武生山と穴城(常陸太田市下高倉町)

常陸における南北朝期の騒乱の1つ、瓜連合戦に金砂山城と並んで北朝方佐竹氏の本拠に「武生(たきゅう)城」が登場する。
この城はバンジージャンプの名所、竜神大吊橋対岸の岩山の上とされる。
確かに岩山の上に平場がある。

一方、日本城郭大系では「武生山の南側」が武生城と書かれる。
竜神大吊橋対岸の城は、確かに武生山の南には位置する。
しかし、山頂からは約2.5qも離れている。
ちょっと距離が有り過ぎる。

「武生山の南側」なら山頂から武生神社にかけてのエリアと考えるのが妥当だろう。
現に武生神社の場所が武生城であるとの説もある。

・・・てなことで、ウダウダ言っていても始まらない。まずは現地確認を。
ともかくそこに行ってみる。
現地を見ないで論議はできない。

なお、この付近、地図を見れば、とんでもない僻地のように感じる。
しばらく前は「秘境」と言われていた。
そのまでの道路も林道である。

確かに麓から登る道、「ヤバイ」と思うくらいの勾配であり、カーブの連続、そんなに広くもない。
上り口の山田川が流れる国道461号線からは比高約230mを上らなくてはならない。

↑ 奥久慈男体山から見た武生山、左のピークが山頂部、右のピークが武生神社の森、開けた場所が武生集落
左奥の山は東金砂山(481)。

しかし、上りきると広い道路が北に延びている。勾配もそれほどでもない。
一部は2車線の舗装された道である。
「これが林道か?」とても林道とは思えないくらいである。
この林道、まさに「山岳スカイウェイ」である。

その標高458.7mの武生山、これがまたおかしい。
この山系の最高箇所ではないのだ。
三角点のある所が山頂とされる場所なのだが、山の最高箇所は三角点の南側にあり、そこは標高が463mなのだ。
山田川の谷部が標高125mなので、比高は330mもある。

最高地点から北に帯びる尾根の先端部近くに三角点がある。
そこが山頂なのだ。
何で三角点の場所と最高標高地点が違うのだ?

武生山山頂の三角点。ここは最高箇所じゃない。 東下の駐車場から見た山頂。ここから10秒!! 真の最高箇所はここ!何にもない!

ちなみに山頂の東下に駐車スペースがあり、駐車スペースから山頂まで走れば10秒で到達できる。
名前のついた山で、地図にも標高が表示される山ならそれなりに知名度がある山である。
それがたった10秒で登れる?
なんじゃいこれは!別の意味でこれは驚きだった。
つまりは、武生林道は武生山をぶち抜いているのだ。

多分、登山時間最短の城だろう。
そうすると、463mのピークが城址か?いや、そこに行ってみたが、山頂はただの山だった。
何もない。付近を歩いてみてもやっぱり何もない。
南北朝の山城でも陣が置ける平坦地くらいはあるはずだが、そんな平坦地はない。
とてもここは城とは思えない。

武生神社
この山から緩やかで広い尾根が武生神社方面に続く。(その途中を武生林道が分断する。)
その尾根筋にも凹凸部があるが、堀切ではないだろう。
神社周辺も明確な遺構はない。
武生神社は武生山から続く尾根の末端にあり、その南は急勾配となる。

ちなみに武生神社は常陸太田市のHPでは以下のように紹介される。(主旨のみ)
武生山には神武天皇の時代に同社の祭神である大戸道命が降臨したという言い伝えがあり、宝元(701)に修験道の開祖とされる役小角が神霊を武生山頂に移し、大同元(806)坂上田村麻呂が蝦夷征討の祭に武運長久を祈願して本殿を奉献したと言う。
鎌倉時代には東金砂山東清寺の僧が奉仕し、江戸時代には徳川光圀の命により修験道の旧に復、明治時代の神仏分離政策が実施されるまで続く。

現在の本殿は天明6年(1786)に再建されたもので、仁王像は寄付金を募って、正徳6年(1716)4月に大仏師雲恵によって造られたという。
明和8年(1771)年には,神託に沿って境内の地を掘ったところ宝剣が出土。
長さ40cm、先が丸く鰐柄のような形状をしており、仮殿を建てて納めている。

本殿裏にある御神木の「太郎杉」は推定樹齢約800年、高さ約35m、周囲約5mを誇る巨木。
横枝がなく反対側に大きく突き出した枝張りと山上にもかかわらずこれほどまでに成育した天然木は近隣でも非常に珍しく常陸太田市の天然記念物に指定されている。
幾度かの落雷に遭いながら現在までその樹齢を保つことができたのは太く勢いのある枝振りによるものと言われる。
古くは当地の神事として、休日を集落の人々に知らせるために樹上に旗を立てていたとも言われる。

渋いが格調ある拝殿。佐竹扇紋が掲げられている。 本殿は江戸後期の作、結構派手な造りである。

平安時代以前の神社の歴史の信ぴょう性は不明であるが、鎌倉時代には修験の場であり、東金砂が関わっていたのは注目される。
修験の場が城という場合が多い。
修験者組織自体が武装組織であり、武家の軍事力の一旦を担っていたのも事実である。
金砂合戦において佐竹秀義を花園に脱出させたのも修験者という。
また、山入の乱で東金砂神社は佐竹義舜が籠城しており、佐竹氏と多いに係りがある神社である。
この武生神社の拝殿には佐竹氏の家紋が掲げられている。

神社から武生山に延びる尾根。広い。
堀切のような感じの場所もあるが、違うだろう。
神社西下に広がる平坦地は民家と畑。
ここなら軍勢の駐屯地にもなる。
左手の山は明山。
←御神木の「太郎杉」、樹齢800年なら、瓜連合戦の時、ここはどうだったのか、目撃しているはず。

南北朝期の瓜連合戦で佐竹氏が武生城に陣を置いたのもこのような背景があるからであろう。

竜神大吊橋対岸の岩山の上にある武生城、この武生神社から良く見えるのである。
この状況から狼煙で連絡を取れたと思われる。

この武生神社周辺、比較的平坦地が多く、民家や畑も点在している。
城郭遺構は確認できないが、山上の平坦地であり、周囲は近寄れないほどの絶壁や急斜面である。
ここに軍勢を駐屯させてもかなり安全であろう。

すなわち、「高井釣」同様、地形が城の役目を果たすことができると思われる。
瓜連合戦でここに軍勢を駐屯さていたとしても不思議ではないと思える。

穴城

武生山、武生神社に来たのにはもう1つの理由がある。
武生山の北に「穴城」という地名があるのだ。
「穴城」と言えば小諸城が知られる。
城が城下町より低い場所にある変わったタイプのものである。

隠れ城のようなイメージもある。
そこを確認したかったのだ。

↑武生神社西下から見た穴城方向。
 穴城は低地にあり、撮影場所からは見えない。
後ろの山は中武生山、右に写る山裾が武生山である。


さて、そこに行くにはどうやって?
武生山から北に延びる武生林道を行ったり来たりして行く道を探す。
しかし、林道の斜面は急、入口は見つからない。

林道沿いに別荘らしい家があり、その脇から道が下っているのが見えた。
確証はなかったが、とりあえずその道を進んでみる。
結構、尾根上を均し平坦化した道Eである。
どうやらその先に家があったようである。
(そこまで行ってないが、道に枯れ枝も多く、人が行き来している感じではなく、家は無人ではないかと思う。)

その家と北の山一帯を穴城と呼んでいるようである。
どうやらこの道以外、アクセスする道はなさそうである。
穴城の名の通り、この場所、周囲から少し低い場所にある。

武生林道付近のピークが標高450mくらいであるが、穴城の最高箇所は標高412mである。
その穴城のイメージ、下のイラストのような感じである。(数字は標高)

径約8mの2つのピーク@、Bの間に約10×7mの平坦地Bがあり、西側に大きな抉れDがある。
これは堀切という感じではない。

@東のピーク、上は比較的平坦 A東のピーク南下は犬走り状であるが、道だろう。 Bピーク間の平坦地から見た東のピーク
CBとは逆に平坦地越しに見た西のピーク D西のピーク、西下に大きな窪みがあるが、堀切じゃない? E林道から下る道、途中に堀切のような道の分岐がある。

果たして、これが城なのか、何とも言えない。人の手が加わってはいるようである。
もっとも、城としたら、南北朝期のもの(と断言していいものか、悩ましいが)ならこれでも城なのかもしれない。

その穴城の東、武生林道(標高430m)のさらに東に標高450mのピークがある。(36.7076、140.4558)
そこに登ってみたら、山頂部は平場になっており、祠が祀られている。
周囲に堀切等はない。(その必要もないが)
ここは詰の場か?あるいは物見かもしれない。狼煙台の可能性もある。

東側の武生林道から見た穴城 武生林道脇のピーク。左下が穴城。 ピーク上の平場には祠がある。ここは物見か

武生神社関係者やその付近の住民の避難場所、隠れ家か?
それが、周辺より低い場所にあったので穴城と呼ばれたのであろうか?

でも、一体、誰が利用したのだろうか?
瓜連合戦や武生城と関係はあるのか?
何でこんな低い場所に?
疑問は尽きない。