若宮城(飯縄町芋川)36.7931、138.2590
この城、大岩城同様、俺にとって「熊」に呪われた城である。
ここに行ったのは 年のことだった。
麓の民家のおばちゃんが「この間、熊が出たよ。熊鈴持って行ったほうがいいよ。貸そうか?」と親切な助言をしてくれたのだが、それを「大丈夫だよ。」と断り登って行った。
まずは横堀@が出迎えてくれて、期待が高まった。
少し先に行くと、曲輪に生えたクマザサの中に黒い物体がある。熊だ。
頭だけをクマザサに埋もれさせ、お尻は丸見え。いわゆる「頭隠して尻隠さず」という姿で死んだふりをしていたのだ。
奴も人間は怖いのだ。
でも、そんなことはお互い様、俺も怖い。
しかたなく撤退を決め、急いで道を引き返す。
振り向くと、奴は頭を挙げ俺を見ている。目が合った。
奴は慌ててクマザサの中にまた顔を埋もれさせる。まるでお笑いであるが、俺も奴もお互いパニックである。
麓に降りおばちゃんに「出た!」と伝える。
おばちゃん「そうかい。近所に気を付けるように連絡回しておくよ。」と冷静なもの。
どうやらここでは日常のことだったらしい。
てなことで、ここも近くは通ったがどうも再度、足が向かない城となった。
それから8年、大岩城に続き「らんまる殿」の力を借りての熊退治・・じゃなくて、城へのリベンジとなった。
城は長野市から新潟県境近くにある野尻湖に行く途中、旧三水村にある。
この付近は熊の目撃情報が絶えない熊の生息域である。
牟礼駅から県道60号線を約4q北上すると上信越自動車道薬師トンネルと三水トンネルの間の橋をくぐるが、その少し南の若宮集落西の山にある。
麓に立派な城址解説板が建つ。
この地の土豪芋川氏の城である。
若宮集落の西の標高700mの山山頂に本郭を置き、東の尾根に3つの曲輪を展開させる。比高は約100mである。
集落の中にある標識に従い山に入ると、まず、西円寺堀@という横堀がお出迎え。
前回、ここを通ったなあ・・・。さらに坂を登って行く。結構、急!こんなんだったっけ?
途中に小曲輪がいくかありクマザサが・・・あそこに奴がいたなあ。
そして一転、広い曲輪WAに。西園寺曲輪という名前である。
内部は80m×20mの広さで2段構成になっている。集落からは比高45mある。
ところで「西園寺」って?明治の元老にそんな人、いたけど関係あるのかなあ?
ここの背後に堀切Bがあるが、規模は大きいのだが、藪が酷い。豪快に竪堀が東に下る。
@山南東側の登城道を入ると西円寺堀が出迎える。 | A麓から比高45mを上がると広大な曲輪Wである。 | B曲輪Wの西に堀切があり、竪堀が下る。 |
さらに上が曲輪V、40m×20mの広さであるが草が多く範囲がつかみにくい。
さらに堀切Cがあり、曲輪Uとなる。
この曲輪も曲輪Vと同規模であるが、草が酷い。
そして大堀切Dなのであるが、曲輪U側からはあまり深さはない。
どこまで堀かは何とも言えないが、本郭までは15mの高さがある。
この堀切、広く大きいが鋭さはない。
竪堀も幅が広く自然の谷っぽい。
本郭Eは30m四方の広さ。
北西側が一段高くなっており、神社がある
。当時はここに井楼櫓が建っていたのだろう。
C曲輪V西側の堀切は埋没しており浅い。 | D本郭手前の堀だが、広く鋭さがない。 | E本郭内部、社殿の地が一段高く井楼櫓があったかも? |
西下10mには三重堀切Gがあるのだが、藪で写真を撮ってもさっぱり。
また、東に尾根が延び堀切F等3本の堀切がある。
この尾根の北側を横堀Hが覆う。
尾根に沿って竪堀状に下る。
この方面に横堀があるのは上杉氏に対する意識であろう。
上杉氏がこの城を攻めるとすればまず北から攻めるだろうという想定によるものだろう。
この尾根と主郭部の尾根との間には「城」とか「北小屋」という地名の畑となっていた平場や谷津」がある。居館等の地か?
また、主郭部の尾根南斜面にも南小屋、舟竹小屋という地名の畑跡の平坦地がある。
若宮城の南約2qにある妙福寺が芋川氏の居館と言われる。
その館と本城の関係は居館と詰めの城なのか、本城が居館に移る前、または後の居館のある場所だったのかは分らない。
F本郭から東に延びる尾根には3本の堀切がある。 | G本郭西下には三重堀切があるが、藪で分からん! | H東に延びる尾根東下を横堀が竪堀状に下る。 |
城主、芋川氏は信濃北部の土豪の一人である。
武田氏の信濃侵略が始まると、信濃の土豪は始めは武田氏に抵抗するが、次第に切り崩され、武田氏に徹底抗戦した村上氏や高梨氏、大岩須田氏等は越後に亡命するが、多くの土豪は武田氏の家臣となる。
芋川氏も川中島合戦が終わったころは武田氏の家臣となったらしい。
正章の代の頃である。
芋川氏の領地は越後との境付近であったため、対上杉最前線の城として武田氏は重視していたようである。
天正6年(1578)、御館の乱で武田勝頼と上杉景勝との間で甲越同盟が結ばれると、緊張は緩み芋川氏にも平穏が訪れる。
この頃には当主は天文8年(1539)、芋川正章の長男として生れた親正になっていた。
平穏もつかの間、天正10年(1582)武田氏は滅亡し、森長可が北信濃に入る。
しかし、芋川親正は森長可に従わず、上杉氏に従う。
そして一揆を組織し森長可に対抗する。しかし、これは惨敗に終わり、親正は越後の上杉氏の下に落ち延びる。
天正10年6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃からの撤退する。
この時、人質は森長可によって皆殺しにされた。
森長可撤退で空白となった北信濃は上杉軍が侵攻し、親正も信濃に復帰、牧之島城4486石を与えられる。
同じく徳川の支援を得て故地松本に復帰した小笠原貞慶と戦う。
天正12年(1584)、上杉領に貞慶が攻め入り、麻績城付近で合戦となるが、同じ信濃復帰組の島津義忠と共に奮戦し小笠原勢を撃破。
慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に同行し、白河小峰城6000石の領主となるが、関ヶ原の戦いの直前に大森城へと配置換えとなる。
慶長13年(1608)に70歳で死去し、養子芋川元親(弟・親守の子、甥にあたる)が親正の所領を継ぎ、後から生まれた実子芋川綱親が芋川元親の旧領を継ぎ、米沢藩士として続く。
上杉鷹山の頃、藩政改革に反対した米沢藩奉行芋川正令、延親は子孫にあたる。
どちらかというと芋川氏は上杉家家臣というイメージが強いが、この若宮城は武田氏家臣時代、対上杉最前線の城という面が強いように思える。
芋川氏館(飯縄町芋川)
信越本線牟礼駅から国道18号線を越え、県道60号線を3q北上すると、右手に妙福寺がある。
この寺付近が中世、この付近の領主、芋川氏の居館跡である。
東に斑尾川が流れ天然の水堀となっており、残りの3方を土塁と堀で囲んでいたらしい。
遺構としては北西端部にある森家の裏に土塁が残り、堀が水田として残る@だけである。
規模は東西120m、南北80mくらいであり、若干、凸凹のある長方形をしている。
ここはあくまで平時の居館の跡であり、非常時は北にある若宮城が詰めの城として存在する。
@北西端に残る土塁と堀跡 | A妙福寺入口、参道の左右が堀だったらしい。 |
北から見た館跡。右手に見える山が髻山城。
館主の芋川氏がどのような出なのかは分からないが、一説には楠木氏の末裔というが、信ぴょう性はどうであろうか?
中世にはここ三水地区の領主でもあるが、さらに北信濃の有力土豪、中野の高梨氏の家臣であった。
応永11年(1404)、高梨氏が室町幕府に叛いた時、細川兵庫助が討伐に向かい、芋川氏の若宮城が攻略され、当主の長知は自害し、一時芋川氏は断絶したという(『芋川氏累世譜録』『市河文書』)。
しかし、断絶したのではなく、その血脈は伝えられており、主家の高梨氏の復権に合わせて元の地位に復帰したようである。
そして川中島合戦の頃、再度、歴史の表舞台に登場してくる。
北信濃も武田氏の侵攻を受け、永禄初期、芋川正章の代には芋川氏も武田氏に従属するようになっていたようである。
永禄12年(1569)に武田信玄は芋川正章の子、芋川右衛門尉親正に「雪消えなば、越府に至り行に及ぶべく候。なおその堺無事に候や承はりたく候。」との文書を送っている。
ここが対上杉の境目であったことがわかる。
その後、天正6年(1578)に武田勝頼と上杉景勝が同盟を結ぶと緊張は解け、平和な状態となるが、それも長くは続かない。
天正10年(1582年)2月武田氏が滅亡し、織田家臣、森長可が北信濃に入ると、芋川親正は上杉氏との間で苦しい立場に置かれ、結局、上杉方に付き森長可に対して一揆を起す。
そして領内の一向宗門徒や反織田を掲げる信濃国人を組織し大倉城を再興し、長沼城主の島津忠直らと連携して長可に反抗するが、結果は惨敗。
大倉城では虐殺が行われ、親正は越後の上杉の下に逃亡する。
この時、この館も放棄されたのであろう。
しかし、本能寺の変後の長可の撤退、上杉氏の北信濃占領で親正も故郷に復帰、牧之島城4486石を与えられ、徳川家康の臣下に下った小笠原貞慶に対して活躍する。
おそらくこの館も芋川親正のもとに戻ったのであろう。
天正12年(1584)、貞慶が攻め入り麻績城付近で戦闘になった時に奮戦し小笠原勢を撃破する戦功を挙げる。
そして慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に同行し、白河小峰城6000石の領主となる。
この時、この館も廃されたのであろう。
関ヶ原の戦いの直前に大森城主栗田国時が徳川方への内通で処刑されると親正は大森城へと配置換えとなり、慶長13年(1608)に70歳で死去する。
その跡は養子の芋川元親(弟、芋川親守の子、甥にあたる)が継ぐ。
芋川親正の一生はまさに戦国の世に翻弄された一生であった。
その子孫に芋川 正令(いもかわ まさのり、生没年不詳)がいる。
江戸時代後期、米沢藩の重臣で侍組分領家の一つが芋川家であった。
正令は元文元年(1736年)には藩主上杉宗房の小姓となる。宝暦元年(1751)に芋川家1000石の当主となり、宝暦3年(1753)に侍頭に、宝暦5年(1755年)には江戸家老、宝暦11年(1761年)には奉行に就任する。
宝暦13年(1763年)に竹俣当綱による権臣森利真の殺害が起こるが、色部照長や千坂高敦とともにこれを支持し、竹俣や色部、千坂らとともに江戸藩邸の藩主上杉重定の下に事後報告を行う。
上杉治憲や竹俣らの改革には反対し、対立の末、明和5年(1768年)に奉行を辞職して隠居した。
家督を相続した芋川延親が須田満主とともに安永2年(1773年)に七家騒動を起こしたため正令も連座で押込(自宅謹慎処分)となる。
この七家騒動は上杉鷹山に対する重臣のクーデターであるが、米沢藩の首脳部は10家で構成され、主導者の芋川延親、須田満主の他、清野祐秀(内膳)、平林正在の4家が信濃出身の家であり、いかに上杉家の中で信濃出身の家が重用されていたかが伺える。
なお、安永4年(1775)には、七家のうち、須田家と芋川家が家格を侍組分領家から侍組平侍に降格されたものの、共に家の再興が認められている。
(Wikipedia等を参考にした。)
健翁寺館(飯縄町芋川)
芋川氏館から南に500m、「町」集落の西側、山の裾野に健翁寺がある。
境内が2段になっており、西側はそのまま山に続き防護施設はない。
本堂の建つ地は45m×55mほどの広さである。
この構造から推定すると少なくも戦国期のものではなく室町初期の居館ではないかと思われる。
ここが芋川氏の居館であったというが、「町」集落が根小屋であったようである。
また、「町」集落は北国街道の裏街道である北街道の宿場町でもあった。
しかし、この町集落内、古くからの集落であり、道が狭いこと。対向車が来ればすれ違いにも難渋する。
芋川本家が何時ごろここにいたのかどうかは分からないが、芋川氏館に移った後は一族が居たのであろう。