割ヶ岳城(信濃町柴津)
川中島合戦に登場する城の中で海津城旭山城葛山城と並んで知名度がある城である。
これらの城は、いずれも合戦に係わり、攻防戦の舞台となった城だからである。
とは言っても本当に合戦に登場したのがこの城であるかは断定的なものではないらしい。
野尻湖付近にある別の城かもしれないという。

↑は東側から見た割ヶ岳城のある城山である。背後の山は黒姫山。左に戸隠高妻山が見える。

第一、有名な城の割りにはそれほど大規模なものでもない。
旭山城や葛山城と比べれば小さいものであり、主要部の城域は100m×50m程度の規模にすぎない。籠れる兵も50人程度だろう。

しかし、遺構はメリハリが利いており、気合を入れて整備されていることがわかる。
それはこの山の頂上に立って周囲の風景を見れば一目瞭然である。
ここからは野尻湖、北国街道、飯山方面への街道、戸隠方面への街道が一望の下。
まさしく交通の要衝であり、そのための価値を見出して改修整備された姿がそこにあるのである。


城は城山という標高767.8m、比高120mの山にある。
この山、ほぼ独立峰であり、ピラミッド状の形の良い山である。
斑尾山の派生火山だという。

南側の民家の間から登るのであるが、多くのHPで紹介されているようにここで良いのかとやはり迷う。
そのまま進めば民家である。
でも、住民の人がいたので良かった。一声かけて上がっていく。
登りは非常に単調、九十九折の道を行くだけである。
この道が本来からの登城路のようである。

斜面は急勾配であり、長大な竪堀が山を下っている。
この城は攻め落とされたことになっているが、ここをまともに攻めるのはとんでもないことである。
重武装の兵がこの急斜面を上がっていくだけでも大変である。
おそらく当時は斜面に木はまったくなかったであろう。

守る側は比較的楽である。
派生火山だけあり、岩がごろごろしている。
岩を山頂部に蓄え、攻めあがる兵に向かってぶつければ鉄砲以上の強力な武器になるだろう。

一応、この城の攻防戦において武田氏の武将、原美濃守虎胤が鉄砲により重傷を負っているというが、それは名誉のため、鉄砲ということにしているが、実際は投石によるものではないかと思う。
この城では鉄砲など守備側にとっては無用であり、投石の方が鉄砲以上に威力を発揮するであろう。
実際、攻め落としたとしたら、蝶略を使って裏切りを出させたか、少数の城番しかいない時を見計らって、大軍勢での奇襲しかないだろう。
いかに堅固な城でも大勢の兵で一気に攻めのぼられたらどうにもならないだろう。

@急斜面を豪快に下る長大な竪堀 A副郭に建つ城址碑と解説板、狼煙用の穴もある。 B主郭との間には天水溜がある。
C副郭から南の尾根に展開する小曲輪。 D主郭内部は平坦、西側に低い土塁がある。 E主郭北側の2重堀切
F北側の岩剥きだしの堀切 G主郭東下の帯曲輪 HGの帯曲輪は南側、副郭下まで続く。

さて、遺構であるが、山頂部に2つの曲輪が並び北側に数本の堀切を入れ、東側に腰曲輪を並べた単純構造である。
中央の30m×15mほどの曲輪が本郭Dであり、南側に10m四方ほどの副郭Aを持つ。
そこには狼煙台跡という穴があり、本郭との間に天水溜めという窪みBがある。

副郭の南側は小曲輪Cが並ぶ。
本郭の北側には2重堀切Eがあるが、結構埋没しているが、さらに先にある堀切Fは岩がむき出しで幅も10mほどある。
この先は高度を下げながら3本の堀切がある。

岩盤むき出しの堀切の東側は下6mにある帯曲輪Gにつながる。
この帯曲輪、幅が10m程度あり、主郭部東側Hを覆う。
この帯曲輪は北風が防げる場所であり、城番の兵の蕃小屋があったのではないだろうか。
東斜面に長大な竪堀@が下っている。

永禄4(1561)年5月、上杉謙信(当時は政虎)が小田原城を攻めるため関東に出陣した隙をつき、武田信玄が多田淡路守満頼、浦野民部左衛門遠隅、原美濃守虎胤(鬼美濃)に割ヶ岳城を攻め落とさせる。
これが契機となって同年9月の第四次川中島の戦いに至る。
一時的には武田氏が支配したようであるが、すぐに上杉氏が奪還したようである。
すぐ近くの若宮城は永禄年間末期には武田氏に帰属していたようであり、ここが上杉氏の最前線の城であったものと思われる。

薬師岳物見台(信濃町古間)

割ヶ岳城がある城山の南西にやたら目立つ山がある。
城山も目立つ山であるが、こっちも負けない。
この山が薬師岳である。

ほぼ独立峰で北から見るとピラミッドである。
この山の真下を上信越自動車道の薬師岳トンネルが通る。
山の標高は819mというので城山より高い。

比高は134m。こっちのほうが城山よりも高く立派な感じがする。
城があってもおかしくはない気もする。
しかし、城らしい遺構はないらしい。
割ヶ岳城からの眺望は素晴らしいが、薬師岳があるため南方向の眺望が邪魔される。
このため、物見と狼煙台があったようである。

しかし、なぜ、こちらには本格的な城がないのだろうか?
独立峰なので攻撃されたら逃走路が確保できないためではないだろうか?

↑ 城山の麓から見た南西の薬師岳。城山よりも高く、立派で目立つ独立峰である。

土橋城(信濃町土橋)
風光明媚な黒姫高原にある城である。城からの妙高山、黒姫山が絶景である。
こんな高原にも戦国時代は戦雲が漂ったのである。

国道18号線が野尻湖入口西側を通過し、野尻トンネルに入る手前の西側に北側の山地から南西に約150m突き出た山がある。
この標高671mの細長い山が城址である。


↑ 南東側の国道18号線から見た城址、山は妙高山、撮影場所の後ろが野尻湖。



↑ 北東側から見た城址。右端に堀切転用の切通し@が見える。

水田となっている低地からは比高20mである。
北側が切通し@になっているが、これは堀切を拡張したものではないかと思われる。

城としては簡素なものであり、曲輪が重なり、山頂部が平坦になって低い土塁Aが存在する程度に過ぎない簡素なものである。
@北側の切通しは堀切を拡張したものか? A岡の上に土塁はあるのだが・・・

一見すればただの山にしか見えないかもしれない。
おまけに全く管理された状態ではなく内部は藪状態である。
写真を撮ったが藪しか写っていない。
これでは何が何だか・・・。土塁はあるAのだが、低いし、藪状態。

当時は今の池尻川の流れる水田地帯が湿地帯であったと思われ、そこそこの要害性はあったものと思われる。
この付近の城としては東に上杉氏の城、野尻新城があり、野尻湖内の島に枇杷島城があるが、それらの出城であり、上杉軍の川中島進出時の宿営地であったのではないだろうか。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)

戸草城(信濃町富濃)

しなの鉄道北しなの線(旧信越本線)古間駅の南、約700mにある。
駅前の道を南下し戸草トンネルを越えた所が城址である。
標高は616mである。しなの鉄道も戸草トンネルを越え、城址の東側をかすめる。
この付近の地形は複雑であり、鳥居川が蛇行しながら侵食した谷が続き、道も複雑である。
ここの風景、見覚えがある。しなの鉄道がかつて信越本線だったころ、直江津方面に向かうと、古間駅手前のトンネルを潜る前、ところどころに民家がある鳥居川に沿った谷を走るが、その印象的な風景がこの場所なのだ。

この城であるが最初は戸草トンネルがある上の山一帯ではないかと思ったが、山の上には城郭遺構はないそうである。
城郭はその山の麓にあり、南を鳥居川が流れる。
一見してどこが城郭遺構なのかさっぱり分からない。
来てはみたものの、ここが城址とは気づかず通り過ぎてしまったくらいである。

ここに戸草集会所@があり、鳥居川に向けて畑や宅地が段々になっている。
鳥居川が天然の堀にはなるが、狭い。
当時は川周辺が湿地であったと思われ、そっちの方が防御力が高い。

集会所@の北側の水田が堀跡と言われるが、ピンとこない。
遺構はその西の杉林の中に存在していた。
ここに幅10m以上もある巨大な土塁Aがあった。
高さは風化したのか約3mに過ぎない。
西側は堀状になっている。幅は30mほどある。

山裾の谷部を土塁と堀で仕切り、川を水堀に見立てた城である。
この状況なら背後の山の上から丸見えであり、山の上に何もないのが不可解である。
山の上に曲輪を配置し麓の居館を守った方が合理的と思うのだが。
大きな戦闘を想定しない居館ならこの程度でもよいのかもしれない。
いずれにせよ古風な城館である。
山間の狭い平地にある隠れ家のような館である。
城域は径150m程度である。
@城内に建つ戸草集会所の左側の水田が堀跡という。 A西側の林の中に残存する土塁。低いがかなり大きい。 B戸草集会所の南側、この辺一帯が城内と推定される。

伝承によれば木曽義仲が築いたとされている。
川中島合戦の頃に使っていたのかどうか分からない。
しかし、ここは冬場はm単位の積雪がある豪雪地帯である。
城主はここで何で生計を立てていたのであろう。
(宮坂武男「信濃の山城と館」を参考にした。)