国見要害と国見山連珠城砦群(常陸太田市瑞龍町、上大門町、常福地町)

常陸太田市中心部、市役所の北約4qに国見山(291m)36.5879、140.5239がある。
この山へは里山のハイキングコースが整備されお手軽にハイキングが楽しめる。
山の名前は「国見ず」から来ているといい、山入の乱で佐竹氏の混乱状態に陥り弱体化した時を突いて常陸に侵攻した奥州の葦名、田村、伊達、岩城等の連合軍が常陸太田城を直前で佐竹氏の軍に敗れ、この山に逃げ込んだが包囲され、帰国が叶わず、故郷を偲んで自害したという伝説による。
別名「追腹山」等と言う不気味な名前もある。

これがどこまで事実なのかは分からないが、延徳元年(1489)に侵攻が起き、深荻の戦いで佐竹勢を破り、常陸太田城に迫るが佐竹勢の反撃を受け、撃退されたというのは事実らしい。
その後、この伝説のようなことがあったのかは何とも言えないが、退路が里川沿いの谷しかなく、退路を断たれた場合、山に逃げ込むしかないので、敗残兵の一部がここに逃げ、脱出困難を悟り絶望して自害したことはあり得るかもしれない。

↑ 東側の春友地区から見た国見山山系。撮影場所からの比高は約250m。南北約1.3kmの尾根状の山である。

その国見山には2006年の秋に登った。
この山からは南方面が一望でき、なかなかの眺望だった。
見えないはずの鹿島コンビナートが浮き上がって映った屈折現象の写真を撮ったのもこの山だった。

2020年秋、国見山から直線で1.0q北の山付近に城郭遺構と思われるものがあるという情報があった。
また、国見山の直ぐ北側にも城郭があるとの情報もあった。

そのため、2021年1月6日にそこに行ってみた。
国見山とそこから十国トンネル方面、北に続く山系、低い山とは言え標高は300m程度の尾根状になっている。
麓から登るとなると比高は約250m、これはけっこうきつい。

そこで国見山から北に1.4qの所に国見林道が通っているので、そこまで車で行って高度を稼ぐセコイことを考える。
林道経由で高い場所まで行ければ、登りのエネルギー消費が節約でき、疲労も少ない。
後は精々アップダウン程度で済む。

林道は我が2シーターの4WD(何のことはない軽トラだが)の得意中の得意、その性能、能力を発揮する場である。
山系の北端に近い林道脇に車を止め、そこから国見山から延びる尾根を南下すると尾根上に堀切らしいものがある。
尾根をどんどん南下すると堀切らしいものや、ピーク上を平坦にした平場が次々出てくるが、それほどの規模とメリハリがあるものではない。中途半端なのである。

@南尾根の1本目の堀切、かなり埋没している。
A南尾根、山頂直下の堀切末端部。

そんなことをしているうちにどこかで見たことあるような場所に。
そう国見山まで来てしまったのだ。
実に14年振りである。
でも当時と違い木が成長したのか、眺望が悪い。(14年前は伐採が行われており、眺望がよかった。)

ここで振り返って思ったのだが、「国見山の直ぐ北側の城郭」に相当する場所には明確な城郭遺構はなかった。
それより、この国見山自体がどうやら城ではないか?

B山頂部、西側が盛り上がっているが、遺構かどうか? C山頂から北に下る尾根にある堀切。
D山頂北、鞍部を経た北のピークは山頂より5m高い。
 そこはかなり広い。
E最北端の堀切。かなり埋もれている。

山頂Bの南側尾根に堀切が2本@、A、山頂の北側に1本C、かなり埋没が進んでいるがちゃんと遺構が存在しているのだ。
14年前には全く気が付かなかった。
当時はそれほど城は見ていなかったので目が肥えていなかったということと、ここは城ではないという先入観があったためであろう。

結局、城としては南北に長い尾根を利用した全長約120mの規模に過ぎないものである。
実質、山頂部のみであり、南北の緩やかな尾根の途中を堀切で遮断したに過ぎないものである。

国見山の山頂部Dの北側は一度、比高で約5m下がって鞍部になり、その北側が再度、緩やかに登りになって行くが堀切はない。
尾根上は広くなり、平坦であり屈曲しながら北に続く。
結局、平場のみであり城郭遺構は確認できない。
この場所(36.5892、1405244)は標高は296mと国見山より若干高い。

北端に堀切Eを持つ平場のような場所があり、一気に約40m高度を下げ鞍部になる。
この北側のエリア全長は約100mである。
「国見要害」の範囲をどこまでかと考えると、山頂部付近約120mの遺構だけでなく、その北側のエリアも含むのではないかと推定する。
むしろ、北側のエリアが主体部であり、山頂部は北側エリアを守るためのものではないかと思われる。

さて、この城を誰が築いたか?
常陸に侵攻してきた奥州連合軍が常陸太田攻めの拠点として築いた可能性がある。
簡素な造りは陣城と言った感じである。しかし、陣城としては比高が約250m、これは高過ぎる感じがする。
土地勘の少ない敵地の深い山に陣取るものだろうか?また、攻略戦に敗れた奥州連合軍の敗残兵が造った可能性もあるが、敗残の兵にそんな余裕があるものだろうか?
比較的食料が確保されており、若干の期間、ここに立て籠もることができたなら、この程度の臨時築城は可能かもしれないが。

しかし、この仮説は国見山の北につながる山系の尾根上にある城郭遺構を考えればこの仮説は否定されよう。
先に「国見山の北につながる山系にある堀切らしいもの」と書いたが、国見山に城郭があったことにより、「らしいもの」ではなく、「本物」の城郭遺構と言えるであろう。
すなわち、国見山山系全体が1つの連続した城郭群ということになる。

山系全体に渡り城郭が築かれる例としては長野県上田市の村上氏による「太郎山連珠城砦群」や「三水山城砦群」があるが、ここも規模は小さいものの連珠城砦群と言えよう。
このため「国見山連珠城砦群」とする。(本来、国見要害も含まれるが、ここでの記述は別扱いにした。)
この山系にはいくつかのピークがあり、ピーク上が平場になり、所々に堀切があるが、全ての堀切は北からの接近を警戒するように構築されている。
すなわち、国見要害への接近を警戒するように構築されている。
おそらく山系の尾根上にはピーク間を結ぶように道が存在し、関所のように警戒ポイントがあった感じである。

このような連珠城砦群を土地勘もない奥州連合軍が臨時築城したとは思えない。
山を熟知した者でないと造れないだろう。
この侵攻事件のもっと以前あるいは以後に別の目的で整備したものだろう。

その目的とは?
国見要害はかなり比高の高い山にあるので、戦闘用というより、戦時の住民の避難城ではなかったかと思う。
西に下る尾根の末端が北大門城であるので、北大門城の詰めの城及び住民の避難場所として整備した可能性が想定されよう。
既に存在していたその城を奥州連合軍が利用した可能性はあろう。

この山、北側のエリアには結構な人数を収容できそうである。北に続く山系の城砦群は国見山への北からの接近を警戒・阻止する目的のものではなかったか。

もう1つは交通路確保のためが挙げられる。戦国時代、平時は平地を通る街道を使っていただろう。
しかし、平地の道は災害時に洪水等で遮断されやすい。また、戦時には山上からの奇襲も受けやすし、山を占拠されたらそれだけで通れなくなるというリスクもある。
このため、バイパスとして山上の尾根上を通る街道も存在し、併用していたと思われる。
山上の道は洪水等の災害で被害を受け遮断されるリスクは少ない、また、奇襲も受けにくいという利点がある。
その街道確保のための施設として連珠城砦群が造られた可能性がある。

国見山から北に続く山系には大きく分けて4つのピークがある。北からA、B、C、Dとする。
Aは国土地理院の地図に321mの標高表示のある山(36.5967、140.5256)である。国見山からは北約1qの距離にある。
BはAの南、標高302mの山(36.5940、140.5256)である。国見山からは北約800mの距離にある。
CはBの南、標高291mの山(36.5934、140.5251)である。国見山からは北約600mの距離にある。
DはCの南、標高271mの山(36.5917、140.5244)である。国見山からは北約400mの距離にある。


@A北端の堀切。
 右下まで重機が入り、右側の竪堀が半壊状態。
AAの鞍部、、南端に堀切Bがある。 B鞍部の南端にある堀切。
C標高321mの三角点のある場所がAの主郭。
 広く平坦になっている。ここから南に堀切はない。
DB北端の堀切 EBの主郭部は狭い。西側(左)が竪堀状になっている。
、Dの堀切は先端下部に位置する。
FCの頂上部は平場になっている。 GCの北東下にある窪みは天水溜か? HCの北下にある堀切。

←IDの山頂部、平場があるのみで堀切等は見られない。
Aは三角点がある場所が主郭であり、そこから北に延びる尾根上を約80mに渡り削平し広くした感じであり、最大幅は10mほどある。
北端部が堀切@になっており、物見のような曲輪がL形に約30m続き、鞍部Aを経て、その南端が堀切Bとなる。
一方、三角点Cの南は平坦地が約30m続き、先端が少し高い平場となり、高度で約20mを緩やかに下り標高303mの鞍部となる。
この鞍部に堀切があったような痕跡が見られる。

更に南標高310mのピークがある。
明らかに北側に厳重な造りである。

ここからさらに緩やかな下りとなり標高293mの鞍部となる。
その南がBである。北側に堀切Dがあり、ピーク部Eが長さ約20mの平坦な細尾根状で西側は崩落したような感じである。
この南側は尾根が下りになっているだけであり、堀切はない。
Bは北しか意識していない造りである。

鞍部を経て登りとなり、Cに至るが、ピークFの北側尾根に堀切Hが確認できる。
ピークの北東下に2段に渡り窪みGが見られる。
山のピーク部直下であるので井戸ではないと思われるが、これは何だろうか?
天水溜めか?
Cの南側はかなり急傾斜な斜面である。
この傾斜だと堀切も不要であろう。

Cのピークから一気に比高30m下ると鞍部になり、その先に平場があり、Dに至るが、Dは平坦な平場Iがあるだけで堀切等は確認できない。
Cから南に比高約20m下り、標高254mの鞍部を経て、今度は登りとなり、その先が国見山の北のピークとなる。

以上が4つの遺構の概要であるが、Dは繋ぎの場所といった感じであるが、A〜Cは北側にしか防御遺構がなく、明らかに北からの侵攻を阻止する目的の構造となっており、国見山(国見要害)に続く尾根上のルートを防衛することが目的ということが見て取れる。