柏木城(北塩原村大塩)
 
葦名氏の対伊達防衛戦用の城、石垣を多用した城として有名。
大塩温泉の西側の比高110mの山にある。
大きさは東西約1.1km、南北約500mと広大で、面積は約50haを有している。
主郭部は西側にあり、東側の丘陵上の遺構には行っていない。
東側には居館群か出城があったようであるが、主郭部に比べて防衛上は少し弱い感じである。

この城、一応、北塩原村の重要文化財なのであるが、全く管理はされていない。
かなりひどい藪の中にその遺構が残っている。
しかし、末端部の帯曲輪は畑などに利用されて形を変えているが、主郭部はほとんど手つかずの廃城になった時の状態のままという感じである。
藪の中を見て歩くと、土塁や曲輪内には石垣の石がゴロゴロ転がっており、キャッチフレーズどおり、まさに石垣の城ということは実感され、見所は十分。
開発とは無縁の山であるので湮滅の心配はないのであるが、見学用の道を付けるなど、少しは管理して欲しいものである。
(そんな金、ないんだろうなあ)
解説などを読むと、北下の大塩郵便局付近から登れるように書かれている。
しかし、この道、山の法面工事で行くことができない。

少し迂回してこの法面工事の場所の上(大手口)に出ても道はほとんど分からない状態である。
それでも大手口には大きな岩がゴロゴロ転がっているのが確認できる。
ここを強硬突破すれば主郭まで行くことは行けるが、その蛮行が可能なのは雪が降る直前の時期くらいであろうか。
しかし、この城、南から延びた山地が大塩川に面した場所に築かれているため、北側は急勾配であるが、南側は緩やかな台地である。

この南西に位置する大久保部落からの道を行くと、搦手口まで容易に行くことができる。
この道は一見、民家の敷地内に入る道のようでなかなか分からない。
この場合は地元の人に聞くしかない。搦手口まではアップダウンした楽な道である。

この道沿いにかつては畑として使われていたと思われる曲輪Aがあり、そこから主郭部に容易に入れるものの、先に書いたように藪である。
それでも杉林であるので下草はそれほどでもなく、切岸、土塁、堀はちゃんと確認できる。
しかし、倒木などで歩きにくいことこの上ない。凄いのは、ほとんどの土塁に石があることである。

けして近世城郭のような大きな石ではない。
手で何とか持てる程度の大きさの石を中心に土塁、切岸を石で葺いたという感じである。
土留め及び視的効果を狙ったものと言える。
主郭への搦手口J(こちらが本来の大手口なのではないだろうか?)は完全なクランクした内枡形の虎口であるが、完全な石垣構造である。
木戸を塞いだという石板がそのまま残っている。

ここを入ると先に石垣で囲まれた部分Hがある。
半地下構造の硝煙倉ではなかったかという。
この道は南、東から本郭を巻くように付けられ、曲輪状になっている。

その曲輪の東には深さ5m、幅15mほどの堀切Gがあり、東に丸馬出Iがある。
堀切には木橋がかかっていたようであり、本郭側の曲輪の土塁に切れ目がある。 
上の図は麓にあった城の縄張図である。赤線で囲んだ部分が鳥瞰図の範囲である。
左の図の丸付き番号は下の写真の撮影場所である。

築城は戦国末期、天正12年(1584)という。葦名氏は伊達氏と領土が接し、桧原の地が両者の境であった。
桧原を北に下れば米沢である。両者の国境紛争はその桧原の地を中心に永禄年間からくり返して展開され、桧原が伊達氏の手に落ちると、1線下がったこの大塩の地が最前線となる。
城は、もともと伊達氏の侵略に対する防衛用であるため、侵攻方向である桧原方面の北側に対して厳重な守りとなり、南側は谷津を利用した水堀1本のみで守りが緩い。
石積石垣、武田流の丸馬出し(間違いなく、丸馬出であった。)などが残っているので、武田氏滅亡後、武田氏に係わる技術者が会津に来て築城にかかわったのではないかと思われる。

石垣の破壊が激しいが、天正17年(1589)6月の摺上原で葦名氏が大敗した後、防衛を断念した城代、三瓶大蔵、穴澤俊次らが伊達氏に利用されぬよう、城に火を付けて破壊して退去したためと言われる。
実際、この城で戦闘が行われたことはなかったようであるが、天正13年(1585)に伊達政宗が来寇するが、先行部隊が柏木城の巨大さと石垣を報告したため、政宗は引き返したとも言う。

西側から見た城址。北側以外は緩やかである。 @ 南側にある水堀跡は水田になっている。 A搦手口を出るとこの曲輪に。
B 西側の虎口の櫓台。
かつては、石で覆われていた。
C 本郭西側の曲輪、西の土塁。
石垣であったようで石が残る。
D 本郭西側の曲輪
E 本郭内部。結構な藪である。 F 本郭南側の土塁。郭内から3m程度ある。 本郭南側の土塁上には石が残り、石葺きであった。
G 本郭東側の堀 H 本郭南の曲輪にある石囲い。
硝煙倉だったという。
I 本郭東の丸馬出の石垣
J 搦手口の門塞ぎの石 搦手口の石垣 K 北側斜面の曲輪

もし、この城を攻めようとすれば、南側、西側、東側であろう。
でも南側、西側(大久保集落方面)に回りこむのには、余ほどの大軍であって兵力に余裕がないと無理である。
そうでないと城兵と後詰めの挟み撃ちに会う可能性があり、この方面には退路がない。

東側も地形が比較的緩やかであるが、東側には出城のような曲輪が存在しており、容易に主郭部には接近できない。
現地を見ると、けっこう考えて立地して築かれていることが分かる。
(会津若松市史、北塩原村HP、現地解説板を参考)

鹿垣(北塩原村大塩)
 天正13年(1585)、伊達政宗が岩山城を攻略し、桧原が政宗の手に落ちると、葦名氏は、会津盆地への侵攻ルートにあたる米沢街道の標高850mの萱峠に大規模な防塁を築く。
この防塁を鹿垣と呼ぶが、尾根を利用して、これを削り出し加工をして構築したものである。
この場所は桧原と大塩間をつなぐ村道、大塩峠から桧原方面に400m行った地点であり、道路脇に解説板がある。
そもそもその解説板は大土塁の付け根部付近に立っている。

その東側を南に下りると旧街道に合流する。
この付近は山また山の険しい地形であり、よくこんな山中に街道を通したものである。
現在は車道が整備されているが、ところどころで旧街道と交差する。ものすごく曲がりくねっている道である。
この尾根を加工した土塁は長さ163m、土塁の高さは3mから高いところで15m以上、平均7mあるという。
土塁上は平場になっており、柵が設けられ、切通し部には門もあったと思われる。
街道はこの土塁の下をS字状に登るようになっており、土塁上から攻撃できるように工夫されている。

常時、城番が置かれていたという。
完成直後の天正13年5月、伊達政宗は会津盆地への侵攻を図るが、この鹿垣で撃退される。
この道は会津と米沢を結ぶ最短の街道であり、直江兼続も何度も往来したはずである。
そういえば、あの前田慶次もここを通っているはずだ。
新しい道が出来る前はこの街道沿いに茶屋があったともいう。

米沢街道の旧道(後世拡張している
ようである。)
右側が鹿垣の大土塁。
上は平坦になっている。

とは言え自然の尾根を改変したもの
であろう。
土塁間に切通しがあり、
その間を街道が通る。
切通しを下ると旧街道はS字に蛇行
して下る。
北側から土塁間の切通しを見る。 天正13年、峠を突破した伊達軍の
斥候隊が
葦名軍に壊滅させられた
退頭古戦場。

大塩に向かう途中

(会津若松市史、北塩原村HP、現地解説板を参考)

桧原城(北塩原村早稲沢) 

桧原を手に入れた伊達政宗が天正13年(1585)、桧原支配の拠点として、さらに会津侵攻の拠点として、桧原湖北東端に位置する標高954mの小谷山に築城した城。別名「小谷山城」ともいう。

この小谷山は桧原湖の北岸の標高954mの山で、東が山地につながるが、ほぼ独立した山である。

南北に長い山頂に中心部であり、そこが主郭である。
主郭部は2つの曲輪、曲輪Tと曲輪Uからなる。
この城の最大の特徴は急勾配である北側を除いて、横堀がうねりながら城を1周している点である。

この城については、一般に北から2つ目の曲輪Uが本郭とされているが、北側の曲輪Tの方が高く、南側、東側に土塁を持つことから、こちらが本郭であろう。
ただし40m×20m程度の小さな曲輪である。

曲輪T、U間には堀切@がある。
曲輪Uは南北80m程度ある曲輪であるが西側に突き出しがあり、先端部に堀(通路)と櫓台Bがある。
また、南側は高さ3mの段差がある。
その東側に土塁があり、その東下をコの字型に通路がある。
ここを二重枡形Dと言っている。

その先は尾根状の下りとなっている。
ここを外郭と言っているが、単なる地山である。

枡形下の堀切Eで西側の横堀が竪堀となって消滅するが、その下の堀切(さらに南に堀切が2本ある。)から竪堀Fと東斜面に横堀Gが曲輪T、U間の堀切付近まで走る。
この部分は見事である。
その先に堀切Hなど2本あり、そこが山城部分の南端である。

一方、湖畔には居館があり、土塁と堀の一部が残る。
土塁が湖中に続いているというが、それらしいものはあるが、侵食されているようであり、本物かどうかの確信は持てなかった。

右のイラストの丸付き数字は下の写真の撮影位置を示します。
@曲輪T(右)とU間の堀。 A 曲輪Uから見た曲輪T、前面に土塁がある。 B 曲輪U西端の櫓台。
C 曲輪Uの南端部は2段になっている。 D 二重枡形の2つ目の折れの部分。 E 二重枡形を南に下るとこの堀切がある。
F さらに下ると堀切があり、この竪堀が下る。 G Fの堀切から曲輪T付近まで横堀が延びる。 H 南端の堀切。
麓の居館跡の堀 麓の居館跡の土塁。 これが湖の中に延びる土塁跡だろうか?

(桧原攻防戦について)
こんな生産性のない山奥の裏磐梯、桧原の地がなぜ、葦名氏と伊達氏の壮絶な戦いの舞台になったのか今では分かりにくい。
その理由はズバリ「金」である。
つまりこの地の争奪戦は、金山争奪戦、経済戦争なのである。

いつごろからこの争奪戦が始まったのかはよく分からないが、『檜原戦物語』では、永禄7年(1564)以降、伊達晴宗による侵攻が行われたと記録される。
その目的は会津侵攻や、安達侵攻のための陽動策戦とか色々、書かれるが、それは違うであろう。
当時、晴宗が会津侵略まで考えていたとは思えない。単に金が産出される桧原が欲しいだけだったのであろう。

しかし、桧原は葦名氏家臣の穴沢氏がおり、伊達氏の侵略は次々、撃退される。
永禄7年の伊達氏の侵攻では、穴沢俊恒は、桧原峠に空掘を掘り、要塞化し、総勢480余人で待ち構え、総勢1500人ほどの伊達勢に大損害を与えて撃退する。

その後、穴沢俊恒は、伊達の再攻撃に備え、桧原村の北西に戸山城を築く。
永禄8年(1565)、城に城兵が少なくなる時を見計らい、伊達軍約800人が戸山城を奇襲し、大激戦が展開され、双方に大きな被害が出るが落城はしなかった。
その後、穴沢俊恒は新たに岩山城を築城する。

桧原湖畔北端に聳える桧原城。 桧原城の西側の山には戸山城がある。 穴山氏の拠点、岩山城(左側の山)

永禄9年(1566)1月、伊達軍は約1000人で奇襲をするが、伊達軍は撃退される。
その後、20年ほどは葦名、伊達両氏間は比較的平穏であったが、天正12年(1584)盛隆が死去すると状況が変わる。
葦名氏は佐竹氏に接近し、伊達氏との間には不穏な雲が漂う。葦名氏は桧原方面への入口、綱取城を改修し、柏木城を築城する。
天正12年、伊達政宗の桧原侵攻が始まる。

天正12年11月26日、風呂屋が桧原に来たところを伊達軍約1,500人が奇襲し、穴沢俊光は戦死、一族はほぼ壊滅、岩山城は落城し、桧原は伊達氏の手に落ちる。
俊光の子俊次は、難を逃れ、残った穴沢一族とともに柏木城に入る。

 桧原を手に入れた伊達政宗は、支配拠点そして会津侵攻拠点として天正13年(1585)、桧原湖北岸の標高954mの小谷山に桧原城を築城する。
このころには桧原の金山争奪から会津侵略拠点に目的が変わってきたものと思われる。
ここから会津を攻撃するのが米沢からの最短距離であることもあるのであろう。
これに対して、葦名氏は、桧原が政宗の手に落ちたことから、天正13年5月、米沢街道の萱峠に防塁の鹿垣を築き、さらに柏木城を拡張強化する。
伊達政宗は5月10日、関柴の関柴備中を裏切らせ、原田左馬介を送り込み、会津盆地に侵攻するが、鹿垣で撃退され、別働軍も葦名氏に撃退される。

その後、6月14日、穴沢善七郎が、桧原城に潜入し、政宗を襲撃するが失敗するという事件があったが、摺上原での葦名氏滅亡までの4年間、桧原方面では大きな戦いはなく、桧原城の後藤孫兵衛と柏木城の三瓶大蔵、穴沢俊次がにらみ合っていた。
伊達政宗は柏木城の存在により、この方面からの会津侵攻を断念し、猪苗代方面からの侵攻に切り替えたものと思われる。 

(会津若松市史、北塩原村HP、現地解説板を参考)