外大野要害(大子町外大野)36.8096、140.4195
大子町一番の名勝、袋田の滝の裏側(東側)、滝を流れ落ちる川の一つが北から流れて来る大野川である。
その大野川が流れる外大野地区にある。
内大野地区の北約2.5q、1q北は福島県である。
ここに桜の銘木「外大野の枝垂桜」がある。
その木の南約300mの山が城址である。

↑西側の低地から見た城址。右側の平坦な部分が館跡か?
城のある山は東の県道195号線が通る谷と西側の谷の間にあり、標高は約330m、麓からの比高は約45mである。
国土地理院の地図には338mの表示の山があるが、その西側の2つのピークが主郭部である。

城を確認したのは2023年2月であるが、聞き取りによると地元では城として伝えられているという。
ただし、城主伝承などは分からないそうである。
西の麓の民家から上がるが西側斜面は一面の竹林である。
ここは元々畑だったが、耕作が放棄され竹林になったという。
この部分に腰曲輪があったかもしれない。

この緩い勾配の竹林を上がって行くと、急勾配の切岸@がそびえ立つ。
その上が本郭Bである。高さは約8m。
そのまま登攀は不可能。それほどの鋭さである。

@ 本郭の切岸。本郭西下の竹林はかつては畑だった。 A本郭南側の鞍部。先が物見台である。 B本郭内部、かつては社が祀られていたという。

南側に迂回してピーク間の鞍部Aに上がる。
その上がる道、これが竪堀の堀底道である。
鞍部は13m×7mの曲輪になっており、西側は本郭部である。
その間に登り道を兼ねた竪堀が堀切となって存在する。

鞍部から4m上が本郭B、30m×10mの楕円形をしており、1mの段差を持つ2段構造、北側斜面は急勾配である。
北西側に尾根が下り段郭が展開する。
5段ほどは明瞭であるが、その先は曲輪が不明瞭になる。
途中から西側に帯曲輪Cが張り出す。
本郭から帯曲輪までは7mの深さがある。

C本郭西下の帯曲輪を本郭から見下ろす。 D物見台は径約5mの平坦地、狼煙台でもあろう。 E物見台の東側の堀切。ここが城の末端部か?

一方、鞍部の南西にピークがそびえる。
鞍部からは10mほど高い。その上が径5mほどの平場Dになっている。
ここの標高が331m、物見台か狼煙台であろう。
東が緩く傾斜し下に堀切Eがある。

さらに東に三角点のあるピークがあるが、ここには明瞭な遺構はなく、尾根が東に続いて行くだけである。
城外であろう。
なお、その南下の鞍部に堀切のような場所があるが、これは道の切通しと思われる。

城のある山の南下に谷側に南北約50mの削り残しの土塁のようなものがある。
東側が切岸となり、下が平場になっており、土塁上までは高さが約4mある。
しかし、西側は自然の丘斜面のままである。

城のある山側は堀切状になっており、山の東側の谷「竹ノ内」地区に通じる道が通る。
この平場、風も避けられ日当たりがいいのである。
F 右:土塁、左:山上遺構部 その間は堀切状である。 G居館跡推定地の西側は高さ約4mの土塁になっている。
H平坦地と土塁の南端部 I土塁上、右側が居館推定地。

この場所は後世に削平された場所の可能性もあるが、当時の遺構とすれば居館跡ではないかと思われる。
この土塁、盛ったものではなく、丘の削り残しである。耕作に伴う可能性も否定できないが、高さが約4mもあり、登るのに苦労する。
とても単なる耕作地を造るためだけにこれだけの工事をするのは非現実的である。
この土塁と平坦地、最近なら重機で造成は可能であるが、重機が普及していない戦前からあったようである。
城郭に伴うものと考えるのだ妥当であろう。、

居館は地名のとおり「竹ノ内」地区にあり、ここが詰めの場所か?

この城の西下を内大野から久慈川沿いの下野宮方面に通じる道が通り、さらに西の沓掛峠からの道が合流する。
その三差路を見ているようである。

狼煙台とすれば内大野館に狼煙を伝える役目と推定されるが、さて、その伝えるべき狼煙信号、果たしてどこから受けたのか?
沓掛峠方面か?佳老山の西にある福島県矢祭町に所在する「物見館」ではないかと思うが・・そこは北東約2.5qに位置するのだが。
物見館からは棚倉方面まで一望の元なのだが。

八神館(大子町高柴) 36.7947、140.4343
袋田滝の北東に位置する内大野地区には内大野館があり、麓の「堀ノ内」地区がこの一帯の中心地である。
八神(はちかみ)館は内大野館背後の北東の山地を直線で約1.2km行った場所にある。
内大野館が南西端に位置する北東の山塊は東西約1.5km、南北約1kmの広さがある長方形をしており、周囲を車で一周することができる。


八神館はこの長方形を描く山系において、内大野館に対して対角線上のほぼ反対側北東端部近くにある。
この対角線に沿って尾根の南下部に古道があったといい、その道は昭和時代の途中まで使われていたそうであり、今もその痕跡を途中まで辿ることができる。

館は現在、自動車道が通る谷筋には面していなく、約300m山側に入った場所にある。
なぜ、少し奥にあるのか、戸惑うところである。
主郭部からの眺望は良くないのである。谷筋がほとんど見えない。

尾根上にも古道が通っており、その古道が城内を通っていた関所城であった可能性がある。
内大野に向かう古道を抑える城の可能性が想定されよう。
城郭としては規模も小さく、遺構のメリハリも余りない。

北東に幅約3m、主郭側からの深さ約3mの堀切があり、主郭側に小曲輪が4つ重なり、さらに幅約4m、長さ約50mの弓のような形を主郭@がある。
西側に小さな堀切2本で仕切られたピークがあるに過ぎない。
主郭部の標高は362m、八神地区からの比高は約40mである。


↑@主郭内部、やたら細長いが内部は平坦。古道が通っていたかもしれない。

日照要害(大子町大生瀬)36.8000、140.4087
日照は「ひしゅう」と読む。
大子町内大野地区から県道33号線を北西の下野宮方面に約1.6km行った北側にある熊野神社の北側の山が城址である。
城址のある山は北から南に張り出した尾根であり、その先端部分の盛り上がった部分に城がある。

↑ 県道33号線から見た城址。

標高は320m、南側の県道からの比高は約50mである。
城址の南側が谷戸部になっており、ここに熊野神社が建つ。
その両側に尾根が両腕で社殿を抱くように派生しており、その尾根を登ると城址である。

城といっても小規模であり、約50m四方程度が城域である。物見台、狼煙台程度のものに過ぎない。
しかし、遺構は完存であり、丁寧に構築されている。
風化も進んでいない。

主郭がある山頂部Bには狼煙台跡と思われる部分がある。
一辺約25mのT字型をしており、山頂部からは4本の尾根が派生する。
その4本の尾根にそれぞれ堀切A、C、D、Eがあり、堀切に面し土塁が構築されている。

@南側の谷戸部にある熊野神社 A熊野神社の東側の尾根を登って行くと、堀切が・・。 B城の最高箇所、ここに狼煙台があったのだろう。
C北に延びる尾根にある堀。 D西に延びる尾根を断ち切る堀切。 E熊野神社西に下る尾根にある堀切。

堀切の深さは主郭側からは約3mである。
主郭側の土塁は迎撃用であろう。

北端の堀切Cから東側に下る竪堀は竪土塁を伴う。
これが登城路ではないかと思われる。

南側谷戸部の熊野神社の地がどのように使われていた不明であるが、ここは日が当たらない谷間でジメジメした感じで居住には適さないと思われる。
地元では狼煙台と伝えられるが、城主の伝承はない。

場所からして南東側に位置する内大野館に狼煙で情報を伝える中継所である。
さて、その情報はどこから伝えられたか、この山の北、西は山地である。
そのどこかに狼煙台が眠っているのであろう。

立神古城(大子町袋田/小生瀬)
大子町最大の名所と言えば「袋田の滝」である。
この滝は生瀬富士の北付近から男体山の南側の籠岩付近まで続く海底火山が隆起してできた屏風のような崖面を滝川が4段に分かれて豪快に流れ落ちる。
この崖面の縁、袋田の滝から北西に約1qの距離にあるのが、この山系の最高峰「立神山」(420m、36.7697,140.3994)である。

↑東から見た立神山(右のピーク)、鞍部が城の主体部。反対側は崖である。こちらからは登りやすい。

袋田の滝を流れ落ちた滝川の水面からの標高が140mなので、立神山は約240mの比高がある。
(なお、この山系で最も知名度のある山は岩だらけの山、生瀬富士であるが、こちらの標高は406mと立神山より若干低い。)

↑東の花立山から見た立神山(中央のピーク)、右の山が生瀬富士。

この山系は西側から見ると崖が聳え立ち圧倒的な迫力である。
でも、崖縁部をハイキングコースが通り、色々な所から登れる。
そのハイキングコースには東下の標高220mの大野川沿いの谷間から登るのが比較的楽なようである。
この方面、東側の山の勾配は緩い。普通の山と言った感じである。

立神山は「古城山」という別名があり、城であったとの伝承がある。
立神山の山頂は径約6mの平坦地であり、南西側に幅約3mの平坦地が2段あるに過ぎず、城とすれば山頂は物見台程度に過ぎない。

館跡、小屋があった場所が南東約100m、比高約40〜50m下の鞍部の平坦地(36.7689、140.4010)Bと言われる。
そこには人為的に工事された平坦化や帯曲輪のような場所@ABがみられる。
これが城館である物証と考えられるが、今一つ、不明瞭な感は拭えない。

@鞍部東側の尾根には全長25mに渡り小曲輪が展開する。 A鞍部にある小ピークの頂上部も平坦になっている。 B立神山東下の平坦地、25m四方の平坦地が2段ある。

ここが城であるとの伝承があり、遺構も不明瞭ながら存在するので城館と判断しても良いと思われるが、誰が使ったのか等の文献記録はないようである。

場所的には袋田の滝を挟んで南南東約2qの月居城の反対側に位置するので、月居城の支城ではないかと思うが、さて、真実は如何に?
支城と言っても精々、物見台、主体は住民の避難城だったと思われる。

C立神山山頂は平坦で物見台と言われる。 尾根筋南側から見下ろした袋田の滝、この風景はなかなか見られない。

鞍部から見下ろした約240m下の袋田の滝のお土産屋街。 左の写真の右に写る道路から撮った立神山、右側のフラット部が城主体部

月居城については室町時代初期に佐竹氏の一族山入氏系の袋田氏が築き応永年間(1394−1428)に居城(詰の城であり、居館は東の山麓付近にあったのであろう。)としていたが、義資の時小田野氏の養子に入り、累系が途絶えたため一時廃城となった、 
後年、同じ佐竹氏の家臣の石井氏、滑川氏、そして永禄10年(1567)野内氏が城主となり、佐竹氏の秋田に移封に同行して野内氏も大館に移ったため、廃城となったという長い期間にわたる歴史があるが、そのいつの時代に立神古城が関わった分からない。

しかし、崖に面した西側は圧倒的な迫力であり、絶対的に安全であるが、東側斜面はそれほど急ではなく、東側から攻撃されればそれほど堅固ではない感じである。
でも、こんな所を攻撃する敵なんかいるか?
遺構が示すようにそれほど重要な場所とも思えない。
短期間の避難ならともかく、長期に渡ってこんな所に籠っても直ぐに干上がるだろう。