和田城(長野県長和町上和田)36.2097、138.2098
中山道(国道142号線)の難所、和田峠の北側の入口、旧和田村の中心地、和田宿の西の山にある。

↑東山麓の国道142号線沿いの道の駅から見た城址。家並みは和田宿

和田峠と言えば、黒曜石の産地であり、旧石器時代から人が来ていたであろう。
和田峠を戦国時代には関ケ原に急ぐ徳川秀忠の軍勢がバラバラになって進軍して行った。
この和田城には真田軍が入ったという噂が流れ、パニックを引き起こしたという。
さらには幕末、ここを天狗党が上方に進撃し、待ち構えた高島藩、松本藩の藩兵と戦いとなった。
幾多のドラマが展開された場所でもある。

和田宿からは西に県道178号線が分岐し、これを行けば美ヶ原である。
城はその分岐点、両道に挟まれた南北に長い山にある。
北端の墓地から上がる道があり、案内板も掲げられている。
この道は古峯社の参道でもあり、神社の社が建つ場所が本郭である。
と言っても、この城、神社付近ばかりが城域ではない。
ここが主郭部ではあるが、ここから南に約500m行った場所に副郭とも言うべき後方監視の砦がある。

城址への道を北端部から登ると細長い尾根状の曲輪@があり、その南端に堀切がある。
ここから南に12×12m、8×8mの2つの曲輪を経ると古峯神社の社が建つ本郭Aとなる。
20×12mの広さで西側を土塁がL型に覆う。
ここの標高は910.8m、東下を流れる依田川の標高が812mなので比高は約200mある。

@北端の細長い曲輪、写真手前側が堀切になっている。 A本郭には古峯神社の社が建つ。 B本郭の南側はおなじみの巨大な二重堀切が。
CBの堀切の先にはが小曲輪が4段重なる。 D 主郭部はCの小曲輪群の背後の堀切で終わる。 E主郭部の南に続く尾根には竪堀が何本も東斜面に下る。
F 三郭(副郭)北の堀切 G 三郭(副郭)直下の二重堀切 H 三郭(副郭)南の横堀

本郭の南側には壮大な二重堀切Bがある。
深さは約5m、幅は約20m、その南は曲輪Cが4段になっており、全長約50m、南端を二重堀切Dで仕切り、その南にも小曲輪と堀切がある。
いずれの堀切も東斜面を壮大な竪堀Eが下る。
一方、西側は急勾配であるため竪堀はない。

ここから南に細尾根が約500m続き、少しづつ標高を上げる。
尾根東斜面には7本竪堀が下る。
副郭である三郭近くになると堀切Fが現れ、さらに二重堀切Gがある。
この先が主体部である。

位置は36.2056、138.2063、標高は1016.7mである。
北側の主郭部より約100m高い。
山頂部はかなり曖昧な感じである。
東側に腰曲輪があり、南に2本の掘がある。
北側の掘Hは横堀状である。
その先は地勢を下げて行く。

武石大井氏がここに移り、和田大井氏を名乗り築城したと思われる。
その後、村上氏に従うようになったと思われる。
武田氏の侵略を受け天文22年(1553)落城、和田氏は武田氏に従うようになったという。
廃城については良く分からない。
(宮坂武男/信濃の山城と館3 を参考。)