深井館(東御市和)36.3736、138.3033
「しなの鉄道」大屋駅から県道483号線を約700m北上すると道は90度東に曲がる。
その曲がり角の民家付近が深井館跡である。
館跡に建つ子孫の深井家、道路は掘跡。 | 西側に残る掘跡。 |
この付近は千曲川北岸の緩やかな扇状地で標高は534m、千曲川からは比高が約60m、非常に見通しがよい。
遺構は西側に堀跡があるだけである。
北側の道路が堀跡という。
館跡は約60m四方の大きさと推定される。
海野一族深井氏の居館であり、深井郷を領したという。現在も深井氏がここに居住する。
(宮坂武男「信濃の山城と館」3を参考にした。)
正村屋敷(東御市和)36.3779、138.2997
深井館から北西に約600m、西深井集落の北端にある。
西深井館ともいう。
ここの標高は534mである。
深井館と同様、広々とした扇状地の緩斜面にあり、扇状地の上側(北側)を上信越自動車が通る。
高さ1〜2mの石塁で囲んだ31×42mの方形の区画が残り、氏神が祀られる土壇が残る。
館内部はぶどう園である。
石塁が囲む館は非常に珍しく、遺構もよく残る。
@正村家の氏神が祀られる土(石)壇と石塁 | A南側の石塁 | B西側の石塁 |
この付近は海野一族深井氏の領地であったが、海野氏衰退後、領主の交替があり、真田信之が上田に入った時、正村氏がここに入ったようである。
このため、ここが中世城館と言えるかどうかは疑問である。周囲に堀が存在していたのかは分からない。
単なる近世の武家屋敷か?
(宮坂武男「信濃の山城と館」3を参考にした。)
鍋蓋曲輪(東御市八重原)36.3300、138.3306
ふざけた名前である。
名前だけで記憶に残る。
この耳に残る名前の城を知ったのは盟友「らんまる」氏のブログらんまる攻城戦記〜兵どもが夢の跡〜 - 鍋蓋曲輪 (東御市八重原) (fc2.com)である。
もちろん、名前からして城館としての遺構は想像通り大したことはない。
城は千曲川の南岸の台地、旧北御牧村にある。
しなの鉄道、田中駅から千曲川を越え、南の八重原台地に県道167号線を走る。
台地上が比較的平坦になったところにこの城館がある。
真下を北陸新幹線八重原トンネルが通る。
城館と言っても少し盛り上がった丘にすぎない。ここの標高は679.2m。
比高は5m程度、周囲は水田が取り巻く。確かにこの形、鍋の蓋である。航空写真なら一目稜線。
↑国土地理院の航空写真から、道路が楕円形に回っている。その内側が微高地になっている。
楕円形と言った方がよい。長軸約300m、短軸約150mの規模である。
ここの北側にある丘の方が城を築くのに適しているように思える。
その丘から見下ろせるようなこの地に城を置いたのは、当時、周囲は湿地だったと思われ、島のような感じであり、結構要害性があったからと思われる。
しかし、ただ車で通りかかっただけでは微高地に過ぎず、よく分からない。
↑北側から見た城址。微妙な微高地である。背後の山は蓼科山。
この付近、そんな丘ばかりである。
前に来た時は下調べもせず分からなかった。
家に帰って調べたら、らちょっと撮った写真にちらりと写りこんでいるではないか!くそお!
ということで、この城も俺のリベンジリストに入った。けして規模でリストに入れるのではない。悔しいから入れるのだ。
丘北側道路から見た丘上部 | 丘麓には城址碑が建つ。 |
2023年11月、今度はちゃんと下調べをしてようやく到達。
もちろん、どうってことない物件だ。
畑でおっちゃんが立ちションをしていた。
ちゃんと標柱も建っている。
小土豪の居館があったのかと思ったがそうでもないらしい。
元々、微高地であるため、集落はあったと思われる。そこを
信濃侵略のための行軍中の武田氏が宿城に使った、あるいは、第一次、あるいは第二次上田合戦における徳川軍の陣城という説もある。
外山城(東御市羽毛山)36.3408、138.3392
しなの鉄道、田中駅から千曲川を越え、南の八重原台地に県道167号線を走る。
台地に上がった県道脇に「外山城」入口の表示がある。
小さいので見逃して先に行ってしまい、引き返す。
その表示に従い走ると城址南の駐車場に着くのであるが、ここまでの道、結構狭い。
城は千曲川に面した崖面の途中にある。
千曲川の谷筋を監視する城である。
城址は公園化されており、良好に管理されている。
城は台地の標高が690mくらいなのに対し、より低い場所、標高683mに主郭を置く。
ここから千曲川方面を監視するのであるが、直下の千曲川の標高は510m、比高は170mもある。
台地末端に駐車場があるが、車から降りて、台地を見まわし城址を探すが、見当たらない。
ある訳がない。坂を下った場所に城があるのだ。
その坂を下った平地が二郭@である。
尾根の幅は約20mと広い。
@本郭の櫓台から堀切越し見た二郭 | A本郭(左)と二郭間の堀切 | B @と逆アングル、二郭から堀切越しに見た本郭の櫓台 |
C 櫓台の北下の本郭 | 本郭から見た上田方面、山の下に上信越自動車道が見える。 |
二郭の北端に高さ約1mの土塁があり、幅15m、深さ4mの堀切Aを介し土壇(櫓台)が見える。
土壇(櫓台)Bの高さは掘底から約7mある。
土壇側そこが本郭である。
その北下に50m×30mの3段の曲輪Cがあり、下に下る道があるが、この道は危ないので立ち入り禁止になっている。
依田氏の城と言われるが詳細は不明である。
下之城(東御市下之城)
東御市は上田市と小諸市の間にあった東部町が御牧村と合併し、お互いの頭文字を取って市名とした安易なネーミングである。
この下之城は旧御牧村にある。
東御市役所のある千曲川沿いの田中地区から佐久の旧望月地区の中間付近、県道166号線を南東方向に約10kmほど進んだ鹿曲川が流れる谷間の下之城地区にある。
一応、この城の名称、下之城としたが、これは地名でもあり下之城館というべきなのかもしれない。
城は鹿曲川が大きく西側に蛇行した場所にある東から付き出した岡にあり、南側、西側は鹿曲川が水堀であり、断崖になっている。 さらに南側は東から諸沢が鹿曲川に向って流れ下っており、谷になっている。 一方、東側と北側は岡続きであり堀で区画される。 城は原則単郭ではあるが、東側は副郭と考えられる曲輪がある。 これは県道が通る東側の方が地勢が高いため、防衛上副郭を置いているのであろう。 北側は主郭からの深さ5m、幅20mほどの堀@となっている。 ここは諸沢が分岐して流れていた跡でもあるだろう。 堀は明確ではなく、堀底まで民家となっている。 東側の副郭は本来、主郭と一体のものであったのだろうが、両者の間に堀Bを掘ったので独立した曲輪になっている。 堀底からの高さは5mほど、一辺30mほどの三角形をしている。 上は墓地などになっている。 主郭は副郭との間にある虎口Aから堀底から入る。 堀に面し土塁Cがあるが、幅は広い。 虎口の北側の土塁は湮滅しているようである。 |
主郭内D、Eは広い。
北側が突き出た形の凸型をしており、170m×70mほどの長方形に40mほどの付き出しが付くような感じである。
主郭の付き出し部分には住宅がある。
曲輪内は畑であり、河原石がゴロゴロ転がっており、畑としては使いずらいのではないかと思う。
曲輪内西側に緩く傾斜している。広い曲輪のため、居館を置くには適した場所である。
@北側の道路は堀跡であるが、諸沢の 分流路跡だろう。 |
A主郭には堀に面した虎口から入る。 向こうは副郭。 |
B主郭(左)と副郭間の堀切 |
C主郭の堀側に構築される土塁。 | D西側から見た主郭内。内部は畑である。 | E東側の虎口から見た主郭内。 西に向かって傾斜している。 |
ここに城を置いたのは望月氏であり、後、望月氏は南の望月城に移転し、一族の諸沢氏が居住したという。
望月一族は馬の生産技術に長けた一族であり、東の御牧原で馬の生育をしていたのであろう。
しかし、戦国時代、武田氏の侵略に会い落城したという。
祢津城(東御市祢津)
上信越自動車道東部湯の丸ICの北700mにとても目立つ三角形の山がある。
山頂を見ると郭がはっきり見える。これが祢津城(下の城)である。
下の写真は東部湯の丸SAの駐車場から見た祢津城である。山頂の本郭がはっきり見える。
上信越自動車道を通る度、気になっており、いつか行ってやると思いながら時間ばかりが経ってしまい、2004年11月、やっと登城が実現した。
山の標高は826m、IC付近の標高も700m近くあるので、余り高くは見えないが比高は130mある。 ICからは直ぐ近くに見えるが、登城口まで行く道が結構わかりにくいし、案内板もない。 こういう場合は地元の人に「城山」に行くにはどうしたらいいのかと訪ねるのが一番。 親切に教えてくれる。 地元の城を遠方から訪ねてくれるのを歓迎してくれているのだろう。 この城の最大の見所は右の写真の城背後の堀である。 堀切が横堀状になり、S字を描きながら斜面を下り、途中で他の竪堀が合流する。 写真は竪堀となって斜面を下るところである。 |
南東の山麓に西宮児童公園があるので、そこの前の空き地に車を止めるのがベストだろう。
もっと先まで車で行くことはできるが、軽の4駆車以外は余りお勧めできない。狭いし、舗装されているため、秋は落ち葉でスリップしやすい。
舗装が途切れたところに駐車場があり、城址の標識がある。
ここからつずら折の道を高度差で100mほど登ると本郭周囲の帯曲輪に出る。 本郭は楕円形であり、周囲に高さ1、2mの土塁がある。 |
本郭内部。東側に櫓台のような高ま りがある。 |
櫓台から東側の背後を見ると腰曲輪 と堀切がある。 |
本郭の南側には腰曲輪がある。 はるか下に東部湯の丸ICが見える。 |
本郭東の腰曲輪下の堀切。 | 二郭南東側斜面には腰曲輪がある。 | 二郭東端は鋭い切岸になっている。 |
切岸は石垣で補強されている。 | 二郭東の堀切は横堀になる。 | 背後に祢津上の城が見える。 |
北側の一段高い土塁の北側は4m位の切岸になり、幅6m位の腰曲輪となる。
さらに北側に幅15m位、深さ7mの堀切があり、東西の斜面を竪堀が下る。
この堀切の北側が二郭である。ここは台形をしており、結構広い、本郭側の東西の幅は20m、南北30m位あり、平坦である。
二郭の北は10m位の落差がある切岸がある。上部は石垣で補強されていたようである。
その下に全面に三日月状の土塁を持つ腰曲輪がある。東側には曲輪が2段ある。
土塁を持つ腰曲輪の北側は深さ10mの大堀切があり、西側は豪快に斜面を下り、東側は竪堀がやや南にS字状にカーブして斜面を下る。
何故か堀に大岩が2つある。工事でも動かせなかったのだろうか。
竪堀の南側は腰曲輪から延びる土塁がある。この堀切の北側は土塁があり、さらに北側に曲輪がある。
その北は凸凹の地形であり東西の斜面に竪堀が2条下り、東側に下る竪堀は堀切から下る竪堀に合流する。
この凸凹した場所はどうも井戸ではないかと思われる。当然ながら侵攻の障害にもなる。
この北側は登りとなり、なんと畑になっている。軽トラがあり農作業をしている人がいる。なんじゃこれという風景である。
この先にも遺構があるのかどうか不明であるが、この先には祢津上の城に続く。
祢津氏の城であるが、居館は現在、祢津小学校西側の字古御館の場所という。
この詰めの城がこの祢津下の城であり、さらにその尾根を登ったところに上の城がある。
上の城は熊が出没すると現地の人が言っていた。3日前に天城城で熊に出くわしたので行くのを止めた。
祢津氏は信濃源氏海野氏の流れというので真田氏と同系の一族である。しかし、この説は信頼性に乏しい。
祢津氏が記録に登場するのは南北朝期であり、祢津掃部助、祢津越中守が新田義貞に従い活躍した。
次に観応の掾乱では、祢津小次郎(行貞)、祢津孫次郎宗直が、足利直義の下で戦い、乱後は足利義詮に仕えている。
信濃の戦国時代の幕開けとなる大塔合戦には祢津一族から祢津美濃入道、祢津宮内少輔、祢津越後守遠光、祢津氏の一党として淡路守貞幸、右京亮宗直、上総守貞信らが参戦したことが大塔物語に記述されている。
永亨二年(1440)の結城合戦には祢津遠江守が出陣している。このように祢津氏は南北朝時代からこの地に勢力を持った一族であったようである。
祢津城はこの頃築かれたものと思われる。
戦国時代になると海野一族は武田、村上、諏訪連合軍に攻められ、海野一族は壊滅状態となるが、祢津氏は天文10年(1541)、元直のとき武田信虎の軍門に降る。
元直の跡は次男の政直が継ぐ。天文14年武田信玄の麾下に真田幸隆とともに加わり、諏訪攻めに出陣。
永禄10年(1567)上州箕輪城の在番となり、本領に加えて上州小鼻も領する。
しかし、天正3年(1575)嫡子月直は長篠で戦死。天正10年の織田信長の甲斐侵攻では、飯山城に在城しており上杉景勝に援軍を求めている。
武田氏滅亡後は徳川氏に属し天正11年、家康より甲州黒沢、駿州厚原に350石の知行地を得る。
以後、徳川氏家臣となり天正17年(1589)の吾妻合戦に出陣し上州豊岡の地を拝領した。
ちなみに、政直の妹は信玄の側室となり、信玄の七男信清を生んでいる。
徳川氏に帰属し、この地を去った頃、廃城になったものと思われる。
政直の家督は甥の信忠が継いだが、上州豊岡の地は末子の信政が継承し、慶長7年(1602)5000石の加増で一万石の大名となった。
信政には二人の男子があり、長男の政次には男子が無かったため、二男の信直がその跡を継いだ。
しかし寛永3年(1626)当主信直に跡継ぎがなく断絶してしまう。
一方、信光から分かれた信光の子信秀は、真田信幸に仕え3500石の知行を得、大坂夏の陣にも出陣し、以後、真田氏の家臣として存続した。