北大門城(常陸太田市上大門町)

常陸太田城から北に8km、水府方面に向かう県道33号線が分岐し十国峠に向かう途中、国見山(標高291m)から西に延びる尾根末端にある山城。
 本郭付近の標高は170m、比高は80mほどである。
 山入の乱で名を残す城ではあるが、肝心の山入城(国安城)は直線で西に2kmという至近距離である。

佐竹家臣小野崎一族の助川氏が居城としていたため、現地の人は「助川城」と呼ぶ。
 麓の集落名を堀の内といい、ここに平時の居館があったといわれる。城へは民家の敷地を通って行かねばならない。
 城は山頂の本郭から西側にかけて階郭式に曲輪を巡らせた古い形式である。
 曲輪は結構な広さがある。山頂の本郭Tは内部が雑木林であり、東側に土壇がある。
 2段構成であり、1段目は20m×30mほどの広さを持ち、1m下に腰曲輪のような幅15mの曲輪がある。
 本郭の東側には本郭からの深さ9.5mもある堀切@がある。この部分は国安(山入城)の本郭北側とそっくりである。
 この堀切は箱堀状であり、堀底の幅は5m、土橋がある。南側は曲輪があり、北側は山を下る道になっている。
 この東が曲輪Zである。堀切@は曲輪Zからは深さ3mである。
長さ40m、幅12mほどの細長い曲輪である。
 東端に土塁があり、深さ4mの堀切Aとなる。堀切Aの北側に曲輪があり、堅土塁が延びる。
 その東が曲輪[であるが、この曲輪は徐々に上りとなり、30m先に物見台のような長さ23m、幅11mの平坦地がある。
 この平坦地を過ぎると尾根は一度下りとなり、そのまま国見山に続いていく。ここが城域の東端である。
 一方、本郭の南西側には馬出のような曲輪Uがある。
 本郭からは2mほど低いだけである。その北、4m下に曲輪Vがある。この曲輪は南北60m、最大幅17mもある。
 その北側から西側を取り巻くように下5mに曲輪Wがある。幅は17m位あり、周囲にさらに曲輪が展開する。
 曲輪Yは曲輪Wの腰曲輪であり、高度差は2m程度に過ぎない。張出は21mである。
堀の内の集落から見た城址。 本郭東端の土塁。 堀切A
堀切@箱堀のようになっており、堀底は
曲輪であったらしい。
堀切B 曲輪\.

曲輪Wの南に曲輪Xがある。南北70m、幅15mほどの細長い曲輪である。曲輪Uからは9mほど低い。
 南端部近くに堀切Bがあるが、曲輪Xより高い位置にあり、余り意味をなさないようにも思える。
 曲輪Wと曲輪Xの間が一段低くなっている。ここが大手口であったと思われ、門があったのであろう。
 ここからは道はS字を描いて下りとなるが、これが大手道であろう。
 所々に平坦地があり、これらも曲輪であろう。かなり下ると南側に曲輪\がある。20m四方の平坦地である。
 古い形式の城ではあるが、本郭まで行くには曲輪を巻くように道が蛇行している。
 切岸は総じて高く、急勾配であり、本郭までの道は常に塁上からの攻撃に晒されることになり、結構工夫されている。
 切岸も鋭く直攀は無理である。鋭く高い切岸を堀の代用にするような城である。
 曲輪も広いためかなりの人員を収容できる。


築城は小野崎氏系統の助川氏という。
助川氏ははじめ山入氏に組していたが、佐竹宗家側に鞍替えし、佐竹義治を4年間保護したほか、山入の乱で常陸太田城を追われた佐竹義舜を常陸太田城奪回までの2年間この城で保護したという。
 しかし、常陸太田城までは約5q、山入氏の本拠、国安城までは直線で2qに過ぎない距離である。
 古式ではあり、それなりの堅固性はあるが、ここに常時、多数の兵がいたとも思われない。
 山入氏にとっては奇襲攻撃や夜襲で容易に暗殺することもできそうであるが?

この城の曲輪はどこも冬の北風をまともに受け、居住には最悪である。
 かろうじて曲輪\が風も防げ日当たりも良く、居住性がある程度である。
 北大門城自体は、曲輪の広さからして、500人は軽く収容可能である。
 緊急時に部下の家族や領民も立てこもるための城であり、平時は曲輪\か西側の「堀の内」の集落にあった居館に住んでいたのであろう。
 佐竹義瞬も堀の内の集落に通常は住んでいたのであろう。
 国見山に続く尾根からの攻撃にも配慮されているが、この方面は万が一時の逃走路でもあったはずである。
 堀の内の集落から南の尾根に南大門城が直ぐそこに見える。
 やはり南大門城は堀の内にあった居館を守る北大門城の出城と捉えるのが妥当であろう。


南大門城(下大門町) 

北大門城の一つ南の尾根にある。
 といっても堀の内の集落を両側から挟むように立地しており、両城間は直線で400m程度に過ぎない。
 一族である北大門城の助川氏と南大門城の根本氏は山入方と佐竹宗家方に分かれて対立し、南大門城の根本氏が滅ぼされたというが、こんな至近距離で抗争が起こりえるものだろうか?
 その後、この城は北大門城の助川氏のものとなり支城になったという。
確かに城に行ってみると単独で立地するような規模の城ではない。

城内は北大門城から丸見えである。北大門城の出城であることが最も納得できる。
 堀の内の館を両側の山から守る根小屋形式の城郭群の一翼の城であったのであろう。
 城は標高120m、比高40m程度の尾根末端にある。西側の斜面の傾斜はそれほどきつくなく、先端部南の墓地裏から簡単に城まで行ける。
 途中は結構やぶ化しているが、この道が大手道であったらしく、そのまま虎口をとおり、本郭内に入れる。
 この程度の山の傾斜なら、斜面の途中に堀等があっても良いと思われるが、ない。城郭遺構は山上のみである。
 しかし、山上に位置する本郭は急斜面となる東側を除いた3方に横堀を巡らす比較的先進的なものである。遺構は完存している。

横堀を持つ山城は付近では田渡城と久米南城程度であるが、両城は主郭側が堀に対してかなり高い位置にあるのに対し、この城の横堀は本郭側と堀の外側のレベル差がほとんどない。
 申し訳程度の堀である。幅7mほど深さは1.5m程度に過ぎない。
 郭は東西30m、南北50mほどの長方形であり、東端の土塁が高く、中央部がやや高くなっている。
ここに庚申塔が建っている。郭内は雑木林であるが余りやぶ化はしていない。
 ここで伐採作業をしていた老人は、ここは自分の子供時代のかっこうの遊び場で、今は行われていないが、祭りが盛大に行われていたと言う。
 本郭内部の南東部がえぐれた用になっているが、郭内の排水用のものに見える。
 東側の山地に続く尾根沿いの北側に30m×15mの曲輪があるが、内部はただの平坦地である。
 ここに通じる虎口と土橋がある。この曲輪の東端は堀切ではなく、高さ2mの切岸になっている。
 本郭の南側にもある程度の平坦地があり、ここも曲輪とは思うが、基本的には単郭の城というべきだろう。
  
南側から見た城址 北側の堀と曲輪2(右)への土橋。 本郭南側の堀と土塁。

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