芋川氏館(飯縄町芋川)
信越本線牟礼駅から国道18号線を越え、県道60号線を3q北上すると、右手に妙福寺がある。
この寺付近が中世、この付近の領主、芋川氏の居館跡である。
東に斑尾川が流れ天然の水堀となっており、残りの3方を土塁と堀で囲んでいたらしい。
遺構としては北西端部にある森家の裏に土塁が残り、堀が水田として残る@だけである。
規模は東西120m、南北80mくらいであり、若干、凸凹のある長方形をしている。
ここはあくまで平時の居館の跡であり、非常時は北にある若宮城が詰めの城として存在する。

@北西端に残る土塁と堀跡 A妙福寺入口、参道の左右が堀だったらしい。

北から見た館跡。右手に見える山が髻山城

館主の芋川氏がどのような出なのかは分からないが、一説には楠木氏の末裔というが、信ぴょう性はどうであろうか?
中世にはここ三水地区の領主でもあるが、さらに北信濃の有力土豪、中野の高梨氏の家臣であった。
応永11年(1404)、高梨氏が室町幕府に叛いた時、細川兵庫助が討伐に向かい、芋川氏の若宮城が攻略され、当主の長知は自害し、一時芋川氏は断絶したという(『芋川氏累世譜録』『市河文書』)。
しかし、断絶したのではなく、その血脈は伝えられており、主家の高梨氏の復権に合わせて元の地位に復帰したようである。

そして川中島合戦の頃、再度、歴史の表舞台に登場してくる。
北信濃も武田氏の侵攻を受け、永禄初期、芋川正章の代には芋川氏も武田氏に従属するようになっていたようである。
永禄12年(1569)に武田信玄は芋川正章の子、芋川右衛門尉親正に「雪消えなば、越府に至り行に及ぶべく候。なおその堺無事に候や承はりたく候。」との文書を送っている。
ここが対上杉の境目であったことがわかる。

その後、天正6年(1578)に武田勝頼と上杉景勝が同盟を結ぶと緊張は解け、平和な状態となるが、それも長くは続かない。
天正10年(1582年)2月武田氏が滅亡し、織田家臣、森長可が北信濃に入ると、芋川親正は上杉氏との間で苦しい立場に置かれ、結局、上杉方に付き森長可に対して一揆を起す。
そして領内の一向宗門徒や反織田を掲げる信濃国人を組織し大倉城を再興し、長沼城主の島津忠直らと連携して長可に反抗するが、結果は惨敗。

大倉城では虐殺が行われ、親正は越後の上杉の下に逃亡する。
この時、この館も放棄されたのであろう。
しかし、本能寺の変後の長可の撤退、上杉氏の北信濃占領で親正も故郷に復帰、牧之島城4486石を与えられ、徳川家康の臣下に下った小笠原貞慶に対して活躍する。
おそらくこの館も芋川親正のもとに戻ったのであろう。
天正12年(1584)、貞慶が攻め入り麻績城付近で戦闘になった時に奮戦し小笠原勢を撃破する戦功を挙げる。

そして慶長3年(1598)、上杉氏の会津移封に同行し、白河小峰城6000石の領主となる。
この時、この館も廃されたのであろう。
関ヶ原の戦いの直前に大森城主栗田国時が徳川方への内通で処刑されると親正は大森城へと配置換えとなり、慶長13年(1608)に70歳で死去する。
その跡は養子の芋川元親(弟、芋川親守の子、甥にあたる)が継ぐ。
芋川親正の一生はまさに戦国の世に翻弄された一生であった。

その子孫に芋川 正令(いもかわ まさのり、生没年不詳)がいる。
江戸時代後期、米沢藩の重臣で侍組分領家の一つが芋川家であった。
正令は元文元年(1736年)には藩主上杉宗房の小姓となる。宝暦元年(1751)に芋川家1000石の当主となり、宝暦3年(1753)に侍頭に、宝暦5年(1755年)には江戸家老、宝暦11年(1761年)には奉行に就任する。
宝暦13年(1763年)に竹俣当綱による権臣森利真の殺害が起こるが、色部照長や千坂高敦とともにこれを支持し、竹俣や色部、千坂らとともに江戸藩邸の藩主上杉重定の下に事後報告を行う。

上杉治憲や竹俣らの改革には反対し、対立の末、明和5年(1768年)に奉行を辞職して隠居した。
家督を相続した芋川延親が須田満主とともに安永2年(1773年)に七家騒動を起こしたため正令も連座で押込(自宅謹慎処分)となる。
この七家騒動は上杉鷹山に対する重臣のクーデターであるが、米沢藩の首脳部は10家で構成され、主導者の芋川延親、須田満主の他、清野祐秀(内膳)、平林正在の4家が信濃出身の家であり、いかに上杉家の中で信濃出身の家が重用されていたかが伺える。
なお、安永4年(1775)には、七家のうち、須田家と芋川家が家格を侍組分領家から侍組平侍に降格されたものの、共に家の再興が認められている。
(Wikipedia等を参考にした。)


健翁寺館(飯縄町芋川)
芋川氏館から南に500m、「町」集落の西側、山の裾野に健翁寺がある。
境内が2段になっており、西側はそのまま山に続き防護施設はない。
本堂の建つ地は45m×55mほどの広さである。
この構造から推定すると少なくも戦国期のものではなく室町初期の居館ではないかと思われる。

ここが芋川氏の居館であったというが、「町」集落が根小屋であったようである。
また、「町」集落は北国街道の裏街道である北街道の宿場町でもあった。
しかし、この町集落内、古くからの集落であり、道が狭いこと。対向車が来ればすれ違いにも難渋する。

芋川本家が何時ごろここにいたのかどうかは分からないが、芋川氏館に移った後は一族が居たのであろう。