尾野山城(上田市生田)36.3603、138.2698
この城には因縁がある。
2016年11月、車で攻略に向かった。
丸子から北西の須川湖方面に県道186号線を登って行く。
城に行くには狭い尾野山集落内の道を通る必要がある。
本当は軽トラが望ましいのだが、そう都合よくは行かず・・そして、脱輪。
JAFさんのお世話になってやっと脱出。
時間ロスもあり、こうなると攻城どころじゃなく撤退の憂き目を見た。
あれから 7年、2023年11月、リベンジの時が訪れた。
しつこい!執念深い!

↑ 南側、丸子城側から見た城址。この方面に見えるように真田昌幸は尾根上に旗を林立させ、味方を鼓舞したと思われる。
今度は集落内を通らず、ちょっと離れた場所に車を止め、歩いて城に向かった。
そして何とか攻略に成功!

この城は第一次上田合戦の後半戦に登場する城である。
この合戦、よく知られているのは前半戦である。
上田城におびき寄せられた徳川軍が上田城からの反撃と伊勢崎城からの別動隊の挟み撃ちに会い、大打撃を受けた「神川合戦」が有名である。

しかし、大損害を受けたといえ徳川軍は大軍である。
軍事力は真田軍よりはるかに優位。今度は支城の丸子城を攻める。
丸子城を攻めることで、後詰めに出てくる真田軍をたたこうと考えたのだ。
そして目論見通り、真田軍は上田城を出て、丸子城の救援に向かう。
率いる真田昌幸が入ったのがこの尾野山城である。
丸子城は南に約3qである。ここまでは徳川軍の計算通りである。

↑ 尾野山城から見た真田軍が籠る丸子城。

しかし、うかつには手が出せない。
何しろ相手は真田昌幸である。
どこかに罠が?怖さが先行しているのだろう。
名前だけで相手をビビらせ勝ってしまうのは武田信玄、上杉謙信そして真田昌幸くらいだろう。
そんなこともあり、まともな戦いは起こらない。
で、その途中で石川数正の出奔事件などがあり、徳川軍は撤退ということになる。

城は末端にある標高700mの地にある愛宕神社@から、広い尾根が続く。
標高736mの本郭まで約300mの距離があるが、城郭遺構が展開するのは本郭付近の約120mである。
主郭部までの尾根には旗を林立させ、徳川軍を牽制したのだろう。

@城の東端部には愛宕神社が建つ。 A主郭部の入口部、東端の堀切。 B本郭(正面)東直下の堀切
C本郭内部、眺望は抜群であある。 D本郭西下の堀切。 EDの堀切の西にはさらに2本の堀切がある。

主郭部は東端に堀切Aがあり、曲輪を置き、さらに堀切Bを経て本郭となる構造であるが、本郭は土壇のように聳え、堀底から約8mの高さがある。

本郭Cは19×12mの広さ、ここからの上田、千曲川方向の眺望は抜群である。
本郭の後ろ側(西側)は深さ6mの堀切Dがあり、さらにもう2本堀切Eを置く三重堀切構造になっている。
主郭部、南側斜面部にも竪堀、横堀があるが、藪の中である。

この地の土豪、尾山氏が築いたとされる。
尾山氏は始めは海野氏に従い、武田氏の侵略を受けてその傘下となる。
その後の尾山氏の動向は分からない。
(宮坂武男/信濃の山城と館3 を参考。)

鳥屋城(上田市武石鳥屋)36.3054、138.2443 、
今は上田市に合併しているが、かつて千曲川に南から流れ込む支流に依田川があり、丸子町があったさらに南には依田川に西から武石川が流れ込み、その谷が武石村だった。
鳥屋城は丸子の南西約3km、国道152号線から美ヶ原に向かう県道62号線が分岐する旧武石村の入り口、「武石沖」三叉路の西の850.6mの山にある。
依田川(562m)からは約300mの比高がある。
城のある山は北の内村川と南の武石川に挟まれた東西に延びる山地にあり、この尾根状山地の先、北東に根羽城、丸子城がある。

↑ 西側から見た鳥屋城、集落が鳥屋日向地区。ここから大手道が延び、山頂左下の鞍部に出る。

登り口は一般的には山の南下の武石鳥屋集落(標高は620m)から登る。ここが大手道だろう。
660m付近に駐車場あり、ここから比高200mを城のある山の西側の谷沿いに登る。

この道は城のある山と西側の山の鞍部Kに出る。標高は800m、そこが堀切、土橋状になっている。
鞍部を東に比高で50m、登って行くと本郭になるが、途中に曲輪Jが数段ある。
本郭は22×20mの広さがあり、東側以外の周囲には腰曲輪Fがある。

この城の最大の見所は北と南の尾根に展開する堀切群である。
北には曲輪を挟んで堀切が5つ存在する。

本郭直下には3連堀切A、B、Cがあり、曲輪を介して1本D、さらに曲輪を介して北端の堀切Eとなる。
そこまでは本郭からは約30mの高低差がある。
堀は高さと勾配が鋭く、堀底に降りていくのに苦労する。

@本郭内部、地元により整備がされている。 A本郭北の腰曲輪から北の尾根を見ると、堀切の連続! B1本目の堀切、ここまで下りて行くのが一苦労。
C2本目の堀切 D4本目の堀切の北には土塁と曲輪がある。 E5本目の堀切、ここまで下りると引き返して登るのが・・・
F本郭南側の腰曲輪から見た本郭部の切岸 GFの曲輪の南下に1本目の堀切が・・・その先に2本目が。 H南側2本目の堀切の底。本郭から20m低い位置にある。

南には堀切が2本G、Hのみであるが、深さは7〜8mはあるだろう。
その先は岩場Iが続くが小さな堀切が3つほど存在する。

IHの堀切の南に尾根が続き、曲輪、堀切が続く。 J西に延びる尾根が大手筋、数段の曲輪が展開する。 K西に下る尾根鞍部の堀切。本郭まで高度約50m。

南北約150m、西にさらに約50mほど張り出した三角形をした形状であるが、堀の深さ、メリハリが素晴らしい城である。

築城時期は分からない。
木曽義仲が挙兵した依田城がここであるとの説もあるそうであるが伝説の域を出ない。
この地は河川に沿った街道が交差する交通の要衝であり、その監視、管理のため古くから地元の土豪の城として存在していたと思われる。
おそらく大井氏に関わる城であったのであろう。
一度、武田氏が侵攻すると武田氏のものになるが、砥石崩れ後、村上氏奪回後は村上氏の対武田防衛拠点となったと思われる。

比較的有力な記録として武田信玄の家臣駒井高白斎の軍記『高白斎記』があるが、そこには、次のようにされている。
上田原合戦で破れ、さらに天文19年(1550)砥石城で敗れた武田信玄は、天文22年(1553)反撃に出、
「8月1日、信玄が長窪城に着陣、和田城を攻め、城主以下ことごとく打ち取った。3日、鳥屋城へ登り見物(登ったのは鳥屋山砦か?)。
4日、鳥屋城の衆はことごとく打ち取られたという。」さらに5日、塩田城を攻撃、付近の城は戦わずして塩田城は陥落したという。

これによると鳥屋城は天文年中、村上方の武田氏に対する最前線の城として使用されていたこと思われる。
その後、天正13年(1585)第一次上田合戦では徳川軍に寝返った杉原四郎兵衛が籠もるが真田勢の攻撃で落城し降伏、その後家臣となったという。
実際は徳川軍が撤退したため、孤立無援に陥り降伏したということだろう。
要衝の地にある城だけあり、歴戦の城と言えよう。
メリハリがある遺構はその証拠品であろう。
(宮坂武男:信濃の山城と館等を参考にした。)


小山城(上田市武石沖)36.2946、138.2461 
鳥屋城の南約1km、沖三叉路の南約600mにある1辺約400mの三角形をした独立した山にある。
標高は676.6m 東の沖集落603mなので、比高70mほどの少し高い丘といった感じの山である。
武石の谷の出口を塞ぐように存在する。

↑ 西側から見た城址。独立した山であり、車で一周できる。左に鳥屋城がある。

東下の諏訪神社裏から登る道あり、ここを行けば山頂部に出る。
この諏訪神社付近は段々状になっており、居館があったのではないかと思われる。

山頂部に展開する遺構はY字形をしており、登り道は南峯の南端、戸隠神社の碑がある場所@に出る。
この付近は岩尾根状であり明確な遺構はないが、岩自体が防壁として使えそうな感じである。

北に向かうと鞍部Aになるが、ここに堀切があって良さそうであるが特段何もない。
戸隠神社の碑から約100m北が主郭部、北峯である。
30×10mの御岳大神碑がある曲輪Bの北に1mほどの段差上が本郭Cである。
ここは25m×10mほどの平坦地である。
ここから北東斜面部に3段ほどの帯曲輪がある。
尾根は西に延び2条の堀切がある。

@南峯の南端にある戸隠神社碑付近は岩だらけ。
特段、遺構はない。
A南峯と北峯の間の鞍部は平坦であるが堀切はない。
B御岳大神碑の建つ本郭南の曲輪 Cここが本郭であるが・・・藪が・・。

曲輪は平坦ではあるが、漠然としており、メリハリはない。
城としての要素は十分であるが、小規模な軍勢による攻撃なら対応可能であろうが、大軍ならば、この程度では戦闘力がどの程度期待できるか疑問である。
何しろここは独立した山であり、完全に包囲され攻撃を受けたら逃走ができない。
おそらく小規模な軍勢による攻撃への対応を想定した城であろう。
街道筋の監視、物見台、狼煙台程度の役目であったなら十分に機能は発揮できるだろう。

戦国時代はここは大井氏の領土であり、天文11年(1542)の武田氏の侵攻で落城した城の1つであったと想定される。
その後、使われたかどうか?(宮坂武男:信濃の山城と館を参考にした。)