常陸太田紀行

国見山(下大門町)

常陸太田市街地の北5qにある標高、292mの国見山。
右の写真は南側、里川にかかる機初(はたそめ)橋から見た国見山。

登頂ルートは4つほどある。ここには2006年の秋に登頂。
出発地点の標高が120mであるので比高170mを登る。
水平距離は500mほど。
山頂付近の尾根筋に出る直前の勾配が少しきついが、15分弱で山頂に到着。
大したことはない。
怖いのはむしろ下りである。落ち葉が積もっているので滑ってあぶない。

山頂は平場と標識があるだけ。 山頂から見た西に延びる尾根先の北大門城 南東の久慈川河口。海に面した左の岡が久慈城

追腹山ともいい、延徳元年(1489)この地方に攻め込んだ奥州連合軍が佐竹氏の反撃で退路を絶たれ、この山で壊滅したという伝説がある。
頂上は長さ30m、幅15mの平場であり、三角点とハイキング案内板があるのみ。
悲惨な伝説に係るものはない。

山頂部付近の尾根は幅10mほどの広さであり、南北に緩やかに傾斜している。
ここからの眺望が抜群、太平洋から筑波山、大子方面までのパノラマが楽しめる。
冬の朝には富士山も見えるそうである。

西の尾根末端にある南北大門城、南東の田渡城から久慈城までバッチリ見える。
もしかしたら城郭遺構があるのでは期待していたが、曲輪らしいものはなく、所々に多少広く、平坦な平場があるだけである。
しかし、山頂から少し下った南北の尾根筋の両側に自然地形なのかもしれないが、竪堀らしいものがあるのである。
堀切があったのかどうかは登山路となって埋まってしまったのかもしれない。
ここはやはり大門城の遠見番所なのか?

国見山から撮影した写真に写っていたもの、それは「蜃気楼のようなもの」を偶然に写したものでした。
添付の写真がそれであり、標高300mの国見山から、南方の大洗方向を撮影した写真の当該部を切り取り、コントラストを付けるため画像処理をしている。
海の手前が大洗海岸、この付近までは約40qである。
その向こうの海の上に鹿島コンビナートの工場群が写っている。
撮影場所から鹿島コンビナートまでの最短距離は地図上では直線で72qある。
ご承知のとおり地球は丸い。高い山から見える範囲は広がるが、それでも限りがある。
ちなみに海岸から地平線を見た場合は水平線までは約5qなのだそうである。高い場所ならもっと視野距離が広がる。
計算上は撮影場所の国見山からの視野距離は60qである。


コンビナートの煙突は100mほどなので煙突の頂上までなら70km離れて、ぎりぎり見ることができるという計算となる。
したがって、国見山からは、煙突の先が何とか見える可能性はごく僅かはあることになる。
しかし、写っているものは煙突の先だけではなく、煙突の根元も、また、周囲の建物も含めた全景なのである。
これは通常の状態ではありえないことである。
また、写真を解析すると煙突がやたら高く、さらに写っている範囲も広いのである。
14q先に写っている高さ60mの鉄塔の大きさと72Km離れた100mの煙突の高さを比較すると、全く合わない。
コンビナートの煙突の高さは、計算上の2倍程度の高さに写っているのである。

したがって、写っているものは約2倍に拡大され、上方に浮かび上がっている像であることになる。
普通、このようなものを「蜃気楼」というように思った。
管理人も蜃気楼だと思っており、職場の同僚もそう思っていた。
しかし、専門家の見解では、蜃気楼は像がゆがむのだそうである。(高さが異なる煙突や建物の高さが一定にそろうなど。)
ここに、写っているのは、実際の風景を拡大しただけの状態である。だから普通の定義でいう蜃気楼ではないそうである。
ただし、特異なケースの可能性があるとのことで現在、専門家間のメーリングリストで検討をしてもらっている。
結論を出すのは早計であるが、「通常なら見えないが、撮影場所から鹿島までの間に鹿島灘があり、海上の適度の湿気を含んだ空気がレンズの働きをして海の上に拡大された像ができた」らしいと思われる。
なお、水戸地方気象台に聞いたが、担当者の知る限りでは、ここ茨城で蜃気楼が見られたという話は聞いたことはないといっていた。
撮影日時は2006年11月12日 15:10 天気 晴れ、気温13℃。湿度39%、北北西の風3mという気象条件。(水戸気象台の値)撮影時のシャター速度は1/500、絞りはF4.0。

薩都神社 (里野宮町)
茨城県常陸太田市里野宮町にある延喜式内社であり、久慈郡二ノ宮に位置づけられている長い歴史を持つ神社である。
ちなみに一之宮は鹿島神宮である。鹿島神宮の次に位置つけられることからその地位の高さは理解できるだろう。

神社のある場所は、常陸太田駅から国道349号線を里美、棚倉方面に向かい約4q。
佐竹氏重臣小野崎氏のネーミングの元になった小野崎城を中心とした瑞竜城塞群のある瑞竜台地の北東の台地下の水田地帯の中の集落中にある。
それほど大きな神社ではないが、やはり歴史の重みを感じる境内である。


御岩山山頂の巨岩、これらの巨岩が御神体。
縄文時代からの信仰の対象である。
岩付近からは縄文土器片も見つかる。
薩都神社、一見、どこにでもある村のお宮にしか見えない。

神社境内は氏子によりきれいに清掃されており、非常に気持ちがいい空間である。

この神社は、里川沿岸の佐都郷の総鎮守とされている。
付近の延喜式内社としては、この神社の他に長幡部神社と天志良神社が近くにある。
両神社とも城館の地あったようであるが、この神社は立地上からも城館とは関係はない。

ここはかつては里川の流れの中の中州、川中島だったという。
周囲の水田が流れの跡という。
その川中島が祭祀の場所だったという。
元々、祭祀を行う場所であり、そこには社等も何もなかったという。

←の写真がその場所、名前を「小中島」という。元宮ともいう。
社殿の東側に位置する。

現在は水田地帯に面した微高地である。
水田がかつての里川が流れていた跡である。
ここで、御岩山方面(撮影している方向)に向けて祭祀が行われたのであろう。

近隣の長幡部神社、静神社、泉神社同様、「常陸国風土記」にも登場するほどの歴史があり、祭神は立速日男命(速経和気命)とされる。
「常陸国風土記」には次のように書かれる。(現代訳)

「立速男命は、最初、天より松澤(今の神社の地の南、松崎周辺らしい)の松の樹に下ったが、人里に近く穢れがあり、祟りがあった。
このため、朝廷は片岡大連を派遣し、祈請して、賀毘禮の高峯(御岩山のことらしい。神峯山という説があるが違うであろう。なお「がび」はアイヌ語で「崖」の意味といい、巨岩が林立する御岩山がふさわしいであろう。)に遷座したという。
延暦7年(788)に創祀され、延暦19年(800)に賀毘禮の高峯に遷座。
大同元年(806)、小中島へ、(さらに大永2年(1522)、現在の少し東の地へ)遷したという。」

薩都神社の拝殿 拝殿内部
片岡大連は「常陸国風土記」の編者関係者らしく、この記述はどうやら捏造の可能性があるらしい。

本当は現在の薩都神社が里宮であり、その奥宮が現在の御岩神社であり、御岩神社は江戸時代、水戸徳川家が独立した神社として創設したという。
おそらく、ご神体の岩を切り離すことで、薩都神社の威光を落とすことを狙った措置であろう。

そのせいであろうか、神社はどこにでもある里の神社と言った感じになってしまっている。
しかし、良く見て見ると、普通の神社に比べて本殿はかなり大きく精巧な造りであり、並みの神社ではないことが分かる。

神社の名前、「薩都」(さと)は「殺」との意味であり、先住民族(縄文の民の末裔である蝦夷)の反乱成敗のため、大和朝廷が派遣した氏族の神ではなかったかとも言われる。

しかし、御岩山からは縄文時代の遺物が発見されており、その諸元は縄文信仰に起源があるらしい。
縄文信仰まで遡る神社としては、諏訪大社、出雲大社があり、関東では日光二荒山神社が知られているが、この御岩神社もそれに含まれる。

その後、この地に来た氏族のうちのある氏族がその信仰を受け継いだと思われる。
その証拠に御岩山付近からは古墳時代の土師器が奉納された形で発見されている。
それらを奉納したのは当時のこの地の支配者であろう。
この辺の話になると伝説の世界である。
本殿、比較的大きく、彫刻も精巧である。

時代が中世になると薩都神社は小野崎氏の氏神となり、現在も小野崎氏系の家が宮司を務める。
小野崎氏の居城、小野崎城から薩都神社を見ると、その先に御岩山が見れ、3者は一直線に並ぶという。
さらに常陸太田城もこの延長線上に位置する。
(小野崎氏こそが、大和朝廷が派遣した氏族の末裔かあるいは紡績技術者集団、長機部の末裔ではないのかと思うが?)


神社の東には里川を挟んで、根本館がある。(赤い屋根の上の林)小野崎氏一族根本氏の館である。
その右手、南側には小野崎氏一族内桶氏の田渡城がある。
神社の周囲は小野崎氏一族の城館が林立し、この地が小野崎氏の本土であったことが分かる。

↑ 小中島から見た北東の御岩山方面。正面の岡が茅根城。小野崎氏一族茅根氏の城である。

なお、あのデビ婦人の先祖のルーツがこの根本館だそうだ。

小野崎氏が櫛形城に移った後は佐竹氏が管理し、正平年間、佐竹義信が本殿を修造し、永正以降は、佐都郷三十三ケ村の総鎮守となった。
大永2年、佐竹義舜が今の地に遷したという。

江戸時代には、佐竹氏の秋田移封後、水戸徳川家の弾圧を受け、存亡の危機に瀕したが、徳川家光により50石を与えられ危機を乗り越え存続した。
江戸初期、佐竹の影を消すため、佐竹系多くの寺社が水戸徳川家により潰されたり、由緒を改変されたりする文化破壊が盛んに行われたが、さすがにここは「常陸国風土記」にまで記載され佐竹氏に係る古社、潰すのは躊躇したようである。
そのため、御岩神社を分離することで、佐竹氏に大きく係った薩都神社の地位の低下を画策したのではないかと思われる。
ただし、同じ「常陸国風土記」に登場する「長幡部神社」は取り潰され、名前を変えさせられてしまっている。(明治になって復活)
その首謀者がこの地にある西山荘に本拠を置いた水戸黄門こと徳川光圀であり、この地の住民にとっては彼こそがISであり、タリバンと言ったところであろうか。

那珂通辰の墓(増井町)
那珂通辰といってもほとんど無名の人物。
それもそのはず、彼はここ常陸北部でしか活躍しておらず、この付近にしか知られていない人物である。

彼が活躍したのは南北朝時代。
彼は南朝方の主力として北朝方の佐竹氏と戦い、そして敗れて戦死する。

南朝に付いたのはおそらく後醍醐天皇を崇拝していた訳ではなく、佐竹氏の勢力拡大で脅威を抱き、南北朝の騒乱をチャンスに佐竹氏を倒し、佐竹氏に圧倒されつつあった那珂一族の復興をかけたのであろう。

彼が始めに登場するのは北畠顕家の南下を佐竹氏が迎え撃った「甕の原の合戦」(日立市の大甕駅北部一帯)で佐竹軍を背後から襲い破った戦いである。

次いで瓜連城が南朝方の拠点となると、これに参加。金砂山城、武生城の佐竹軍と激闘する。
彼は単独で金砂山城の攻撃に向かうが、その間に瓜連城が落城し、進退窮まり、常陸太田市増井町で自害したとも敗死したともいう。

その墓が増井町にある。
しかし、ここは常陸太田城のわずか北2kmである。

彼の本拠はもっと西の常陸大宮の旧緒川であり、反対方向である。
敗れたら本拠に向かうはずであるが反対方向に向かってきている。
もしかしたら彼が攻撃しようとしたのは常陸太田城ではなかったのか?
彼の手勢では源頼朝でさえ武力攻撃では落とせなかった金砂山城を攻撃することは不可能である。
自殺攻撃に等しい。

ともかく那珂一族はここで壊滅する。
しかし、生き残った子供は北朝に鞍替えし、見事に復活する。これが水戸城の江戸氏である。
この江戸氏は戦国末期、再び佐竹氏に駆逐されてしまうが・・。

墓は南向きのいい場所である。
子孫によりよく整備されている。
南の常陸太田城を睨みつけているようでもある。
墓のすぐ南200mに何と佐竹一族の墓がある。

彼を破った佐竹義篤の墓もここらしい。
こんな至近距離に宿敵同士が眠っているのである。
当時は死んでしまえば、敵という感情はなかったのであろう。
この宿敵の墓は、佐竹氏が菩提寺の正宗寺に依頼してケアしていたそうである。
祟りを恐れかつての敵を弔っていたらしい。
信長や家康だったら墓まで破壊するだろうが。

助さんの墓(増井町)
「佐々介三郎宗淳」といっても誰だか分かる人は,よほど歴史に詳しい人でしょう。

でも実は彼はほとんどの人が知っている人物です。
そうです、彼はTVドラマ「水戸黄門」で知られる「助(介)さん」のことなのです。

彼の墓が常陸太田市増井町の「正宗寺」にある。
那珂通辰の墓の200mほど南に位置に墓がある。
彼は本名を「佐々介三郎宗淳(さっさすけさぶろうむねきよ)」あだ名を「子朴(しぼく)」、通称「介三郎」といった。
この姓で分かるが、彼はあの「佐々成政」の一族である。

彼ははじめ僧だったという。15歳で出家し,京都妙心寺の僧となり祖淳と名乗っていた。
僧の経歴は約20年、その後還俗して延宝2年(1674)から徳川光圀に仕えたという。

「進物番兼史館」勤務となり、黄門さんの指示を受け、大日本史編纂のための史料収集に従事、日本全国を周り文書記録の収集にあたる。

那須国造碑の解読の一環で行った栃木県大田原市にある侍塚古墳の発掘(実際は時代が違いすぎて両者の関連はなかった訳であるが、江戸時代にそんなこと分かる訳がない。)も彼が調査責任者である。
彼はちゃんと記録を残し、出土品も埋め戻している。
記録に残る日本の考古学者第1号こそは彼なのである。

TVドラマ「水戸黄門」の全国行脚も、助さんの全国行脚がベースになって創作されたのは間違いないと言われている。
「黄門さま」は実際、江戸と常陸以外には上方に行ったことがある位のはずである。

助さんは、元禄9年(1696)彰考館総裁を辞めて、小姓頭として西山荘の黄門さまに11年間使え、元禄12年(1699)59歳でこの世を去った。
墓碑の選文はあの「格さん」こと「安積澹泊(あさか たんぱく)」によるものという。
(なお、「格さん」の墓は,水戸市常盤共有墓地にある。
彼は朱瞬水の弟子となり儒学を学んだ生粋の学者であり、徳川光圀に仕え、助さんよりずっと長生きし、82歳で没するまで後進を指導したという。)
田園風景のきれいな景色ののどかな田舎で眠っているのである。

正宗寺と佐竹一族の墓 (増井町)
那珂通辰や佐竹一族、助さんの墓を管理していた臨済宗の寺、「しょうじゅうじ」と読む。
通辰の墓の300mほど南に本堂がある。
常陸太田市から水府方面に向って約2q、市立誉田小学校の西下、常陸太田市増井町にある。

佐竹氏九代当主、貞義の子、月山和尚が暦応4年(1341)に建て、佐竹氏の菩提寺として栄えた。
常陸臨済宗の拠点であり、関東十刹の一つ。
十一面観音像は県の指定文化財になっている。
本堂は再建した新しい建物であるが、下左の写真の山門は室町時代のものだそうである。

下右の写真の佐竹義重以前の佐竹一族の墓が、この寺にあるが、残念ながら、どれが誰の墓かは分からなくなってしまっている。
常陸の戦国史に燦然と輝く、佐竹義舜や義昭などの有名人物もここに眠っているはずである。
(佐竹氏は、秋田には位牌だけ持って行ったらしい。)
佐竹氏時代は西に勝楽寺(慶長年間に焼失して廃寺)があり、ここを西寺領。
正宗寺を東寺領と言っていた寺院地帯だったという。(現在も小字として残る。)

室町時代建設の山門 佐竹一族の墓

江戸時代になっても、佐竹遺臣に反乱を起こされることを懸念して、水戸徳川家も佐竹氏ゆかりのこの寺を粗末に扱うことはできず、朱印百石を与えて保護していた。
このため、十数の末寺を持つ勢力を有したという。

本尊の十一面観世音像をはじめ、夢窓疎石書状、足利直義御教書、足利尊氏御教書、足利氏満御教書などの県指定文化財となっている佐竹氏関係の古文書が多く所蔵されている。
正宗寺の山門近くには樹齢600年という柏の古木があるが、この木は寺の創建時のころ植えられたものらしい。
 


白馬寺(天神林町)

国道293号、西山荘西側の山の上に位置する大平の交差点を南側の常陸太田市斎場方向に入り、斎場を過ぎ、道をそのまま南進。
その広い道の終点、馬坂の台地との間の谷津部にこの白馬寺がある。
文和年間(1352 〜 1356)に源如庵和尚が中国河南省洛陽の白馬寺で仏教を学び、那珂郡山方村(現在の常陸大宮市山方町)に太平山常楽寺(真言宗)を創建したことが、この寺の始まりであるが、その後衰退してしまったという。

これを見た佐竹義昭が、戦国時代の天文2年(1531)、幻室伊蓮禅師を招き再興し、白馬院常案寺(曹洞宗)と名づけた。
文禄年間(1592〜1596)に山方村から東茨城郡石塚村に移転。
さらに元禄9年(1696)に徳川光圀の命によって現在地に移転したという。
明和6年(1769)の火災で記録などを焼失した。現在の本堂は安永2年(1773)に再建された。
地図を見ると谷津の中にあり、鬱蒼とした森の中にあるのかと思っていたが、非常に日当たりの良い明るい雰囲気の寺であった。
土壇のようになった1段高い場所に寺があり、何となく城郭のような感じである。
南に向かう細い道を行けば、馬坂城がある天神林の台地である。

勝楽寺跡(増井町)
那珂通辰が自害したあるいは戦死した寺であるが、慶長年間、火災ですべての建物を焼失し、おりしも佐竹氏の秋田移封もあり、再建されることなく廃寺となったという。
「増井寺」ともいう。

創建は延長元年(923)平将門の父、良将というから、佐竹氏がこの地に土着する前の時代である。
本当のことかどうかは分からない。はじめは、律宗の寺であったが、密教、ついで臨済宗となる。

伊賀氏、南北朝期までは二階堂氏、それ以後は佐竹氏の庇護の下、発展をとげたが、現在は土塁が残り、段が認められる程度である。

この土塁は高さ4mほどあり、50mの長さがある。
城の土塁といってもおかしくないくらいの規模である
。那珂通辰の墓は一番奥まった場所にあったようである。
墓のすぐ南にあったのは、勝楽寺の末寺(脇寺)の勝福寺であり、勝楽寺はさらにこの南側であったという。

竜神峡
茨城県北部、現在は常陸太田市になっているが、旧水府村天下野地区にある渓谷。
ここには、昭和53年(1978)に完成した竜神ダムにより山田川の支流、竜神川をせき止め竜神湖という人造湖ができている。
この竜神ダムの上に竜神大吊橋がかけられている。
平成6年(1994)に完成、橋の長さは375mあり、歩行者専用の橋としては本州一の長さとのこと。
(かつては日本1だったが、近年、九州のどこかの橋に抜かれた。)

耐荷重は3500人もの人が渡っても大丈夫なように設定され、横風にも強いトラスト補剛型式、ケーブルはパラレルワイヤーケーブルを採用した工法を採用している。
橋の標高は260m、(山田川の標高は110m)湖面からの高さは100mあり、じかに湖面を覗き込むと恐ろしい。

この谷はV字の鋭い渓谷であり、新緑シーズン、紅葉シーズン、四季おりおりの風景とパノラマが素晴らしい。
しかし、この橋、渡った先が行き止まりなのである。
(ダム方面に降りれるが、戻って来るのが大変である。)だいたいは戻って来るしかない。
したがって、ちっとも面白くない。
わたった先に何かあれば良いのであるが、岩がそそり立ち、そんなものを造るスペースはない。

この橋、旧水府村が観光、村の過疎歯止めの起死回生策として30億円(うち1億円は「ふるさと創生基金」)の金をかけて造った。
できた直後は、もの珍しさで大勢の観光客が来たが、ウリが「風景」のみであり、リピーターを呼べそうにない。
次第にジリ貧となり、観光客は減少、とても資金は回収しきれていない。

そば祭りなどのイベントを企画し、リピーター獲得に努めているが効果はあるのだろうか。
税金の無駄使いとして批判の的にもされている。
ところで、この橋を渡った先の標高340mの岩山のてっぺん。
これが城なのである。
南北朝時代の武生(たきゅう)城である。
ほとんど自然地形であるが、頂上は意外と平坦でちゃんと曲輪もある。
色々、批判のあるこの橋であるが、奥久慈県立自然公園に含まれるだけあって、風景は文句なく絶景。素晴らしい。
また、この付近の蕎麦はどこも大変に美味い。この風景と蕎麦は、お勧めである。

瑞龍山(瑞竜町)

水戸徳川家累代の墓所。
国見山の東山麓、小野崎城のある瑞竜台地からは谷津を隔てて北側の台地にある。
ここに水戸徳川家の墓所を定めたのは、2代藩主徳川光圀という。
父頼房の遺言に基づくものといい、寛文元年(1661)のことである。


その水戸黄門こと光圀や徳川斉昭など、歴史上有名な人物をはじめとする歴代水戸藩主夫妻の墓がここにある。
墓は一族を中心に80ほどあるという。

なぜ、水戸徳川家の墓所がここなのかということが非常に疑問なのであるが、1つは風水から来ていることもあるらしい。
しかし、最大の理由はこの地方が旧領主佐竹氏の帰農した家臣が多くおり、反乱の火薬庫でもあったことがあるらしい。
このため、ここに水戸徳川家が楔を打ち込む目的で墓所を置いたらしい。
水戸黄門の隠居所、西山荘もこの地であり、同様の理由があったらしい。
全ては佐竹の亡霊を封じ込めるためではないかと思う。

水戸黄門は西山荘からよく出歩いていたらしく、どこどこの寺で○○を食べ、いたく気に入ったなどの話が残っている。
全国を回った漫遊記はフィクションであるが、この付近を歩き回ったのは事実のようである。
佐竹の反乱の種を摘むことが真の目的だったのではないだろうか?

この瑞竜山の墓所、かつては管理人がおり、入ったことがあるが、結構、じめじめした感じの場所であったが、さすが格調が高い雰囲気があった。
やはり、水戸黄門や徳川斉昭の墓は印象に残っている。
今は管理人もいなく、残念ながら入ることはできない。