髻山城(長野市上野)
長野市と旧牟礼村の境、標高774mの髻山にある城。
この山の下を善光寺平と野尻湖、上越方面を結ぶ北国街道が通る。
山上からは善光寺平一円を見渡すことができる交通上、戦略上の要衝であり、城が築かれて当然といった感がある。
比高は旧北国街道から245mあるが、善光寺平からの比高は400mある。
かつては牟礼方面から城の直ぐ西下まで林道が通じており、直下まで車で行けたが、現在は林道は閉鎖されており、ある程度歩かざるを得ない。
城に行く道はいくつかあり、この林道を行く道の他、やや南の果樹園から登る道、東から登る道等がある。
城へは果樹園から登る道を通った。
この道は緩い斜面を行くが、距離が長く結構疲れる。
杉林の中を登り、山北東直下の平担地に出る。 この地点の標高は650m、ここは謙信馬洗池と言われているが、池はない。湿地帯である。 その北東に盛り上がりがあり、頂上に古墳がある。 本郭はここから120m上である。 ここから北側から西側を巻くように登ると、北側に70×40mの広さの平坦地がある。 標高700m地点である。 城郭遺構はないが、兵の駐屯場所に使われていたと思われる。 ここから山の北側を登る。 |
いきなり710m地点に横堀が現われる。延長50m位ある。 |
上野原合戦の地から見た髻山。 | 主郭部北東下、謙信馬洗池。 | @主郭部北東下の平坦地。 |
A主郭部北東下の横堀。 | B本郭内部。 | C本郭東の虎口。 |
D西の遺構の南側竪堀。 | E 西の遺構内部は段々になっている。 | F西の遺構の西端の横堀。 |
この城にはもう一つ特徴的な城郭遺構がある。
本郭西50m下の標高715mから685mにかけての緩斜面に兵の駐屯場のような遺構がある。
1辺100mの頂点の1つが切れた3角形状の区画で周囲は堀と土塁があり、内部が7段位の段になっている。
しかし、この場所は日当たりが悪く、北風が吹きぬける場所にあり、居住性は良くない。 南斜面に造った方が良いと思うのであるが?
この城は余り石垣がない。
城の南側は崖であるが、それほど城域内に石は見られない。
石資源が少なかったから石垣がそれほど見られないのではないだろうか。
築城の時期については良く分からないが、川中島合戦で重要な役目を果たす。
地理的には善行寺平の北の入口に当るため、上杉軍の拠点として用いられた。
弘治3年(1557)の上野原の合戦はこの城の南山麓で展開されたと言われる。
川中島地方が武田氏の手に落ちると武田氏により使われ、武田氏滅亡後、上杉軍に占領されると、支配拠点の1つとして再整備されたという。
西山麓にある駐屯スペースは上杉景勝支配時代に整備されたものと言う。
南東の尾根先端には小城という出城がある。
矢筒城(長野市牟礼)
JR信越線は豊野から鳥居川渓谷に入り、野尻湖を経て上越方面に向かう。
鳥居川渓谷を抜けると牟礼の盆地に出、飯綱山の東側の緩い斜面が広がる。
牟礼村役場南側に独立した山があり、この山一体が矢筒城である。
北国街道沿いにあり、長野市の直ぐ北にあたる。髻山城は3km南にある。
城のある山の標高は567m、比高は60m程度、南北250m、東西350mの大きさに過ぎないずんぐりした形であり、山の北側には鳥居川の支流、滝沢川が深い浸食谷を作って東流しているため、山の北側、西側の勾配はきつく、川が天然の水堀の役目を果たしている。
川の北側が牟礼村の中心部であり、JR信越線と国道18号線が通る。
城の東には北国街道が通る交通の要衝でもある。
尾根式城郭ではなく、北西端に主郭を置き、東側と南側に曲輪を段々状に展開させた梯郭式の城である。 さらに現在飯綱病院の建つ場所に館跡があり、その南に外堀があったという。 |
下の写真は、南から見た矢筒山。山麓の曲輪がわかる。右の建物は飯綱病院。館跡に建つ。
内堀跡。今でも水がある。 | 小城東の曲輪。土塁がある。 | 本郭内の櫓台。 |
本郭南の腰曲輪。 | 小城の土塁と竪堀。 | 西から見た城址。ここまで舟が入り、船 付き場があったという。 |
城が何時ごろ作られたのかは良く分からない。
城への案内板に「島津権六郎の城」と書かれているが、この人物は、永正年間(1504〜20)ころの城主であったようである。
築城はそれ以前の1400年ころすでにこの地を支配していた島津氏によるものと思われる。
この島津氏は村上氏の家臣であり、薩摩の島津氏と同族である。
島津氏の本拠は長沼城であったが、この付近も領土であった。
川中島の戦いで島津氏は上杉氏に従ったが、この城がどのように戦いに係わったかは分からない。
おそらく戦いの前半は上杉氏の中継基地であったことは間違いないであろう。
北側の割ヶ嶽城が武田軍に攻略されていることから、一時的に矢筒城も武田氏の支配下にあり、城主の島津氏も越後に逃れたものと思われる。
北信濃が武田氏の手に落ちた後、この城がどちらの手にあったのか不明であるが、武田氏が織田氏の攻撃を受け、上杉氏に救援を求めた時は上杉氏は援軍をこの城に入れ、次いで長沼城に派遣している。
なお、島津氏は上杉氏が会津に移封された時に同行し、上杉軍団の有力武将として活躍している。
大倉城(長野市豊野大倉)
旧豊野町浅野で国道18号線は千曲川に沿って飯山方面に向かう国道117号が分岐し、野尻湖から上越方面に向かい山間に入っていく。
浅野の分岐から野尻湖方面に2q行くと大倉地区になり、北西側から尾根が東向かって延びている。
この尾根の先端部に城がある。標高は461mであるが、比高は90m弱である。
尾根の両側の勾配はきつい。
尾根の北には嘉児加川が谷を造り、南には鳥井川が流れ、南下を国道18号線が走り、鳥井川の対岸を信越線が通る。
この地は、野尻湖方面から善光寺平への出口に当る要衝の位置にある。
川中島合戦においては矢筒城、髻山城、替佐城、長沼城等へのつなぎの城として重要な戦略拠点であったであろう。
城はきれいに整備されており見学し易い。
夏場は草が多いが、冬は城址の広葉樹の葉が落ち最高の状態で見れる。
結構な遺構があり、内部は草刈が地元の人によって行われている。
地元から非常に大切にされていることが分かる。
短時間で来れることもあり、極めてコストパフォーマンスが高い城である。
城へは、大倉の交差点を北に曲がり100mほど行くと、左に城址の説明板がある。 その付近の道路は広く十分に駐車可能である。 この西が城のある尾根の先端部分である。先端部分は宅地化され遺構は失われているようである。 城へは説明板の南を流れる今井用水に沿った道を西に向かい、途中から登る。約10分程度登ると、三郭東側の一の堀の堀切に出る。 右の写真は三郭東端から見た一の堀の堀底である。 堀底は曲輪になっており、深さは10mほどある。 |
登る途中の斜面を大きな竪堀が南に下っている。 堀底と言っても幅が15mほどあり、曲輪の1つであろう。 結構広い。東側に高さ2mの土塁があり、斜面は竪堀となっている。 都合三重堀切になっている。 堀底から見上げる三郭の切岸は鋭く切り立っており、高さは10mほどある。 階段が付けられているが、昔はどうやって登ったのだろうか? どうも南側に迂回して登っていたようである。 切岸は石垣があったようであるが、結構石は崩落している。 三郭に登ると中は極めて平坦である。35×16mの大きさである。 段々がついており一段上が二郭ということになっているが、どう見ても同一の郭にしか思えない。 二郭は16×10mの広さ。 |
その西側はさらに3〜5mの長さの小さな郭が3段になっており、石垣の跡が残る。
最も西側が櫓台のように高くなっている。
この西側が本郭であるが、その間に深さ5mほどの二の堀がある。
本郭も3段に分かれている。36×17mと広い。
北下6mに井戸曲輪があり、井戸跡が残る。15×10mの大きさである。
この曲輪の西側には高さ2mの土塁がある。その北側が3の堀であるが、一気に10mほどの深さ、幅は20mほどある。
さらに尾根伝いに大きな堀が3本あり、尾根筋からの攻撃を防護している。
今残る姿は、川中島合戦の頃のものであろう。この地方が武田氏の手に落ちたころには廃城になったと言われる。
上杉式築城技術が見られるというが、どこがそうなのか良く分からない。
一の堀堀底から見上げた三郭。 高さ10m、斜面が竪堀になる。 |
三郭、二郭内部、両郭はつながっており段差があ るだけ。二郭西端には櫓台があり、石垣で補強 されていたらしい。 |
本郭から見た二郭西端の櫓台。 間に二の堀がある。 |
本郭内部。3段になっている。 | 本郭北の井戸郭。井戸は石組み。 | 井戸郭北の三の堀。深さ10m。 |
説明板には「鎌倉時代の寛元年間(1234〜46)に小笠原信濃守長清が築城、九男与市長澄が大倉氏を名乗って住居したと伝えられるが、文献資料によると戦国時代の永正10年(1513)頃には築城していたと考えられる。
川中島合戦の頃には上杉氏勢力下にあった長沼島津氏が領有し、長沼館の詰めの城として、また武田氏の北信濃侵攻に対する備えとして機能していた。
戦後は廃城となったが、天正10年(1582)に武田氏を滅ぼして川中島四郡を支配した織田信長の家臣森長可に対して、上杉景勝と手を結んだ芋川荘(現上水内郡三水村芋川)の芋川親正を大将とする8,000の一揆が蜂起し、大倉古城を修築して立て籠もった。
「信長公記」によると、4月7日、激戦の末1,250余人が城外で討ち取られ、城内に残っていた女性や子供1,000余人が切り捨てられたという悲劇の舞台となった。」と書かれている。
大倉一揆の悲劇の舞台であり、さらに森氏は本能寺の変後の撤退の際、人質を猿ヶ馬場峠で虐殺しているため、地元には評判が悪い。
当然、その上司である織田信長の評判も悪い。
ついでにこの地方で悪いと言えば何といっても「武田信玄」である。
この地の人々にとっては、まさに侵略者であり大悪人ですこぶる評判が悪い。
彼に抵抗して善戦した村上義清は英雄であり、それを助けた上杉謙信は正義の味方である。
同様に森氏の後、この地を支配した上杉景勝にも好意が寄せられる。
この認識は遺伝的に伝えられ400年以上経た今日にも延々と伝えられている。
この話は茨城の鹿行地方の人が地元の殿様を滅ぼした佐竹氏に対する感情が遺伝しているのに似ている。