立神城(大子町大字大生瀬)36.7792、140.4050
「立神」は「たつがみ」と読む。
この城は2025年に見つかり、2026年1月調査に行った。

ここ大子はかなりの数の城があり、「図説 茨城の城郭」全4冊で約60城を取り上げたが、まだまだ出てくるのである。
立神城があるのは、名瀑袋田の滝に水を供給する大野川が流れる山間である。

袋田の滝の北約1.5qの大野川に沿った街道から北の真瀬口方面に街道が分岐する三叉路を見下ろす東の山に城がある。
三叉路を見る山に城がある。定番の立地である。
城のある山の標高は301m、比高約70mの東から西に張り出した尾根西端部近くにある。

↑南西から見た城址。右下の民家裏から上に見える鉄塔の保守用の道が城内を通るので、その道を進めばよい。
右に行くと内大野に、左に行くと大子中心部に通じる。撮影場所の背後の方向に袋田の滝がある。


山の北側は深い谷が入り、この方面からはとても登れない。
南側からは登れるがこちらもかなり急勾配である。

南下の民家裏から鉄塔保守用の道が延びており、この道は西に大回りし、主郭部を通って尾根東に建つ鉄塔まで通じる。
この道を行けばよいのである。

城主郭部@、Aは小さなものであり、全長約40m、幅約8mしかない。
その間、3段になっており、TからVの3つの小曲輪が1.5m、3.5m、2.5mの段差で並ぶ。
主郭部の南北の斜面Dは勾配が45°以上もあり、とても登ることができない鋭さである。

東端には深さ約4m、幅約8mの堀切Bを置き、その東は細い尾根Cが高度を上げながら続く。

この東に延びる尾根からの攻撃が最大の弱点なのだが、なぜか、防御施設はこの堀切1本のみである。
普通は3重の堀切くらいはあっても不思議ではないが・・・。

この城の特徴は主郭の30〜35m南西下、平地より約30m高い山の中腹、標高268mの場所に約32m四方の平坦地Eがある点である。
ここを「シロノクボ」と呼んでいる。
漢字では「城の窪」と書くのであろう。
ここは居館の地であったと推定される。
山上の主郭部はここにあった居館を守るための施設と言えるだろう。

@主郭部を西下から見る。3段の切岸が」重なっている。 A最上部曲輪T、東側の土壇の下がBの堀切。 B主郭部東下の深い堀切、主郭の防御施設はこれだけ。
C堀切Bの先は歩きやすい尾根が続くだけ。 D主郭部南東側の斜面、傾斜は45°位あり、登れない。 E主郭の南下中腹の平坦地は居館の地だろう。

この中腹に居館を置き、山上にそれを守る曲輪を置く構造は袋田城とよく似る。
おそらく両城は同じ時期のものであり、山入の乱初期の段階のものと推定される。

近隣の袋田城、シシメイ砦、立神古城、月居城を運用した袋田氏に関わる城と思われる。
なお、地元には城に関わる伝承は伝わっていない。
しかし、城として認識されている。

前柏原砦(大子町小生瀬)
国道461号線小生瀬の交差点から県道22号線に入り東の猪鼻峠方向に約700m走り、京塚を南に入る。
この道は南に向かい常陸太田市境付近の取上で国道461号線に合流する。
ちょうど、国道461号線が通る道の東の谷を通る道である。
この道が古道であったようである。

その北側の入り口の山に前柏原砦がある。
城には先端部から尾根を歩けば行けるが、南西下の民家裏から登城を強行する。
その際、住人のK氏に挨拶したのだが、K氏は頂上部が平になっており、人工的なものとの認識は持っていた。

しかし、このルート、苦戦。傾斜がきつい上、広葉樹の落ち葉が積もりオマケに掴まるような小木もない蟻地獄のような斜面である。
しょうがないから少し東側に迂回して竹林の斜面を竹に掴まりながら登る。
ようやく山頂直下、帯曲輪に出る。さらに約5m上に主郭である。
城は東西に細長い山があり、西側が本郭Tであろう。
東側は西側より若干高く曲輪U、そしてその間の鞍部が曲輪Vである。

西側の本郭は西下の太田方面に通じる街道を監視する役目であろう。
東側の曲輪Uは東に見える猪鼻峠方面に通じる街道や花立山からの、または花立山への狼煙信号を検知する役目があったと思われる。
本郭はバナナ形をしており、北側以外を帯曲輪が覆い、東に腰曲輪がある。

東側の一番高い場所に5m×3mの少し盛り上がった区画がある。
北西に下る尾根が登城路と思われる。
本郭の東下が鞍部になっており、南北2段になっている。
小屋でもあったか?

そこから10mほど高く、東に曲輪Uがある。
南北が少し高く、南北下に腰曲輪がある。この城には堀切は確認できない。
簡素な造りから山入の乱の頃の城のように思える。

北側から見た城址(中央の山)、右が太田に通じる古道。 @本郭T西下の帯曲輪 A本郭T西端部、眼下に太田に通じる古道を望む。
B本郭T東にある低い土壇、ここは狼煙台だろうか? C鞍部Vは笹藪である。西側に本郭Tが聳える。 D二郭Uも笹藪、
ここから猪鼻峠に通じる道と花立山が見える。


竹ノ内砦(大子町外大野)

福島県境から県道195号線を約1.2q南下すると外大野の竹ノ内地区である。
この地区は袋田の滝に水を供給する大野川の上流部である。

竹ノ内」という地名があるようにここには城館があったとように思われるが、それに相当する城館はどこなのか分からない。
南に月ノ内という地名があるので城館とは関係がないのかもしれない。
この「竹ノ内砦」もこの地区にあるのだが、居住機能はなく、川の崖に臨んだ断崖上にある物見の砦である。


北側から見た城址(杉がある場所)
川に面した部分は一部崩落している。
この方面からは攻めることは不可能である。

砦の川に面した部分は川に崩落している可能性があるので本来はもう少し広かったかもしれない。
城には川に沿って西側に延びた尾根上を歩けばよい。
城のある部分は一辺約20mのL型をしている小さなものである。

中心部に祠を囲むような円形の土塁@がある。
径は約3m、土塁の高さは1mもない。
そこから北と西に尾根状に曲輪が延びる。
ここまでなら山の神を祀った場所のように思える。

ただし、円形土塁の中に石祠は見られない(移転した可能性もあるが・・。)。
ここまでなら山の神を祀った場所と思うが、南側を振り返って、ドキッ、深さ約3mの堀切Aがあり、西側は横堀となって延びているのである。
城域はここまで。
周囲を探索したが遺構は確認できなかった。

@北側に土塁が覆う円形の場所がある。 A @の南側に深さ約3mの堀がある。

竹ノ内地区を守る城というより、ここの南側、矢倉地区間にある山地に住民を避難させた場合の北の監視所ではないかと思う。
逆にこの山地の南側には矢倉砦が存在するのである。
こちらは南の監視所だろう。

矢倉砦(大子町内大野)36.8035、140.4271
外大野の竹ノ内砦の南の山を直線距離で約400m南に向かうと矢倉砦である。
ちょうどその間にある山の南北を2つの砦で見張っている感じである。

しかし、その間の山には特段、城郭遺構はない。
しかし、南北に見張りの砦があるということは、この山が住民の緊急時の避難所ではなかったか?
という推論が成り立つ。
その南の見張りの砦が矢倉砦である。


南下から見た城址。撮影場所からの比高や約45m。
雷神神社の赤い鳥居が見える。
そこが主郭である。

ここの地名の「矢倉」、これも城郭地名と思われる。
この地は内大野の北端にあたり、大野川の流れる谷筋から東に入った谷が矢倉である。
この矢倉地区で「櫓」に相当する城らしきものを探してもない。
唯一、地名の由来の元の可能性があるのが、この矢倉砦なのであるが、堀切1本しか城郭遺構はなく、果たして地名の由来かは分からない。

その矢倉砦、地区の中心にある「矢倉のお地蔵さん」の北にある雷神神社の地であり、南下から神社に建つ赤い鳥居が見える。
神社のある地の標高は324m、比高は約45mである。

@主郭である雷神神社境内、
鳥居の下に上の写真の撮影場所が見える。
北側の尾根にある堀切。深さ約1〜1.5m、幅約3m

神社は北から南東に延びた尾根先端部に位置し、東下の佐藤家墓地から参道が延びる。
神社の地が主郭、そこから約30m北にピークがあり、そこから約20m北に尾根を遮断する堀切Aが1本、遺構はこれだけである。
極めてシンプルな城である。
ただし、尾根続きの北側を除き山の勾配は急であり、物見の砦ならこれくらいで十分役目は果たせるであろう。


高柴砦(大子町大字高柴)36.7844、140.3495
袋田の滝の北東約3q、袋田の滝に流れ落ちる高瀬川が流れる県道195号線沿いにある五霊神社から県道を介して北東に見える山が城址である。

↑ 南西下、県道195号線脇から見た城址

五霊神社の対岸の尾根を登って行くと頂上部が城址である。
と言っても、明確な城郭遺構は深さ約2m、幅5mの長大な竪堀を伴う堀切@1本だけである。
その堀切は山頂部にあるのではなく、標高331m付近の南西に下る尾根の途中にある。

@唯一明確な城郭遺構の堀切、延びる竪堀が見事。 A堀切@から見上げた主郭側の切岸、途中に作業道がある。
B山頂部は平坦になっているが、薮! C北側には幅広く加工された尾根が下る。
尾根側から山頂部を見る。
そこから標高342mの山頂部までは約50m、高さ約5mの切岸Aと幅3〜7mの比較的広い尾根が続くだけである。
この尾根上は明らかに人工的に削平されている。
山頂付近Bも郭が重なるだけで堀切等はない。
尾根は北に下って行くCが、歩きやすい尾根が続くだけである。

この構造から、ここで戦う、守る意図は感じない。
物見、狼煙リレー用の城館だろう。

ここの西約1qが内大野館、東約1.5qが花立山であり、両者を結ぶ道がこの山の北側を通っている。
両者をつなぐて狼煙リレーの城であり、花立山方面から内大野に向かう街道の監視用であろう。


内大野石境砦(大子町内大野)
袋田の滝に流れ落ちる滝川の源流、大野川が流れる滝から北東約3qの内大野地区にある。
この地の主要な城郭は内大野館であるが、石境砦はその出城の性格である。
とは言え、小さなものであり、堀切がなければただの山にしか見えない。

↑東側から見た石境砦、右に見えるネットの場所に生瀬中のグランドがある。

場所は内大野館がある堀之内地区から大野川を挟んで南西約600m、生瀬中のある丘の南側の盛り上がった部分である。
生瀬中南側は平坦地であり、中学校の敷地を含め250m×150mの広さがある。

大野川からの比高は約20m、西側には日照方面からの川が流れる谷津になっており、この丘の南側で大野川に合流する。
この平坦地、居館があったと思われる。

砦はこの平坦地の南側、標高281m、平坦地からは約20mの比高がある。
大野川が流れる低地からは約40mである。

砦とはしたが、一応、城郭遺構があるからであり、広い曲輪はない。
山頂部やその周囲には帯曲輪と思われる平坦地はある。
北側から登って行くと堀切@がある。
南の主郭側からの深さは約5m、北側は自然の谷が入り、南は腰曲輪である。
山頂部には細長い曲輪と帯曲輪Aがあるが、南側は曖昧であり、幅約5〜7mの比較的広い尾根が下る。
山頂から南約60mに深さ約3mの堀切Bがある。

この砦は内大野館の南西側の物見台であろう。
川の合流点にある半独立した山にあるので結構堅固な地形であるが、地形自体、要害性が高くほとんど地形に頼っている。

ここを守る、戦うという意図は感じられない。
最小限の防御で領内に狼煙や鐘、太鼓で敵襲を周知させ、敵をある程度拘束し、住民の避難の時間稼ぎができれば役目として十分であろう。

住民もこの付近は山間なので山に逃げ込めば命は助かりそうである。
どうもそんな意識がこの付近の城全てに感じられる。
@北側の堀切。西側は自然の谷、右側は帯曲輪になる。 A山頂の主郭、一応、二段で平坦にはなっているが・・・ B南の尾根にある堀切。深さは約3m、しっかりしている。

外大野要害(大子町外大野)36.8096、140.4195
大子町一番の名勝、袋田の滝の裏側(東側)、滝を流れ落ちる川の一つが北から流れて来る大野川である。
その大野川が流れる外大野地区にある。
内大野地区の北約2.5q、1q北は福島県である。
ここに桜の銘木「外大野の枝垂桜」がある。
その木の南約300mの山が城址である。

↑西側の低地から見た城址。右側の平坦な部分が館跡か?
城のある山は東の県道195号線が通る谷と西側の谷の間にあり、標高は約330m、麓からの比高は約45mである。
国土地理院の地図には338mの表示の山があるが、その西側の2つのピークが主郭部である。

城を確認したのは2023年2月であるが、聞き取りによると地元では城として伝えられているという。
ただし、城主伝承などは分からないそうである。
西の麓の民家から上がるが西側斜面は一面の竹林である。
ここは元々畑だったが、耕作が放棄され竹林になったという。
この部分に腰曲輪があったかもしれない。

この緩い勾配の竹林を上がって行くと、急勾配の切岸@がそびえ立つ。
その上が本郭Bである。高さは約8m。
そのまま登攀は不可能。それほどの鋭さである。

@ 本郭の切岸。本郭西下の竹林はかつては畑だった。 A本郭南側の鞍部。先が物見台である。 B本郭内部、かつては社が祀られていたという。

南側に迂回してピーク間の鞍部Aに上がる。
その上がる道、これが竪堀の堀底道である。
鞍部は13m×7mの曲輪になっており、西側は本郭部である。
その間に登り道を兼ねた竪堀が堀切となって存在する。

鞍部から4m上が本郭B、30m×10mの楕円形をしており、1mの段差を持つ2段構造、北側斜面は急勾配である。
北西側に尾根が下り段郭が展開する。
5段ほどは明瞭であるが、その先は曲輪が不明瞭になる。
途中から西側に帯曲輪Cが張り出す。
本郭から帯曲輪までは7mの深さがある。

C本郭西下の帯曲輪を本郭から見下ろす。 D物見台は径約5mの平坦地、狼煙台でもあろう。 E物見台の東側の堀切。ここが城の末端部か?

一方、鞍部の南西にピークがそびえる。
鞍部からは10mほど高い。その上が径5mほどの平場Dになっている。
ここの標高が331m、物見台か狼煙台であろう。
東が緩く傾斜し下に堀切Eがある。

さらに東に三角点のあるピークがあるが、ここには明瞭な遺構はなく、尾根が東に続いて行くだけである。
城外であろう。
なお、その南下の鞍部に堀切のような場所があるが、これは道の切通しと思われる。

城のある山の南下に谷側に南北約50mの削り残しの土塁のようなものがある。
東側が切岸となり、下が平場になっており、土塁上までは高さが約4mある。
しかし、西側は自然の丘斜面のままである。

城のある山側は堀切状になっており、山の東側の谷「竹ノ内」地区に通じる道が通る。
この平場、風も避けられ日当たりがいいのである。
F 右:土塁、左:山上遺構部 その間は堀切状である。 G居館跡推定地の西側は高さ約4mの土塁になっている。
H平坦地と土塁の南端部 I土塁上、右側が居館推定地。

この場所は後世に削平された場所の可能性もあるが、当時の遺構とすれば居館跡ではないかと思われる。
この土塁、盛ったものではなく、丘の削り残しである。耕作に伴う可能性も否定できないが、高さが約4mもあり、登るのに苦労する。
とても単なる耕作地を造るためだけにこれだけの工事をするのは非現実的である。
この土塁と平坦地、最近なら重機で造成は可能であるが、重機が普及していない戦前からあったようである。
城郭に伴うものと考えるのだ妥当であろう。、

居館は地名のとおり「竹ノ内」地区にあり、ここが詰めの場所か?

この城の西下を内大野から久慈川沿いの下野宮方面に通じる道が通り、さらに西の沓掛峠からの道が合流する。
その三差路を見ているようである。

狼煙台とすれば内大野館に狼煙を伝える役目と推定されるが、さて、その伝えるべき狼煙信号、果たしてどこから受けたのか?
沓掛峠方面か?佳老山の西にある福島県矢祭町に所在する「物見館」ではないかと思うが・・そこは北東約2.5qに位置するのだが。
物見館からは棚倉方面まで一望の元なのだが。

八神館(大子町高柴) 36.7947、140.4343
袋田滝の北東に位置する内大野地区には内大野館があり、麓の「堀ノ内」地区がこの一帯の中心地である。
八神(はちかみ)館は内大野館背後の北東の山地を直線で約1.2km行った場所にある。
内大野館が南西端に位置する北東の山塊は東西約1.5km、南北約1kmの広さがある長方形をしており、周囲を車で一周することができる。


八神館はこの長方形を描く山系において、内大野館に対して対角線上のほぼ反対側北東端部近くにある。
この対角線に沿って尾根の南下部に古道があったといい、その道は昭和時代の途中まで使われていたそうであり、今もその痕跡を途中まで辿ることができる。

館は現在、自動車道が通る谷筋には面していなく、約300m山側に入った場所にある。
なぜ、少し奥にあるのか、戸惑うところである。
主郭部からの眺望は良くないのである。谷筋がほとんど見えない。

尾根上にも古道が通っており、その古道が城内を通っていた関所城であった可能性がある。
内大野に向かう古道を抑える城の可能性が想定されよう。
城郭としては規模も小さく、遺構のメリハリも余りない。

北東に幅約3m、主郭側からの深さ約3mの堀切があり、主郭側に小曲輪が4つ重なり、さらに幅約4m、長さ約50mの弓のような形を主郭@がある。
西側に小さな堀切2本で仕切られたピークがあるに過ぎない。
主郭部の標高は362m、八神地区からの比高は約40mである。


↑@主郭内部、やたら細長いが内部は平坦。古道が通っていたかもしれない。

日照要害(大子町大生瀬)36.8000、140.4087
日照は「ひしゅう」と読む。
大子町内大野地区から県道33号線を北西の下野宮方面に約1.6km行った北側にある熊野神社の北側の山が城址である。
城址のある山は北から南に張り出した尾根であり、その先端部分の盛り上がった部分に城がある。

↑ 県道33号線から見た城址。

標高は320m、南側の県道からの比高は約50mである。
城址の南側が谷戸部になっており、ここに熊野神社が建つ。
その両側に尾根が両腕で社殿を抱くように派生しており、その尾根を登ると城址である。

城といっても小規模であり、約50m四方程度が城域である。物見台、狼煙台程度のものに過ぎない。
しかし、遺構は完存であり、丁寧に構築されている。
風化も進んでいない。

主郭がある山頂部Bには狼煙台跡と思われる部分がある。
一辺約25mのT字型をしており、山頂部からは4本の尾根が派生する。
その4本の尾根にそれぞれ堀切A、C、D、Eがあり、堀切に面し土塁が構築されている。

@南側の谷戸部にある熊野神社 A熊野神社の東側の尾根を登って行くと、堀切が・・。 B城の最高箇所、ここに狼煙台があったのだろう。
C北に延びる尾根にある堀。 D西に延びる尾根を断ち切る堀切。 E熊野神社西に下る尾根にある堀切。

堀切の深さは主郭側からは約3mである。
主郭側の土塁は迎撃用であろう。

北端の堀切Cから東側に下る竪堀は竪土塁を伴う。
これが登城路ではないかと思われる。

南側谷戸部の熊野神社の地がどのように使われていた不明であるが、ここは日が当たらない谷間でジメジメした感じで居住には適さないと思われる。
地元では狼煙台と伝えられるが、城主の伝承はない。

場所からして南東側に位置する内大野館に狼煙で情報を伝える中継所である。
さて、その情報はどこから伝えられたか、この山の北、西は山地である。
そのどこかに狼煙台が眠っているのであろう。

立神古城(大子町袋田/小生瀬)
大子町最大の名所と言えば「袋田の滝」である。
この滝は生瀬富士の北付近から男体山の南側の籠岩付近まで続く海底火山が隆起してできた屏風のような崖面を滝川が4段に分かれて豪快に流れ落ちる。
この崖面の縁、袋田の滝から北西に約1qの距離にあるのが、この山系の最高峰「立神山」(420m、36.7697,140.3994)である。

↑東から見た立神山(右のピーク)、鞍部が城の主体部。反対側は崖である。こちらからは登りやすい。

袋田の滝を流れ落ちた滝川の水面からの標高が140mなので、立神山は約240mの比高がある。
(なお、この山系で最も知名度のある山は岩だらけの山、生瀬富士であるが、こちらの標高は406mと立神山より若干低い。)

↑東の花立山から見た立神山(中央のピーク)、右の山が生瀬富士。

この山系は西側から見ると崖が聳え立ち圧倒的な迫力である。
でも、崖縁部をハイキングコースが通り、色々な所から登れる。
そのハイキングコースには東下の標高220mの大野川沿いの谷間から登るのが比較的楽なようである。
この方面、東側の山の勾配は緩い。普通の山と言った感じである。

立神山は「古城山」という別名があり、城であったとの伝承がある。
立神山の山頂は径約6mの平坦地であり、南西側に幅約3mの平坦地が2段あるに過ぎず、城とすれば山頂は物見台程度に過ぎない。

館跡、小屋があった場所が南東約100m、比高約40〜50m下の鞍部の平坦地(36.7689、140.4010)Bと言われる。
そこには人為的に工事された平坦化や帯曲輪のような場所@ABがみられる。
これが城館である物証と考えられるが、今一つ、不明瞭な感は拭えない。

@鞍部東側の尾根には全長25mに渡り小曲輪が展開する。 A鞍部にある小ピークの頂上部も平坦になっている。 B立神山東下の平坦地、25m四方の平坦地が2段ある。

ここが城であるとの伝承があり、遺構も不明瞭ながら存在するので城館と判断しても良いと思われるが、誰が使ったのか等の文献記録はないようである。

場所的には袋田の滝を挟んで南南東約2qの月居城の反対側に位置するので、月居城の支城ではないかと思うが、さて、真実は如何に?
支城と言っても精々、物見台、主体は住民の避難城だったと思われる。

C立神山山頂は平坦で物見台と言われる。 尾根筋南側から見下ろした袋田の滝、この風景はなかなか見られない。

鞍部から見下ろした約240m下の袋田の滝のお土産屋街。 左の写真の右に写る道路から撮った立神山、右側のフラット部が城主体部

月居城については室町時代初期に佐竹氏の一族山入氏系の袋田氏が築き応永年間(1394−1428)に居城(詰の城であり、居館は東の山麓付近にあったのであろう。)としていたが、義資の時小田野氏の養子に入り、累系が途絶えたため一時廃城となった、 
後年、同じ佐竹氏の家臣の石井氏、滑川氏、そして永禄10年(1567)野内氏が城主となり、佐竹氏の秋田に移封に同行して野内氏も大館に移ったため、廃城となったという長い期間にわたる歴史があるが、そのいつの時代に立神古城が関わった分からない。

しかし、崖に面した西側は圧倒的な迫力であり、絶対的に安全であるが、東側斜面はそれほど急ではなく、東側から攻撃されればそれほど堅固ではない感じである。
でも、こんな所を攻撃する敵なんかいるか?
遺構が示すようにそれほど重要な場所とも思えない。
短期間の避難ならともかく、長期に渡ってこんな所に籠っても直ぐに干上がるだろう。