常陸太田城発掘調査現地説明会2020年11月1日

本郭の北に位置する三郭で常陸太田城の発掘調査が行われ、現地説明会が行われた。
江戸時代、常陸太田城は本郭部のみを水戸藩の支所、陣屋として使ったが、それ以外は江戸時代初期に全て破壊したようである。

家臣の屋敷を置くために不要な堀を埋めるのは分かるが、畑になったというので、破壊が主目的であろう。
このような巨大城郭が不要であったこともあるが、水戸徳川氏が前支配者である佐竹氏の痕跡を消す目的もあったのであろう。
発掘して分かったが、これだけの堀を埋めるのは凄い土砂が必要であり、土木作業量である。
その作業を人力で行ったので、その破壊の執念もたいしたものである。
多分、主犯は水戸光圀だろう。

その跡地、明治初期までは畑であり、明治中頃、ここに専売公社のたばこ工場が置かれた。
その工場も廃止となり、建物は撤去され更地状態であったが、敷地はJTから市に寄贈された。
市はこの土地を住宅化しようとした。少子化を考慮した若い世代向けの住宅地を造ろうとしたようである。
←発掘範囲、下側が本郭。
しかし、その場所は城跡である。
住宅地を造るため、まず、工場跡地周囲の狭かった道路の拡張をすることになり、2019年、道路拡張部分について、文化財調査として発掘が行われた。
その結果、出てきたのは巨大な堀だった。
幻の城がその姿の一部を現したのである。

堀の存在は過去の試掘や地籍図からある程度予想されていた。
地籍境が道などとなって堀跡であることが想定されていたという。

巨大な堀が出てきた結果、調査範囲を工場跡地全体に広げ、2020年に追加の発掘調査が始まった。
その結果、深さ7mくらいある巨大な薬研堀が全長200m以上にわたり姿を現した。
この堀は鍵状にクランクし台地縁部まで延びていたようである。
クランクはしているが、直線部が微妙にカーブしているのも不思議である。
さらにこの堀に接続する曲輪内部を区画する小さな堀も出てきた。
三郭と言っていたが、実際は2つの曲輪だった。さらにその曲輪内部が小さな堀で区画されていたようである。
おそらく、何人かの有力家臣の屋敷等があったのであろう。
小さな堀は排水路も兼ねていたようである。

@南北に走る深さ約7mの薬研堀。微妙にカーブしている。
下が砂礫層であり、水は貯まらない。当時も空堀であったと思われる。
A @の堀は北側で直角に西に曲がり、再度、北に折れる。

堀は水堀ではなく空堀であった。
幅は比較的狭く、深い薬研堀である。堀の勾配は急、地質はロームなので、一度、落ちたら滑って登ることはできない。
関東の戦国仕様のものである。
このような感じの堀は山城や戦闘を意識した城に良く見られる。
戦国大名の城ならもっと幅の広い箱堀が出てくるのでは、と思ったが意外であった。

B @から続く堀はクランクしてまた北に延びる。
この先、再度、西側に折れ、西側の台地下に下る。
C 大きな堀には小さな堀が接続する。小さな堀は郭内を区画していた
ものと思われる。

おそらく、余り堀幅を広げると、曲輪の広さを狭めることになるのでこのような堀にしたのであろう。
台地平坦部の有効利用のためである。
堀に面して土塁があったかは分からない。
あったとしたら本郭側だけだろう。

土塁も曲輪の広さを狭めるので塀で仕切っていただけかもしれない。
こんな堀が台地全体、広範囲に縦横無尽に張り巡らされていたのだろう。
やはり、常陸太田城は巨大戦国大名の本拠にふさわしい巨城だったのだ。

D2019年の発掘で検出された西側の堀。 E Bの堀、北端で東から延びる小さな区画堀が合流する。

@の堀の堀底は砂質であり、雨水はしみ込んでしまうようで、現在も雨が降っても堀底には水は溜まっていない。

遺物は縄文、弥生、古墳時代、奈良平安時代の土器なども検出されているが、当然、戦国時代の土師器や陶器も検出されている。

宝筐院塔の頭部↓も出ているが、かつてはこの付近には寺があり、寺を移転させて城域にしたとのことである。
土師器等の遺物には寺があった当時のものも含まれており、必ずしも堀が掘られた時期、城が機能していた時期のものと特定できるものではないようである。

今回、発掘された部分は拡張されたエリアということになるが、寺を撤去させて拡張したのではなく、城全体が今の場所に移転し、全て新築されたのかもしれない。
その工事が行われた時期としては、佐竹氏の勢力拡大が始まった山入の乱(終息は永正元年(1504))あるいは部垂の乱(終息は天文9年(1540))以後のことではないかと推定する。
破壊されたのが江戸時代初期なので、この遺構は100年程度しか地表に出ていなかったことになる。
この点については、「初期常陸太田城はどこだ?」に述べている。

さて、この後、この遺構、どうするのだろうか。
多分、史跡指定になるのだろうが、どうやって残すか?
公園化して残してもいいが、維持管理が大変である。それにこの堀、危険である。
子供が遊んでいて堀底に転落したら事故となる。といって、埋め戻すのももったいないし・・。
さて、これからの方が大変だ。

この発掘調査結果を余湖氏、高橋氏作成の縄張図を参考に追記した結果が以下の想像復元縄張図である。

赤線で囲った範囲が発掘調査箇所である。
もし、他の曲輪を調査したら排水用や区画(仕切り)用の堀が検出されると思われる。
また、北郭の周囲は外郭にあたり、家臣団の屋敷があったと思われるが、この地区を発掘したら堀等が検出されるものと思われる。