小屋場要害(常陸太田市西河内中町)
「小屋場」というのは城郭地名である。
なぜかこの山中にその名前が付いた地名がある。
その地名を頼りに探訪した結果、確認された城館である。
場所は十国峠の南東約1.3㎞、十国トンネルの北約1.4㎞にある。
標高300mの山(36.6157、140.5210)である。この付近は標高300m程度の山がかなり複雑に入り組んでいる地形である。
館には十国峠から十国トンネル方面に国見林道が延びているので、この林道を使えば、館の横まで行くことができる。
ただし、林道である。
普通車で行けないことはないが、保障できない。
できれば4WDのオフロード車が望ましい。
林道の途中に重機で均したような場所があり、その北側が城址であるが、東側も重機が入り込み、山の斜面が抉られている。
それでも館の主要部は損傷は受けていない。
館自体は意外に大きい。3つの曲輪からなり、2重堀切を持つ。T型をしており、東西約200m、南北約150mの規模を持つ。
こんな規模の城が未確認であったのは深い山中にあったからである。
①北側の曲輪Ⅰの先端部、ここからは北東方向が見える。 | ②曲輪Ⅰの南端部、この下が③の二重堀切であるが切岸の 勾配は緩い。 |
③曲輪Ⅰ、Ⅱ間を隔てる二重堀切。 |
④曲輪Ⅱ上には土壇が2つあり、1つには石仏が置かれる。 | ⑤曲輪Ⅱ西端の堀切であるが、古道が通っていたような? | ⑥城址西側の山頂、広いが城郭遺構はない。 |
主郭である曲輪Ⅰ①、②は約60m×10mと南北に長く、北に下る尾根にも曲輪が見られる。
この曲輪の南側に2重堀切③がある。
主郭側の切岸は勾配が緩いため2重堀切にした感じである。
主郭の南西側が二郭、曲輪Ⅱであるが、自然地形の山の頂上部を削平したのみであり、土壇④が2つあり、1つには石仏が安置される。
標高は292m、主郭より8m低い。西側に堀切⑤がある。
その西側に平坦地があり、その西側は高くなっていくが、ここには堀切はない。
西側に標高302mの山があるが、その頂上部⑥は広く、緩斜面が北と西に続くがこちらに城郭遺構はない。
本郭から東に延びる尾根に曲輪Ⅲである。東尾根曲輪群とでもいうべきであろうか?
比高約40m、延長約120mにわたり、堀切⑧や平場⑦、⑩、⑫を展開させる。
特徴は北東下西河内方面から登る古道を曲輪内を通している⑨ことである。
古道は⑪の堀切兼切通を通過させ、曲輪Ⅲの南側を遠し、最終的には曲輪Ⅱに通じていたと思われるが、一部が作業道建設により削られている。
⑦曲輪Ⅲの中心の曲輪は主郭から東に下った場所。 | ⑧⑦の曲輪下には堀切がある。 | ⑨曲輪Ⅲが展開する南下を古道が通じる。 |
⑩古道が城内に入る場所を監視す平場る | ⑪この堀切兼切通で古道が城内に入る。左上が⑩である。 | ⑫東端の平場、東方面の監視場である。 |
城は麓からはかなり奥まった場所にある。
この山にはおそらく現在の国見林道に沿って中世の道が存在し、国見山方面と十国峠方面を結んでいたと思われる。
そして、この山上の道に麓から登る道がいくつか合流していたようである。
この館の構造から北東側の西河内の谷方面を監視しているのが見て取れ、山上の道の中継点であるとともに北東の西河内地区から登る道を管理している関所城と言えるだろう。
この城がいつ頃築城され、誰が運用していたかは不明であるが、この山系は北大門城の後背地にあたる。
このため、北大門城の助川氏が山上の道とともに運用管理していたのではないかと推定する。