武生城(常陸太田市(旧水府村)下高倉町)

 水府村の竜神大吊橋の向かいにある岩山の上にあった城。
 「高倉城」「麓城」とも言うが、現地の人は皆「竜ヶ井城」(りゅうがいじょう)と呼んでいる。
 標高は約380m。東側の山田川の流れる平地からの比高は250m。竜神湖の湖面からも150mはある。

 ここは棚倉断層によりできた山であり、特に山田川西側は山田川沿いに一気に300mは高くなる険しい山が連なっている。
 岩盤は礫岩質の堆積岩であり、侵食を受けて堅い岩のみが残り、のこぎり状の尾根となっている。
 城のある山もその1つである。

 おそらくここは茨城県内で最も危険な城であり、危険さでは全国でも有数の部類に入るであろう。
 信州の山城も多く見たが、ここ以上の危険な城は覚えがない。

 本郭部の周囲は目もくらむような崖であり、途中には切り立った岩盤が露出している。場所が場所だけにほとんど行くのは困難。
 竜神大吊橋を渡れば容易に登れるような気がするが、垂直に岩がそそり立っているため、ロッククライミングで登らない限り登攀は不可能。
 かろうじて東側に崖でない尾根が続く。しかし、この尾根も登ればきつい。

この城には3回目のチャレンジでようやく到達した。
ルートは竜神ふるさと村から延びる尾根沿い。
1回目は西側のピークを城址と誤認してしまい失敗。

2回目は細尾根上を2/3まで来たが余りのアップダウンの激しさと岩盤を通過する危険性に断念。
そしてザイル等の完全装備で3回目にようやく到達。
尾根上を行く訳であるが、歩く幅幅は1m程度しかない。
岩も露出しており、その周りを迂回しなければならない場合もある。
しかも両側は数十mの崖。

多くの場合、斜面に木があるのでまっさかさまに落ちることはないが、下側になにもない落差20mほどの岩場を通過するのは恐ろしい。
竜神ふるさと村からは1kmほどであるが、その半分の500m程度はこのような道である。

ただしこの距離は水平距離での500mである。竜神ふるさと村東の展望台の標高は416m。
本郭部の標高は380m程であるが、鞍部の一番低い場所は300m程であるので実際の歩く距離はこんなものではない。。
おまけに足場は岩石が風化した瓦礫、さらに落ち葉が積もっており非常に滑りやすい。
尾根の途中にピークが6つあり、その頂上は平坦になっている。おそらくここに物見台があったと思われる。

かんじんの本郭部であるが、途中の道とうって変わって予想外に平坦。
ここだけを見るとごく普通の山城の本郭である。岩も見られない。
内部は樫、椚等の広葉樹と杉等の雑木林である。
主郭部の平坦地は自然地形ではなく、人工的な感じがする。
周囲の絶壁に比べ、ここの違和感は大きすぎる。
本郭は分銅形をしており東西70m、南北20から40m程の広さがある。
やや南側と東側が高い。

東側5mに下に曲輪Vがあり、西側に堀切がある。
しかし、これは自然地形かもしれない。
曲輪Vは30mほどの長さであるが、東に向けて緩い勾配を持つ。
その先に一段盛り上がって曲輪Wがある。ここも結構平坦である。
ここから道が下っているが、途中で途切れてしまっている。
さらに東に向かうと岩場がある。ここが物見Dであるが、眼下に竜神大吊橋が見える素晴らしい光景がお目にかかれる場所である。
しかし、前面は絶壁である。
本郭の北側に2段になった曲輪Uがある。
この段差は人工のものである。北側の曲輪Uも本郭より5mほど低いが内部は平坦。
三角形をしており底辺、高さとも40m程度の広さである。土塁も堀もない。

 北側の曲輪の北端が高くなっており物見台Bとなっている。
 この物見台Bの南側を除く3方は目もくらむ絶壁である。
 一方。曲輪Uの北側は土塁状になっており、この土塁上を北東に行くと物見台Cとなる。
 ここは岩だらけであるが、東側の眺望が抜群である。
 本郭の西側にも物見台Aがあり、さらにその下にも西に突き出るような場所の先端に物見台がある。
 山上の平坦な本郭以外は全て絶壁である。 

この城は南北朝の騒乱において北朝方佐竹氏が金砂山城とともに拠点を置き、瓜連城の南朝方と激しい攻防戦を行った城として名高い。
 築城はそれ以前、鎌倉時代国井経義によると言われ、以後、国井氏は高倉を名乗ったという。
 南北朝期には南朝方の瓜連城に対抗すべく、佐竹義篤が防御の弱い常陸太田城からここに移り、金砂城と連携して1年近い歳月と多くの犠牲を払って勝利している。
 以後、この城の名前は歴史から消える。

 要害性については申し分ない。何しろ到達するだけで精一杯であり攻めるなんてもってのほかである。
ただし、本郭部は多くても二百名程度の兵しか収容できない。
井戸らしいものはあったが、おまけに水の確保が期待できそうにもない。
兵糧攻めにあったら終わりである。(もっとも包囲なんかできそうにもないが。)南北朝の合戦でも少なくとも2,3000以上の兵は駐屯させていたであろう。

 このため山上の曲輪は大将級の陣所であり、現在の竜神ふるさと村当たりあるいは大手道を東に下った尾根が一般兵士の駐屯地ではなかったかと思う。
 大手道を下った尾根筋には人工的な平坦地が何箇所かある。
また、竜神ふるさと村付近は三方が山、残る一方の南側が竜神峡という盆地状のかなり広い平坦地であり、水もある。
2、3000以上の兵を駐屯させるには適している。
ここはどことなく金砂山城の地形に良く似ている。

 この間を西側に延びる細尾根で連絡していたのではないかと思う。
 現在、通行は困難であるが、通行できない訳ではない。当時は尾根沿いに道は整備されていたものと思われる。
 廃城から700年近い年月が経ち、その間、尾根の岩石が風化し、その瓦礫で道が埋没してしまったのではないかと思う。
 なお、東側から登る道も東の低地側に見えた。このため本郭の東側に少し下ってみたが、道は途切れてしまった。

 竜神ふるさと村付近で何人かの現地の人に聞いた。城へ行く道はなくなっているという人もいた。
 木の枝払いをしていた老人は、城へは細尾根を通っていくしか道はないはず。
 自分も若いころ行ったことはあるが、今は誰も行かないといっていた。
 ちなみに自分の先祖は竜ヶ井城にやって来た侍だといっていた。
 城からの帰りにあった老婆は、自分はここに嫁いで60年になるが、一度も城に行ったことはないと言い、城に行ったと言ったら大変に驚いていた。
 しかし、何人かは城へは行っているようであり、さびたワイヤーロープがあったし、空き缶もあった。
 杭も打たれていた。(竜神大吊橋の工事に伴うものかもしれない。)

西から本郭に向う細尾根上の道。
まるで土橋である。両側は崖。
西から本郭に向う尾根南側の岩盤剥き出しの崖。
下まで数十m。
西から本郭に向う尾根のピーク。
6つあり西から3番目のもの。物見台兼用。
尾根のピークから北側の絶壁を見下ろす。
下まで優に50mはある。
南側、竜神大吊橋駐車場から見た本郭部。
右のピークがDの物見である。
西側の尾根から見た本郭部。 本郭内部。予想外に平坦で岩もない。 本郭北側の曲輪U。
本郭より数m低く内部は平坦である。
北側の曲輪U先端の物見台B。3方は絶壁。
白いものは雪。
本郭西側の物見台A。 物見台Aの下15m、西に延びた尾根があり、
その先端にも物見台がある。
物見台Dから見下ろした竜神大吊橋。
本郭と曲輪V間の堀切? 物見台Dの大岩間から見た吊橋。