白羽要害(常陸太田市白羽町)
2015年にP氏により存在が確認された城である。
なお、白羽は「しらわ」と読む。

ここは常陸太田市の市街地の北東、里川をはさんだ対岸に位置し、阿武隈山地の南端部の多賀山地の西の山麓である。
白羽地区にには「白羽スポーツ広場」や「国土交通省常陸太田航空衛星センター」があり、地区の北を多賀山地を横断する日立市の諏訪地区に向かう県道37号線が走る。

白羽地区には2つの城館があり、1つは里川を望む丘にある「根本館」、もう1つが「白羽館」である。
根本館は場所が特定され、若干の遺構が残るが、白羽館がよく分らない。
2重の堀を持った館と「水府志料」に記述されるがそのような場所はないし、伝承もない。

「佐竹氏関連城館」(常陸太田市教育委員会)では、天志良波神社付近に「馬場」という字名があり、そこではないかと推定している。
神社、西側付近である。しかし、ここにも特段の遺構はない。
一方、永正14年(1517)薩都神社奉加帳に「白羽七郎太郎」という者の名があるという。
この者の居館であったと考えるのが妥当と思われる。この地には「天志良波神社」があるので白羽氏は当然この神社とも関係していたものと思われる。
佐竹一族今宮氏が修験者などを統率していたこともあり、白羽七郎太郎も武家を兼ねる寺社関係者であり、この神社の神官であった可能性もある。

なお、「天志良波神社」であるが「あまのしらわ」と読む。名前からして由緒ありそうな神社である。
常陸風土記には南3qにある長幡部神社が登場し、天志良波神社は登場しないが、両社とも機織の技術集団の守り神であり、ともに律令時代には成立していたらしい。
平安時代の「延喜式」には登場するので平安時代には確実にここにあったことが分る。

神社の由緒には以下のように書かれている。
『 御祭神は天照大神天岩戸にかくれましゝ時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神天日鷲命は白和幣を作られた。
弟神健葉槌命と共に麻を植え織物をされた。白羽は衣服のことである。
一説に延暦14年坂上田村麿将軍東征の時、創建すと云ふも詳かでない。
天志良波神、又長白羽神(古語拾遺)貞観8年5月27日正六位上天志良波神従五位下、同16年12月29日従五位上の神階(三代実録)式内小社久慈郡七座の一、天文13年12月11日佐竹義篤社殿修営遷宮式あり。
(棟札)元禄中水戸藩徳川光圀公の命で大聖院の社務をやめ神職の奉仕とす。
享保12年9月徳川実 公社殿の営修あり、神宝を献じ圭田2石6斗3升7合を納る。
天保15年斎昭の命により白羽、田渡、西宮、三才、小沢五ヶ村の鎮守となる。』

南西白羽集落から見た城址の山 北西「白羽スポーツ広場」から見た城址の山

このため、白羽館が存在していたころには既に神社は存在していたことになる。
「佐竹氏関連城館」が示すように、神社の地及び神官の居館が館そのものである可能性もある。
しかし、神社付近に館があったとすれば、居住には問題はなかったとしても、地形から考え、それほどの防御力は期待できそうにもない。
山が近ければ、緊急時には避難する場所を用意している場合が多い。

神社の東側は多賀山地から続く山の末端部がなので、背後の山に城郭施設が存在するのではないかと想定し、2015年の冬に探索したのだが、神社東側の山中は、ただの自然地形であった。
しかし、緊急時の避難用の城館はちゃんと存在したのであった。
それが「Pの遺跡、侵攻記」に紹介された。
なお、城の名前はこの記事で用いた名称を流用した。
その城、場所は神社の東の山には間違いはなかった。
ただし、当初想定した場所よりさらに東、それも神社の地より比高150mも高い場所であった。

その場所とは標高69mの地に建つ神社の東、水平距離で500mに位置している標高229mのピーク部である。
こんな高い山にあったとは驚きであったが、里からこの山を眺めると、城があっても不思議ではない堂々とした防御能力も高そうな山塊である。

山と神社とその山の間には「白羽林道」がある。
当初、探した場所は林道の西側、神社よりの山であった。しかし、城は林道の東側である。
そこで、チャレンジ。
地図を確認すると林道から山道が城のある山に延び、ちょうど城址の背後に出るようになっている。
そこでその道を進む。

谷沿いを進むこの山道、途中まではちゃんとした道なのだが、途中で道がなくなってしまうのである。
あるのは倒木と最近切り払ったと思われる木の枝のみ。谷の底の身動きの取れない静寂と藪の世界に身を置くと非常に焦りを感じる。
しかも、地面には猪が餌を探してほじくり返した跡がある。
このまま、谷を強行突破するか、戻るか、迷った末、管理人には珍しく引き返すことを選択する。

林道に一度、戻り、P氏の記述にある登り口を探し、登る。
そこにも山に入る道がある。その道を行ったのだが、そこも途中で道が消えてしまう。仕方なく、尾根を進む。
やはり尾根筋を登るのが正解だったようで、明確な道はないが、山の上に向かい木に白いペンキで印が付けられている。
その印に従って進めば良いのであったのだが、この尾根筋が半端でない。

林道の登り口の標高は98m、後で地図で確認したらそこから山頂平坦までの水平距離はわずか200mに過ぎない。
この間の比高は130mである。
計算すると傾斜は33度である。
これはかなりの急斜面である。
しかも、道はジギザグに付いている訳ではない。
山頂まで一直線である。
これはとんでもない道である。

↑は山頂直下の斜面。傾斜はきつい。
ここを一直線に登るのである。

汗だくの悪戦苦闘状態で登って行くと、山頂直下、山の南斜面に岩盤の露出している場所に出る。
ここから落ちたら一巻の終わりである。

さらに登るとようやく比較的平坦な細尾根@に出た。
幅2,3mの尾根が50mほど続く。尾根末端の標高が212m、細尾根の終点部が226mである。
そこから先に比較的平坦な場所Aが広がる。ここからが城の主要部分である。
それでも内部は緩く傾斜しており、加工は甘い感じである。
北側には、犬走りあるいは帯曲輪が存在する。

南端部が主郭Bと言える場所である。
1辺20mほどの三角形に近い形をしており、ここは内部を人工的に平坦化している。
標高は城内最高の229mである。
南西側に尾根が下るが曲輪は確認できない。

@急坂を登り切るとこのような細尾根に出る。 A山頂部はかなり幅が広くなるが、傾斜はまだある。 Bここが最高個所、主郭であり平坦に加工される。

しかし、ここまでの間は一見して城郭か、自然地形か判断に迷う。
城と判断するには非常に微妙である。
それは当然であり、特段加工を加えなくても地形だけで十分に城郭として成り立つからである。
そういう城も存在する。
「金砂山城」など代表的である。
この城もここまでの部分だけで言えば「武生城」とよく似た感じである。
山の南は断崖である。
西側、北側については山上に大きな石をたくさん溜めておき、急斜面を登って来る敵に向かって石を落とせば接近を許すこてゃないだろう。
この急斜面を重武装で登ること自体、自滅行為である。

C東に続く尾根にある土塁が囲む曲輪 D Eの曲輪の下、定番の堀切で尾根を分断する。

ちゃんとした城郭遺構は、西側の神社方面ではなく、東の多賀山地からの尾根続き方面に存在していた。
東方面は比較的平坦な尾根続きであり、この方面からの攻撃を考慮している。

主郭の東が高さ1.5mの切岸となっており、長さ25mの曲輪の先の下3mに直径8mほどの土塁が半円形で囲んだ曲輪Cがある。
そして、その東に深さ3mの堀切Dがある。
この半円形の土塁を持った場、一見天水溜のように見えたが、下に堀切を持つことから遮蔽された迎撃陣地と捉えた方が良いであろう。

この部分がここが城と判断できる遺構であり、かつ、城唯一の明確な城郭遺構でもある。
堀切には土橋があり、その先20mには小さなピーク(標高219m)があり、ここには木戸があったのではないかと推定される。
その先は東の山に続く尾根筋である。
なお、堀切の堀底は当初登ろうとした谷筋の道が通る堀底道でもあるようであり、竪堀が山道となって下っているのが確認できる。

以上がこの城の概要であるが、城の弱点である東の尾根続きの部分をセオリー通り、堀切を構築し警戒をし、残りは自然地形を利用している。
しかし、この城をわざわざ東の高い山に迂回して尾根筋から攻撃するものであろうか?
とても想定が困難であるが、そこは戦国時代、生き延びるため病的なまでの心配症に支配された結果、この尾根筋からの攻撃の妄想に憑りつかれた結果なのであろうか。

さて、この城が機能した時期であるが、佐竹氏の支配が安定していた戦国末期には使われていなかったであろう。
多分、それより100年ほど前の山入の乱のころのこの地方が不安定なころのものであろう。
緊急時には領主、領民がこの城に避難したのであろう。

それとも狼煙台であった可能性もある。
これくらいの高所ならかなり遠くからでも狼煙を確認できるため、広域に異常を知らせることも可能かもしれない。

水場は当初登ろうとした谷筋にあったのではないかと想像される。
この城に食料を備蓄する施設があったかどうか、定かではないが、避難城とした場合、どの程度の期間、山に籠れたのであろうか?
そして、実際、使われたことは果たしてあったのであろうか。
静寂に支配された誰一人いない山中でそんな想像に浸るのもまたこの手の趣味の醍醐味である。

西河内館(常陸太田市西河内上町)
河内と書いて「ごうと」と読む。
まず、読めないであろう。珍名である。
この館の存在は「Pの遺跡、侵攻記」の記事で知った。
西河内館は常陸太田市から里川沿いの谷を北上した町屋地区から北西に延びる谷を3qほど進んだ場所に西河内市民ふれあいセンターがある。
その北側、川を隔てた対岸の山が城址である。

↓は市民ふれあいセンターから見た城址。ガードレールが切れる写真右手付近に登り道がある。
なお、ここは西河内上小学校が昭和54年まであり、ふれあいセンターの建物は跡地は笑福亭鶴瓶と吉永小百合の主演した「ディアドクター」の診療所としてロケが行われた。


山の最高箇所の標高は227m、水田となっている低地部の標高は150mほどである。
この館の南下で道は西と南西に分岐し、西に行くと東金砂神社や水府の東染方面に、南西に行くと十国峠に到着し、そのから西に行くと町田城の背後に、南に行くと大門城、常陸太田方面に通じる。
今はただの田舎の三叉路があるだけであるが、見方によっては交通の要衝でもある。

その館へは山南下の道路脇から登る道があり、そこを登ればすぐ館跡である。
しかし、これが遺構と言っていいものか・・・。
遺構らしいものは、山のピーク部から南西方向に展開する2本の土塁状の尾根に囲まれた2段の平坦地@、Aと最高箇所Bが平坦になっており、その背後に腰曲輪と思えるものが存在するだけである。
他のほとんどは自然地形である。
北の山地に続く鞍部には堀切があってもおかしくないが存在しない。

@土塁状尾根に囲まれた平場は軍勢駐屯地か? A平坦地の東西は土塁状の尾根。写真は東側の土塁ピーク
Bは城内最高個所の平場、
頂上部は平坦化されているが周囲はほぼ自然地形。
2本の土塁状の尾根に囲まれた平坦地は、曽目城の主郭南側と大子の相川要害にあるものと同じであり、人工構築物であるのは間違いないが、ここは兵員の駐在スペース、または住民の避難スペースではなかったかと思われる。
三叉路からは尾根が邪魔になって見えない。

伏兵を置くには理想的な場所である。
広さは上段部が40m四方、下段は50m×40mほどで内部は若干傾斜している。
両側の土塁状の尾根上までは高さが4mほどある。
上下の段間は50p程度であり、溝が造られているが、これは排水用と思われる。

なお、ここが住民の避難スペースとしたら、あまりに下界に近すぎ、その可能性は低いと思われる。
整備状況から見て、一時的な臨時の城、あるいは軍勢の宿営地ではなかったかと思われる。

この場所に軍勢を置けば、3方面に展開が可能であり、大きな機動的なメリットが生まれる。
城の機能した時期としては、この地方が戦乱があった頃、山入の乱のころではなかったかと思われる。
その後、佐竹氏の支配が安定した頃には使われなかったであろう。