物見館(矢祭町下関河内)
矢祭町の南端部、棚倉街道こと国道349号線が通る下関河内地区の西側に崖むき出しの山がある。佳老山459.6mである。
その山から北に続く尾根が延び、TV塔が見える。
標高491mの物見山である。

↑ 東側下関河内小学校前から見た館址。右のTV塔がある山が物見山、左側のフラット部分の林に平坦地がある。

物見館はその物見山とそこから佳老山方向の南側の鞍部付近にあった。
さて、ここにはどう行っていいのか分からなかった。

TV塔があるのでその保守用の道があるはずであるが、それが良く分からない。
そのため、山の周囲をうろうろ、山北側の林道からTV塔が見え、林道から山に道が延びている。

北側からを狙ったのは、日が当らなく藪が少ないという理由である。
「これだ!」と思って突入。
しかし、それは大間違い。道は途中でなくなり、急斜面が立ちふさがる。
でも、TV塔がすぐそこに見えているのである。

撤退して別ルートを探すという選択枝もあるのだが、ここは強行突破を図る。
45℃の急斜面を木につかまりながら登る。
滑落したら一巻の終わりである。
で、何とか尾根に到達。ここまで比高150m。
道なき道の比高150mの登攀は地獄の道である。

尾根に出たのはいいのだが、今度はTV塔までの道がイバラとタラの木が生えているのである。
この尾根筋は古来からの道なのだろうが、ほとんど通る人もいないのであろう。

苦労して到達したTV塔@、そこで見たものは南側から登る道があったことであるが、この道もかなり藪化していた。
TV塔の場所、ここは20m×10m程度の平場であり、少し下に西側に30mほどの付きだしAがあるに過ぎない。
土塁とか堀切はない。
さすが物見山というだけあり、眺望は良く、棚倉方面、東を通る棚倉街道が一望の元である。

ここから南に下った鞍部が館跡というか小屋があった場所という。
物見山からは南に尾根上の細い道がアップダウンしながら続き、その両側は急坂である。
所々にピークがあり上が平場になっている。
尾根筋の一番低い場所Bの標高は382m、そこは堀切のようになっているが、峠であった可能性もある。
ただし、東側は急斜面であり、果たして峠であったという確信は持てない。

物見山から見た東の下関河内方面。
上の写真を撮影した場所方向である。
物見山から見た北の久慈川上流方向。
この先に羽黒山、寺山、赤館等の城館がある。
そこをさらに南に進むと徐々に登りとなり、尾根筋が広くなる。
尾根筋には段々状の曲輪が現れ、堀切Cのような場所もあり、加工されたことが伺える。
ここが小屋が置かれたと推定される場所である。

南端のピークDの標高が412m、物見山より80m低い。
このピークの北西側に平場がある。
ちょうど尾根が風避土塁のように平場EをU字型に覆う。
この部分の範囲、70m×50mほどである。
周囲は崖に近い急斜面、攻撃するとすれば尾根筋であるが、ここも両側が崖に近い急斜面、堀切もいらないくらいである。
したがい、ほとんど自然地形に近いのであろう。

この先に若干尾根が低くなりながら続くだけである。
物見山からここまでは400m程度の距離であるが、尾根上の道は整備された感じである。
この道はそのまま佳老山方面に続き、途中で林道に接続するようである
。その場所を古峠(こつとうげ)という。
本来はここまで車で来て、尾根筋を物見山まで北上するのが良かったようである。


「白河故事考」によるとこの館は白河結城氏の家臣、斑目十郎広基の館だったという。
戦国前期、この場所は佐竹氏との勢力範囲の境界に近く、金山の奪取を目的に南郷地方に侵攻する佐竹氏の軍勢は東下の棚倉街道を通る、それを監視し、狼煙リレーで赤館まで来寇を伝えるのが目的だったのだろう。

結局、軍事力に勝る佐竹氏により白河結城氏は南郷地方を奪われてしまうが、その頃になるとこの館は使われなくなる。
物見という必要はなくなり、せいぜい狼煙リレーの中継場所は存在したであろうが、こんな高い場所である必要はなく、棚倉街道沿いのより低い場所に移っていたものと思われる。
それが小田川の関であろう。
@TV塔がある物見山山頂 A物見山山頂から西に延びる尾根の曲輪 B物見山から南の細尾根を下った堀切のような場所。
C館があった平坦部入口曲輪のの堀切 D館があったという場所のピーク E平坦部は若干傾斜しているが駐屯地には適している。



館日向館(矢祭町内川)
この館の名、「たてひなた」と読む。
場所は矢祭渓谷から久慈川に注ぐ支流の矢祭川に沿って西側の八溝山方面に入った内川地区にある。
この内川地区に内川小学校があり、その東側の山に送電線と鉄塔が建つ。


↑東下から見た鉄塔と左側の森の館主体部。

東電福島幹線の送電線である。この送電線こそが東電福島第一発電所の電気を首都圏に送っていたものなのである。
そういう目で見るとこの送電線も違ったように見える。
ところで送電線について検索したら、その手のマニアもいるんですね。

こんなリンクもありました。http://www5b.biglobe.ne.jp/~y1hiro/L000/L001G001.htm
まあ、送電線、鉄塔に美を感じる気持ち、わからんでもない。
藪の山城を送電線、鉄塔に置き換えれば似たようなもんだ。
・・って、脱線したけど。

その内川小学校から見える鉄塔であるが、直近の鉄塔ではなく、1つ南東側の鉄塔である。

鉄塔の場所の標高は330m。
館跡はこの鉄塔に続く南西側の標高371mのピークである。
ちなみに山の麓の標高は152mである。
鉄塔まででも比高は180mもあるが、鉄塔までには保守用の道があるはず。ということでまず、それを探す。

すると南東下に道を発見、この道を行く。直登よりはましであるが、斜面が急であり、道があっても息があがる。
途中標高263m地点に天道塚がある長さ40m、幅5mほどの平場@がある。
ここは中継場所かもしれない。

さらに登ったところが鉄塔Aであるが、ここは西側から延びる尾根の突端。
ここから谷筋の眺望は良く物見台であったかもしれない。
館とされている場所には西側の尾根を150mほど行き、北から延びる尾根を上がったピークである。

@標高263m地点にある平坦地は曲輪だろう。 A鉄塔の建つ標高330m地点のピーク 鉄塔の建つピークから見た北下の内川小学校
B鉄塔の奥の尾根先端に2段の平坦地がある。 C館主体部というピークはただの平坦地。 DCをさらに南西方向に行くと平場がある。

尾根を行き、ピークから南に延びる尾根に取りつくが、そこは尾根末端が平場Bになっている。
標高は340m、平場は30m×5mの広さ、上にもう1段10m四方ほどの平場所がある。
そしてその上の標高371mのピークCに出る。
一応、ここが主郭部ということになっている。

しかし、15m×8mほどの平場であり、下りとなる北東側と西側に尾根が続くが、堀切も曲輪もない。
ほとんど自然地形である。これでは物見か、狼煙台程度である。
このため、西に続く尾根を進んでみる。鞍部を越え、100m西の標高364mのピークに出るが、ここも直径15m程度の平場だけ。
北方向に下る尾根があり、南東側に尾根が続く。

この南東側に続く尾根を行くと、尾根は広くなり50m×30mほどの平坦地Dがあり、最後に標高380mの直径8mほどの平場に出る。
その先、北西と南東にも尾根が続き、400m先が茨城県境となる。

結局、この館は堀切もなく、曲輪らしい平坦地はあるものの、ほとんど自然地形に近いものであり、物見台、狼煙台程度のものである。
しかし、100m×30mほどの平坦地は人間が駐屯できるスペースとはなると思われる。

この館は佐竹氏がこの地を占拠した後、整備したと言われる。
館主は和田安房守、後に伊勢出身の古市雅楽に預けたという。
この矢祭川沿いの谷は久慈川の渓谷から奥まった場所であり、戦略的に重要な交通路ではなく、物見をするような価値は見いだせない。

想定としては、この奥地が八溝山、当然、矢祭川の上流に金山があった可能性があり、それに係る館が麓にあり、その詰めの城なのかもしれない。
または、緊急時に住民が避難するための城だったのかもしれない。