城の名前がついた金山

茨城県大子町は古代からの金の産地であり、最近まで本州唯一の金山であった栃原金山が稼働していた。
(現在は金価格との関わりで採算が合わないので、閉山状態にあるが、休鉱中ということになっている。)まだ、埋蔵量はそれなりあるらしい。
この地の金の産出がもっとも多かったのは戦国時代であったらしく各所に金鉱山の跡や伝承がある。
当時は花崗岩質の金鉱石を穴を掘って採掘し、それを粉砕して金を採っていたらしい。
粉砕に使った石臼も発見される。また、坑道跡が地震や耕作中や工事中等に重機の重みで陥没することもあり、地元や工事業者にこのトラブルが恐れられている。

八溝山周辺には多くの城があるが、金山防衛や管理も目的にあったと思われる。
頃藤城のように金山の上に建つ変わった立地の城もある。
今も昔も金の価値、位置付けは変わらない。何にでも姿が変えられる魔法の物質、万能の力を持つ物質である。
この万能の力を持つ金を巡って、戦国時代、白河結城氏と佐竹氏の間で激しい争奪戦が起きる。
その結果として大子地方は佐竹氏の支配下になる。
この金の力によって佐竹氏は戦国時代を生き延びたと言ってもいいかもしれない。

その大子町に上郷古館初原砦という名の城館がある。
しかし、この2件、調べていくと「館」、「砦」と城館の名前は付いているが、城館ではない。
実は金山跡なのである。

そもそも城館の名前が付いた理由は、金を含む土砂を採取した跡が穴として残り、これらがいくつも並ぶとまるで「障子堀」のように見え、穴の縁部は土塁のように見えるからだろうと思われる。
しかし、城の堀として見た場合、まったくまとまりがない。
城館は規模の大小はあるが、ほとんどの城館について、地形を活用し、その上で敵の侵入ルートを想定し、そこに多重の堀切、横堀、竪堀や土塁を構築したり、帯曲輪を作り出し切岸を鋭くする等の工夫をしている。
最小の工事量で最大の防御効果を得るコストパフォーマンスを追求する合理性が共通して見て取れる。
しかし、この2件については、防衛施設としての堀なら、敵が攻めてくると思われる山続きの尾根とか斜面に合理的に構築されるはずであるが、ほとんどランダム、合理的な要素がまったく感じられないのである。
背後の山が全く無防備だったり、物見櫓が建ちそうな最高箇所が平坦ではなく、そんな場所に大きな穴が開いていたりしているのである。
穴も防衛用にしては無駄に巨大なものがあったりして、城館として見れば、違和感だらけである。
確かにこの多数の巨大な穴が障害物となり、平坦地を宿営場所に使えば、遠征時の軍勢の宿城として使えないことはないが。

この2つの城館の名前のついた金山跡、主要部と思われる場所は広く平坦である。
城館とすれば曲輪に相当するだろう。例の巨大な穴は平坦部ではなく、平坦地の縁部や斜面部に存在する。
平坦部内部には穴は皆無である。穴の大きさは大小様々であるが、大きいものは直径約10m、深さは約4mほどのものもある。
これでも長い年月で埋没が進んでいるであろう。
穴と言っても、一方が開口しているので斜面をパワーショベルで一部抉ったような感じである。

これを始めて見た時は何のための穴か分からなかった。まるで斜面一帯を砲撃した跡とか爆撃した跡のようにも見える。
井戸跡にも見えたが、上郷古館と初原砦とも川や沢が近く、水が湧いた場所もあり、水に不自由していた形跡はない。
もちろん、何かを掘った穴という感じもしたが、何を掘ったのか見当が付かなかった。

山芋掘りにしては穴が大き過ぎるし。
炭焼きの跡にも見えるが、焼けた石、土や木炭片も見られない。
一番妥当じゃないかと思われた見解は「土室」である。穴の上に屋根を被せれば竪穴式住居のようになる。壁が土であり断熱性は良く、内部の湿度も適度に保てそうである。
ここは内陸の山間であり冬場の寒さと積雪はかなり厳しいと思われる。ここに芋類等を貯蔵すれば保存に有用のように思える。

この穴の謎についてはしばらく分からなかったが、大子にはこの穴は金を掘った跡との伝承が残り、それを記載した文献もあるとの情報があった。
また、地質学の専門家からも同様の見解が寄せられ、八溝山のあちこちにこのような穴が存在するという情報も寄せられた。
何かを掘った穴という感じはあったのだが、まさか金とは。

戦国時代の金の採掘が坑道を掘って行うものとの先入観があったので、砂金採取のような方法を併用していたことに考えが及ばなかったのだ。
この穴のある上側の平坦地はかつて川底や岸に近い海底の平坦部であり、それが隆起したものらしい。
平坦になっているのは砂が溜まったためであるが、その砂は金を含む鉱石が風化したものが堆積したものである。
それらの砂には川の流れのばらつきや海岸付近の波の働きで、流動が少ない部分に比重が大きい金が溜まりやすいという。
現役の川での砂金採取は川底や中洲の砂を比重を利用した流動選別して採取するが、これと同じように掘った砂に流水を流し砂金を採取したものと思われる。

この方法は古代から行われた方法であり、戦国時代は金鉱石を採取して砕いて金を採る「山砂」法が主流であったという。
上郷古館の山上部の穴付近には白っぽい岩が見られ、山上部では山砂法で採金を行っていたのではないかと思われる。
この両館での金採取は戦国時代に行われていたものと思われるが、戦国時代以前に遡る可能性もある。
操業停止は佐竹氏が秋田に去った時かもしれないが、効率がよい山砂法が主流になった戦国時代後半だったかもしれない。
発掘等はまったく行われていないが、平坦地や穴付近から何等かの遺物が出土する可能性もあろう。
平坦部には採掘を管理する建物跡があったのではないかと思われる。
(2020年9月19日)

(下の記事は上記の知見によりリバイスすべきであるが、敢えて作成当時のままにしている。当時はこれが金山跡とは分からなかったから、表現が迷った状態であるのがお分かりであろう。)

上郷古館(大子町上郷)
主要部周辺が爆撃を受けたような大きな穴ばかり開いている不思議な城館である。
これが城郭遺構ならこんな城館は見たことがない。
いったい、何の穴なのか?

館は大子町北部、福島県境に近い八溝山の東山麓、八溝川沿いの谷にある。
この地には拠点城郭として東2qに荒蒔城、町付城があるが、それ以前の拠点城郭が名前からしてこの城だったのではないかと思われるが定かではない。

この館については2009年、Pさんと狙ったが、山を間違え、山中彷徨という目にあった。
当然、ただの山に登っただけだった。
そのリベンジであるが、今回は慎重に場所を調べた。

県道28号線沿い南側ににセメント工場があり、その南西の山が館跡である。
↑の写真は北側の県道沿いから見た館跡である。

山の北山麓に墓地があり、その裏の急斜面を登れば館跡である。
ただし、猪避けの高圧電線が山麓に張り巡らされており要注意である。
それはおいておいて・・・始めにも書いたが、本当にこれは城館なのか?

どうもしっくりこないのである。
館主体部と思われるのは標高200mの山麓から比高30mほど登った部分であり、そこは若干の傾斜はあるが、標高230〜240mにかけての100m四方ほどの平坦地BCである。
ここなら居館も倉庫も十分に置くことが可能であり、3方を急斜面で囲まれた高台でもあるので安全性も高い。

このような感じの館としては大子では山田館がそっくりである。また、東にある町付城とも似た感じである。
やはり町付城の先代なのかもしれない。機能とすれば金山管理の城だったのかもしれない。

ここだけなら城館と認めても差し支えないであろう。
ただし、これだけの広さがあれば内部が区画されていてもおかしくはないが、そのような感じはない。
後世の植林により破壊された可能性もあるが・・・?

しかし、この平坦地の周囲に不思議なものがある。
直径5〜10m、深さは深いもので4mほどもある大きな穴@Aが平坦地まで登る斜面に数個開いているのである。

@平坦地までの斜面に空く穴。
2つの穴の間に通路状の竪土塁がある・
Aこれも斜面に空く穴。完全なすり鉢状である。

さらに平坦地の南側は山につながるのでこの方面からの攻撃を警戒し、南側の山にも何等かの防御施設を置くはずである。
で、そこに行ってみると、やはり大きな穴がいくつも開いているのである。
平坦地の背後の標高270mのピークは物見台では?
と思える場所なのだが、そのピーク上にまで穴Dが開いているのである。

B館主体部と推定される平坦地。100m四方もある。 C平坦地北端部にある虎口に似た遺構・・だが、虎口ではない。

なお、穴は、爆弾穴のような「すり鉢状」のものがほとんどであるが、堀切のように尾根を「抉った」形状のものもある。
ピークの背後の南の山に続く鞍部にも穴がボコボコ存在Eする。

さらにその南東にに長さ65mのピーナッツ状の平坦地があるが、その東端にも大きな穴Fがあり、斜面部には横堀状の遺構もある。
山はさらに南に続くが、そこは細尾根となり、もう穴はない。

D平坦地南のピーク上まで穴が開いている。 E南の山の平坦地斜面に開く穴 F南の山の平坦地東側にも穴が開く

穴は倒木など自然にもできるが、ここにあるものは規模と形状からここの穴は倒木によるものではなく、人工的なものである。
斜面や鞍部にあるものは、堀と同じ防御施設としての効果があり、畝堀のような印象も残る。

一方では「天水溜」にも見えるがこれほどの大量の穴を掘る必要が不明である。
それにこの山の麓には水が湧いている場所があり、水に苦労していた状況は伺えない。

また、この付近の城館でこのような感じのものも全く存在しない。
ここは金山も多く存在するので、ここも金採掘の跡とも思ったのだが、その想定の場合、掘った岩(ズリ)が多く転がっているはずであるが、そのようなものは確認できない。
ここの地質は土が主である。

あるいは後世のものかもしれない。例えば、自然薯採掘の跡とか?
しかし、こんな大きな穴を掘るものか?
平坦地にはまったく穴が開いていないのも不思議である。
結局、謎のままである。
是非、多くの人に見ていただき、ご意見を聞きたいものである。
・・って、こんなところに来るモノ好きいないだろうねえ。

初原砦(大子町初原)
川崎春二氏の調査報告に掲載されている城である。
とは言え、これが城なのか違うのか何とも判断ができない。
非常に曖昧なのである。

全体的な印象は上郷古館によく似る。
山の裾野に広い平坦地があり、そこが主体部と推定される城館である。
そしてあの不思議な穴がある。

場所は大子町北西部、国道461号線上岡交差点から初原川が流れる谷沿いを走る県道205号線を北西方向に約4q進と初原地区になる。

この付近で初原川は東流から緩やかに南東方向に流れを変える。
砦はその初原川の南岸にある。
(北緯36°48′49″、東経140°18′11″)

南岸に民家が1軒あり、民家に通じる橋を渡った脇から山に入ると砦となる。
初原川が東の裾野を流れ、山側(砦側)は崖状になっている。
主体部の標高は193m、初原川が流れる低地部からの比高は約20mである。

いきなり土塁や塁壁に囲まれた不思議な空間@に出る。
櫓台のようなものもあり、塁壁は最大7m近い高さを持つ場所もある。

結構、広い。
桝形のようにも見える。
この空間、植林や土取りに伴うものとも思われるが、現地を見ると現状では重機やダンプカー等が入るルートが想定できない。

しかし、上側の平場には山部を重機で削ったと思われる改変の跡が見られ、重機が入るルートはあるのかもしれない。
重機が入れたとしても川崎春二氏が調査した昭和30年代にパワーショベルやブルトーザ−が容易に運用できたものだろうか?
上の平場の工事跡はもっと後の時代のものの可能性もある。
もし、人力でこの空間を造ったらかなりの工事量になる。

@土塁のようなものがある不思議な空間 A @の南上には植林された平場が広がる。

さっぱり分からないこの空間から塁壁を登ると、主体部と思われる平場Aに出る。
ここも植林されており、木が整然と並んでいる。
西側は段差がある。
上の平場の西が山になるが、山側に重機によるものと思われる改変の跡がある。

そして、この平場の北側にあの不思議な穴が数個開いている。
直径は最大で10mほどある。B、C

B謎の穴 Cこれも謎の穴、出口部がある穴が多い。

一見、箱堀のようにも見えるが穴間の稜線部の幅が広すぎて、歩くのは容易である。
多少、ジグザグに歩かされるだけである。
柵列を置けば防御機能は高まるが、防御施設としては甘いものと感じる。

また、平場周辺の斜面一面にこの穴が存在すれば防御施設とも考えられるが、存在する場所が限定的である。
何かを採掘した跡、井戸の可能性、炭焼きの跡の可能性もあるがいずれも難がある。
採掘する場合、斜面を掘る必要はない。
多数の井戸を集中して掘る必要はない。
炭焼き窯をこんなに近接して造ることはあり得るのか?

謎の穴群スケッチ 土室想定図

現場でしばらく考えたのであるが、これは「土室(つちむろ)」ではないだろうか?
竪穴式住居を山の斜面に造れば、その跡はこんな感じになるはずである。
入口と思われる開口部もある。
屋根を被せ、土を被せ保温機能を持たせていたのであろう。

ここは冬場の冷え込みが厳しい地である。
冬場に芋や玉ねぎ等の根菜類等の寒さに弱い食料や漬物を中に貯蔵していたのでないだろうか?
中世のものであった可能性も否定できないが、土室とすれば近世以降のものではないだろうか。
発掘してみれば柱の穴の存在の有無や遺物、土質等の情報から何か分かるかもしれない。

もし、ここが城館と仮定したとすればどのような性格のものだったであろうか?ともかく戦闘的な性格は感じられない。
東側と北側に初原川が流れ、水堀の役目を果たす。南側は沢になっている。西側は山である。
西側の山方面には何もない。ただの山である。(上郷古館は背後の山部に城館遺構のようなものが存在していた。)。
防御施設がなくても山方面からここに接近するのはさらに背後の山を踏破する必要があり、難しいように思える。

その点からここの平場は比較的安全な場所と言える。軍勢の宿営地とすれば理想的である。
でも、この谷沿いをある程度の規模の軍勢を移動させることがあったのか?
佐竹の軍勢が大田原方面に向かうルートにあり、宿城に使ったことも想定される。
居館を置くことも想定できる。かなり大きな敷地の屋敷が建てられる。
さらには、城にまつわる伝承もないようである。
すべては謎のままである。
果たしてここは城館なのか?それとも違うのか?