西側に下るようになっている。
その北西側には比較的平坦な場所がある。
この場所の意味がよく分からないが、居館を置くにほどには平坦ではなく、避難スペースかもしれない。

一方、麓の観音堂裏を登ってみると比高20mほど登ると横堀遺構Eが現れ、さらに上に腰曲輪があり、その上で神社周囲を回る腰曲輪に合流する。

結局、神社のある山の山頂を中心に四方に遺構を展開する小さな城であるが、小さいながら比較的よくまとまっている。
開発要素もない山なので、遺構は風化して埋没等は進んでいるものの、ほぼ完存状態である。

城の規模からして緊急避難施設程度のものであるが、大軍に囲まれたら一たまりもないが、小規模の敵の攻撃なら、住民も避難させ攻撃にも耐えうる防御機能はあると思われる。
典型的な小土豪の詰めの城という感じである。
城の歴史は定かではないが、北茨城市史では、岩城氏系の山小屋大膳という者が城主という説を述べている。


湯網城(北茨城市関南町神岡下)
常磐線大津港駅南西1.5km、県道154号線が海岸平野部から西側の阿武隈山地に入っていく部分の南側の山にある。
山の標高は80m、下からの比高は70m。
山頂に御室神社があり、そこが本郭である。

山の北側山麓で県道154号線から湯網鉱泉方面へ行く道が分岐するが、その分岐点付近の南側には江戸上川が流れ、天然の水堀になっている。
その南側がいかにも怪しい切り立った岡になっている。↓ ここが館跡である。正面の山が「主郭部である。

そしてこの岡に入って行く道がある。(この道へは車では入らず、川沿いにある空き地に車を置くのがよい。
この岡付近の字名は南東側が「館岡」、館跡推定地が「根小屋」文字通り、居館跡を示すものである。

道を行くと、一気に10mくらい切岸を上がる。
ここが居館の大手であろう。
上は虎口状@になっている。
坂の上は東西200m、南北100m位の平坦地Aであり、畑と宅地になっている。
さらに山に入って行く道が延びる。

この道で本郭のある御室神社まで行けるが、行けるのは軽トラ程度、この道を付けたため、遺構の一部は破壊されているようである。
途中に神社参道でもある石の階段があり、そこを登れば、頂上部に鳥居Bがある。
なお、石段の反対側、東側に道があるが、ここは神社建設用の資材を運ぶために付けた道のようである。
階段の途中に曲輪状の削平地が見える。

石段を登り詰めた鳥居のある場所が神社かと思ったが、神社本殿はそこから南に尾根伝いに100mほど南に行った場所である。
鳥居のある場所も曲輪であり、北側に平坦地があり、先端部が鋭く切岸加工されている。


南に向かう尾根伝いの道の途中に段差Cがあるが、ここには堀切があった跡であろう。
なお、この尾根、東下から見れば岩盤むき出しである。
尾根沿いの道の途中に広い場所があり、ここも曲輪である。
この曲輪の北側に道が下り、虎口のような場所や土塁を持つ曲輪や堀切が存在する。
ここも本来の登城路の1つであったようである。

鳥居から延びる尾根沿いの参道を進むと南側に一段と高い場所があり、御室神社の本殿Dが建つ。
そこが本郭である。本郭には北側から回りこむように入る。
社殿のある部分は20m四方ほどと狭い。

一段低く北側から西側、南側にかけて、横堀または土塁が半周しており、西に向けて尾根上に小曲輪が展開している。
社殿の南側には腰曲輪があり、その先に堀切Eがある。
深さが6m、幅が10m程度はある巨大なものである。

@岡上に上がる道は登城路だろう。 A岡の上が館跡であるが民家と畑。
B鳥居のある場所も曲輪、北方面への物見だろう。 C鳥居から神社に向かう尾根上の堀切跡 D本郭に建つ御室神社社殿
E本郭背後の巨大堀切 F南にある別雷社の場所が二郭 G二郭背後の小堀切、この方面の防御は弱い。

堀切の南側が二郭の地であり、別雷神社Fがある。
ここは本郭の南側防衛用のものであるが、深さ2mほどの堀切Gで南東側に続く尾根を断ち切っているだけである。
おそらくこの先の尾根筋が城自体が危機に瀕した場合の逃走路なのであろう。

西に延びる尾根にも曲輪が展開しているが、曖昧な感じである。
その他、二郭の東下の尾根にも曲輪がある。
一方、巨大堀切の底を西に行くと北側に本郭部の切岸が聳える。

南西側に堀切が存在するが、神社の場所からは比高で16m下となる。
規模からして、山下の居館の緊急時に避難するための程度の規模のであるが、山小屋城同様、小さいなりにもちゃんと造られている。
そして、遺構の存在度も良好である。
北茨城市史によると城主は池上氏とか、「竜子山記」には大高新左衛門という名前が登場するが詳細は分らない。