山入城(常陸太田市(旧水府村)国安町)

 国安城ともいい、西金砂郷山より南東側に続く連峰に連なる標高186mの要害山にある山城。右は想像復元図である。

この城は、中世の常陸の国を騒がせた山入の乱の震源地である。

本城の本郭Tは山頂部にあり、30m四方程度の平坦地。
北側に高さ2m程度の櫓台跡がある。
山頂付近は東西が切り立った崖となっており、尾根沿いに曲輪、堀切、縦堀が見られ、中腹より下側にさらに大きな曲輪が多く広がっている。

裾野の曲輪群は耕地整理で姿を留めないが、20段以上あったと言われている。
 
 この城が築かれたのは平安時代まで遡り、延久年間(1069〜1073)西野民部温通によると言われる。
 その後、佐竹9代貞義の第6子師義が足利尊氏よりこの地を与えられて居城とした。
以後、山入氏を名乗るようになり、足利氏に直接従って活躍した。

これにより、足利家直参の格が与えられ、佐竹本家と同格に近い存在となった。
これが災いとなり、山入氏は佐竹宗家と同格という意識を持つようになり、他の佐竹分家とは異なる独立心の大きい家風を持った。

折りしも応永14年(1407)佐竹本家の佐竹義盛が死去すると世継ぎがなく、関東管領上杉家から養子を迎えようとする一派と源氏の血を絶やさないことを望む一派の2つに佐竹氏家臣が分裂した抗争が開始される。

当主、山入師義は額田義亮とともに後者に属した。
ここに上杉禅秀の乱、応仁の乱の要因も加わり100年に渡る内乱となった。

 山入師義は額田義亮とともに上杉禅秀に味方し、上杉氏より養子の義人を迎えようとしていた佐竹本家に対して応永23年(1416)反乱を起こす。
まず、常陸太田城を攻撃したが撃退され、さらに2年後の応永25年(1418)師義の子、興義が再度、常陸太田城を攻撃したが、敗れ、山入城は落城した。

 しかし孫の義知の代になると、再起し、文明9年(1477)久米城を占拠し、常陸太田城に迫る勢いを見せた。
 それより13年後、延徳2年(1490)山入義知の弟義真の子、義藤、氏義は常陸太田城から佐竹義舜を追い、常陸太田城に入った。
 しかし、佐竹義舜による反撃を受けて、永正3年(1506)山入城は落城し、山入氏は滅亡した。
 国安城が歴史文献で登場するのはここまでであるが、この時点で国安城が廃城となり、歴史上から姿を消した訳ではない。

山入の乱終了後、山入城は太田城の詰めの城として整備され、常陸の国最大級の山岳城砦に変革して行ったものと言われる。この城では発掘調査が行われているが、遺物は山入氏滅亡以後のものである。
 最終的に廃城となったのは佐竹氏の秋田移封後であり、その命脈は500年以上にわたる。 

城の構造は本城のある要害山とその北東の日吉神社に続く尾根及びその間の谷津部の居館からなる。
右の写真は東下から撮った城址。左の山が本城のある要害山、右の山が東郭。
その間の谷津部が居館である。

居館自体もかなり高度があるが、本来の居館は山麓にあり、この山の居館は緊急時のものではなかったかと思う。または、倉庫群があった場所かもしれない。

本城部分のうち、山頂部の本郭は狭く、そこから南東の尾根中腹以下に大きな曲輪が存在する。
山頂部は狭いため、築城当時から改変する余地はほとんどなく、比較的築城時に近い姿を留めていると思われる。 

本城部分は鳥瞰図に示すように山頂部に本郭があり、本郭の北に一段と高い櫓台Tがある。その背後は深さ8mの堀切Uとなる。
南側に3つの曲輪があり、その南を尾根を分断するように竪掘が設けられており、土橋Vがかかっている。
竪堀は崖下まで続く迫力のあるものである。

 さらにその南には武者溜とも言うべき比較的広い馬出曲輪があり、山を南側に下るに従って大きな曲輪がいくつか設けられる。
 山頂の本郭の北側にも曲輪が存在し、西金砂郷山方面への抜け道があるものと思われる。

下の写真は、鳥瞰図に描いた本城部分の遺構であり、山入氏の時代の遺構とそれほど大きくは変わっていないものと思われる。
その下には段々畑が広がっている。

これらは元々は曲輪であった場所と言われ、佐竹氏が太田城の詰めの城あるいは常陸太田城の北の守りの拠点として整備した部分に相当すると思われる。
左の写真は本城から見た南側の常陸太田城方面。
右に見える川が山田川、この下流に久米城がある。正面の森が松平城である。

直ぐ南の山には支城の棚谷城があり、さらに南に和田城がある。
面白いことにこの3城は段郭構造を持ち兄弟のようである。北には曽目城が配置され、その西に西染城がある。
これらの支城群の中心がこの城である。

T 本郭と本郭北側にある櫓台 U 本郭背後の琶以後側から見る。 V 主郭部入口の堀切と土橋
V 主郭部入口の堀切は竪堀となって下る。東側の竪堀  W 土橋の東にある馬出曲輪(左)東側。
この先を行くと東郭に行ける。
X 馬出曲輪南の曲輪

山入城の北東の尾根400mほどにわたり東郭(東城)が存在する。
東郭の存在は以前、現地の方から聞いたことがあったが、今ではほとんど山が荒れていて行けないと聞いていたので行かなかった。
しかし「Pの遺跡侵攻記」で東郭の遺構が紹介された。

この記事を参考にして今回行ってみた。この東郭のある尾根は比較的平坦であり、400mの長さがある。末端の日吉神社と東郭の本郭間の標高差は30m。
尾根上は平坦に加工されており、5mから最大15mほどの幅を持ち、4本程度の堀切、2か所の土壇が見られ、段々状になっている部分が見られる。
さらに尾根の南側には帯曲輪が最大6段確認できる。(この帯曲輪はすべて遺構かどうか疑問がある。)

ここには山入城の二郭付近からから北に降りる道を行く。
この道はかつては農道として使われていたようである。
この道の先には、柚子畑があったが、すでに放棄状態であり、このため、道も荒れてしまっている。転落した岩が転がり、草が茫々状態である。
この道を下っていくと、山入城の本城部分である要害山と東郭の尾根付け根の鞍部@に出る。
標高は140m。
この付近には何段もの平坦地が見られる。これが遺構なのか曲輪なのかは分らない。
この付近はかつて柚子が育てられていたらしいので、畑として造成したものなのか、それとも植林に伴うものか?しかし、今は完全に放棄状態で藪状態。
写真を撮っても藪しか写っていない。しかし、柚子はそのまま今年も実をつけていた。完熟した実が地面に落ちていた。でも今ではここに来る人はほとんどいないのだろう。
拾われることはない。何だか悲しい風景である。

この鞍部から東のピーク、東郭の本郭に高度で20m登るが、その途中に4段ほどの小曲輪が3m間隔で存在する。
ピーク部が本郭Aである。
途中の小曲輪には竪堀または帯曲輪Bに通じる通路?がある。
東郭の本郭の標高は160m、鞍部より20mほど高く、山入城の本郭がある「要害山」が185mなので25mほど低い。
本郭の広さは直径30mほど。内部は平坦に加工されているが、今では藪である。
その南側に帯曲輪があるが、先に述べたように遺構かどうか悩むところであるが、少なくとも上の2段ほどは堀切や小曲輪と連絡されているので本物であろう。

@本城(左)と東郭間の鞍部。堀切はない。 A東郭の本郭内部 B東郭南斜面の帯曲輪、6段ほどになっている。

本郭の東5m下に南東に尾根上を延びる曲輪がある。
本郭の切岸は鋭く5mほどの高さがある。この細長い曲輪は幅が10〜15m、長さは50mほどある。
先端部に直径10mほどの盛り上がりCがある。櫓台跡だろうか。その南東に曲輪(尾根?)が40mほど延び、3段ほどの小曲輪を経て、比較的大きな堀切Dがある。
幅5m、深さ3mほどである。堀切の南に高さ4m、長さ20mほどの大きな土壇Eがある。
ここには櫓が建っていたものと思われる。

C本郭東下の曲輪、内部は平坦に加工されている。 D尾根の途中にある堀切。 EDの堀切の南に高さ4mほどの土壇がある。

その先は90mほどに渡り、比較的平坦で幅が広い曲輪が3段ほどある。
しかし、ここも藪状態である。その先に3本の小堀切F、Gがある。
最後の堀切Gは岩盤を掘りきった感じであり、二重堀切の可能性がある。(二重目は倒木の跡が抉れて堀切のように見えるだけかもしれない。)
堀切Gを越えると岩山Hがあり、その南が日吉神社である。この岩山は神社側から高さ5mほどあり、物見台であろう。
(この岩山の南西側の斜面の木にすずめ蜂の巣がある。訪れたのが12月であったにもかかわらず元気に飛び回っていた。訪れる人は注意されたし。)
神社の地も曲輪である。
ここの標高は130m、本郭よりは30mほど低い。
しかし、ここから南は急勾配であり、下にも段々状の曲輪があるが、実質、この神社の地が先端部と思われる。
なお、下の山田川の流れる水田地帯の標高は40m。この神社の地でも比高は90mもあり、かなりの高度がある。

F日吉神社近くの堀切 G日吉神社背後の岩の後ろの堀切 H日吉神社背後の岩山は物見台であろう。

この東郭部分、山入城の出城で間違いないが、造りは単純である。
尾根伝いの侵攻に対する防御は日吉神社付近を除いて、あまり考慮されていない。
堀切、段郭は存在するが、これは尾根上をただ区画しているに過ぎない程度のものである。
この東郭のある尾根の南西側の谷に居館があったらしいので、この城は本城の出城、北、北東方向の外郭線であり、居館にとっては北側、北東側を守る長城という位置付けであろう。

したがい、想定する敵を防御する方面はこの尾根の北から北東にかけての方向、町田城、西染城、染目城がある方面である。
なお、その方向、すごい急こう配であり、心配のし過ぎかな?と思うが、実際、城を運用する者にとっては、いくら心配するにもキリがないのであろう。

この東郭の存在が明らかになったことで、山入城の城域はかなり広がる。
600m四方ほどはあったのではないかと推定される。当然、この姿は城の最終状態の姿である。
山入の乱終息後も城は佐竹氏により運用されていたのは間違いないので、この巨大さは常陸太田城の北の防衛拠点であるとともに、詰の城であったことを示しているものと考えられよう。