海津城(長野市松代町)

 武田氏が永禄3年(1560)に築いた海津城が前身。
 今でも現地では「松代城」とは言わず「海津城」という。当時、この地に侵攻した武田氏が領地として地盤を固めるために築城した城であり、この城が築かれたことにより起きたのが、戦国史に名高い永禄4年(1561)の第4回川中島合戦である。
 この城は信州という山国には珍しい(と思えるような)完全な平城である。
 信州の城郭は確かに山城が多いのであるが、意外であるが平城も多い。上田城(崖城?)しかり松本城、高島城、長沼城等が挙げられる。
 山城は通常、戦闘時の拠点や避難等の役目を負っているが、平城はどちらかというと政庁の役目がある。 

この点で海津城の性格が領土確保のためであることは疑いない。
 上杉氏やこの地を追われた村上氏がこんな城をここに築かれたら脅威であるし、占領された土地支配が固まってしまうので面白くないのは当然である。 

 さて、この城は3方を山に囲まれ、善光寺平の平地に面した北西に天然の大水堀である千曲川が流れる要害の地にある。
 山間の南東には地蔵峠があり、真田の谷からの交通が可能である。
 しかも、周囲の山には金井山城、寺尾城、雨飾城、鞍骨城が築かれている。
 この構想は真田の谷の真田氏の城郭群と同じである。
このルーツは山麓の根古屋を山上の複合城塞群が守る 戸石城、丸子城、塩田城、荒砥城で見られる形式である。
 松代城の場合、根古屋に当たるのが松代城であり、それを守る山上の城塞群が金井山城等である。
このシステムが完成したのは永禄年間末期であり、その効果は本能寺の変後、この地を上杉氏と北条氏が争うが、この城塞群に兵を入れた劣勢の上杉軍に対し、大軍の北条軍は手も足もでなかったということに実証されている。

第4回川中島合戦の頃には、まだこのシステムは未完成であったと思われる。
 だから外郭防衛の一角である妻女山に上杉方に布陣されてしまったのではないか?
(布陣はなかったという説もあるが、外郭の城塞網が未完成で海津城の守備兵が少ない状態では容易に布陣されてしまうであろう。小生は布陣したと思う。)

 現在の松代城は近世大名の居城であり、戦国期の武田氏の海津城からかなりの改編を受けていると考えられていたが、発掘の結果、築城当時の縄張りをそのまま利用し、石垣化したり多少の拡張を行っているだけらしい。だから本丸が80m四方程度と小さいのであろう。

 城の縄張りは平城ではポピュラーな輪郭式である。
 武田氏特有の馬出郭が築かれている。
本丸以外は土塁であったようである。
 規模は違うが会津若松城が良く似ている。
 なお、本丸の西を流れていた千曲川は氾濫を起こし城に損傷を与えたため西側に流路を変える大工事が江戸時代初期に行われた。      

 城は武田氏滅亡後、織田氏家臣の森氏を経て、上杉氏、再び森氏と城主が代わり、最後は元和8年(1622)真田信幸が上田より移り、以後、250年間、松代藩10万石の居城となった。

 さて、現在、城は復元中であるが、かつてはさんさんたる状況にあった。
 松代の町は要害の地であるが、逆を言えば3方が山に迫っていて、前には大河が流れているため、発展しようにもできない発展性の乏しい地である。
 それにとどめを刺したのは明治期の信越線敷設反対であったという。
 以後、この町は長野市が発展していくのを横目に停滞過疎化していった。
 当然、城も朽ち果て、堀も埋められ、本丸の石垣だけが残っていただけであった。
 お陰で古い城下町の町並みがタイムカプセルに封印されてきた。

 なんでこんなこと知ってるかって?そりゃ小生はそれをこの目で見てきたから。
 なにしろ生まれは千曲川の川向こう「川中島」。
この城に初めて来たのは1歳にも満たない時。(写真しか証拠はない。)初めて来た城がたぶんこの城のようです。
 そういえば小学校1年の遠足がここ。ガキの頃は自転車での行動範囲にここが入っていた。
 天守台の石垣登りは忍者ごっこのコースの一つだったっけ。(結構、恐い。良い子はまねしない方がいい。)
 小生にとっては、城イコール海津城という観念がずーっとあった。
 こんな思い出深い城が復元されるのはうれしい限りです。
 復元するなら破壊しなきゃよかったのに。(結果論か?)
本丸太鼓御門 本丸太鼓御門を東側から見る。 本丸太鼓御門を本丸内から見る。 本丸太鼓御門東の櫓台への階段。
本丸内から見た東不明御門。 本丸東不明御門。 二ノ丸東の石場御門。左後方の山は寺尾城址。 本郭北東端の櫓台跡。
本丸内部 天守台 東不明御門より紅葉の馬場を見る。後方の山は金井山城址。 西不明御門付近の土塁。後方の山は永禄4年上杉軍が陣を置いた妻女山。