中山城(長野県長和町大門岩井中山)36.2219、138.2452
中山城という名前の城、全国各地にあり、混乱する。
この中山城、中山道(国道142号線)から白樺湖方向に向かう大門街道(国道152号線)が分岐する地にある。
両街道と両道に沿って流れる和田川と大門川に挟まれた南北に長い山にある。

東側(右の写真では左側にあたる。)の大門街道から見た城址、尾根式城郭であることが分かる。 北側、上田方面から見た城址。

中山道は言わずと知れた中世から近世の幹線道路であり、大門街道は武田氏の信濃侵略の幹線侵攻ルートの1つであり、その両道の合流点、交通の要衝に立地している。
城は南北約1.3qある。
と言っても先端部近くと標高900m以上の長さ約500mに城域が分かれ、その間は明確な遺構がない尾根である。

城には先端部から登るが、少し登ると稲荷社がある。
この付近が先端の曲輪である。
位置は36.2325、138.2495、標高は863.7m、和田川と大門川の合流点が690mなので、この場所でも比高は約170mもある。
結構高い。物見台兼大手曲輪のような性格であろう。
南端の曲輪は周囲を石積みで補強される。

@先端部に建つ稲荷社、ここからは合流点が見える。 A稲荷社の南側の平坦地は曲輪であろう。 B Aの周囲は石積みで補強される。

ここから主郭部までは岩場が続く。
水力発電所の送水池付近に堀切のようなものがあるが遺構か分からない。
さらに登って行くと堀切があり、いよいよ主郭部、ここから約500m続く。
堀切を過ぎ少し登ると二郭である。

西側と南側を土塁が囲む16×10mの曲輪Cに続き、西側を土塁で囲む24×17mの曲輪Dがあり、堀切Eで終わる。
少し緩い傾斜の平坦地が続き、二段の曲輪があり土塁の後ろに堀切がある。

C 二郭先端の曲輪、西側、南側を土塁で囲む。 D Cの曲輪に隣接して二郭の主郭がある。 E Dの曲輪の南には埋没した掘がある。

さらにその南が本郭である。
標高は964.4m、比高は約300mである。
本郭H自体は周囲を土塁が囲む13×23mという小さな規模であるが、凄いのはその南北に三重堀切G、Iが置かれることである。
さすがにここの部分の堀切の鋭さは凄い。深さは6mほどある。
この南は尾根が下りとなり2本の堀切があり、城の末端となる。

F本郭部手前の堀切 G 本郭の北側に三重堀切がある。
H本郭内部は狭い。ほぼ全周土塁が覆う。 I本郭背後、南側にも三重堀切が。

これほどの大きな規模を持つ城であるが、城主や歴史は明確ではない。
交通の要衝という場所からしてかなり古い時期には城はあったと思えるのであるが。
伝承では武田信玄が信濃侵略のために取り立てた城としている。
確かに大門街道を抑えるには絶好の地ではある。
(宮坂武男/信濃の山城と館3 を参考。)