布袋ヶ岡城(栃木県都賀町)36.4490、139.6991

東北自動車道西方PAの西1.5q、国道293号線と県道37号線が交わる大柿交差点の南西に見える標高188mの要害山が城址である。

↑北東側から見た城址。右下に見える植物園から登れる。山頂部の木のない部分がHの曲輪

山頂部から東に下る尾根一帯に曲輪が構築される。

本郭は普通、一番高い場所、すなわち山頂部Fであるが、この城、山頂部は狭く、物見の場のような感じである。

本郭と推定される曲輪は山頂Fから東に比高で約40m下った曲輪TDと思われる。
この曲輪は80m×50mと広く周囲の切岸も急こう配である。
高さは約7mある。

山頂から下る尾根筋の両側には横堀Eと帯曲輪が構築される。
さらにその東下に段々状に曲輪U、VB、Wが構築され、曲輪T、U間、V、W間には横堀Cがある。
曲輪V、W内部は椎茸栽培場になっている。
曲輪UからWの南北斜面には帯曲輪、横堀が構築される。

末端は土塁と堀Aを介し民家であるが、ここが城主居館@である。
一方、山頂部からは南北に尾根が延び、北側の曲輪Hからは真名子城、西方城がよく見える。

南側は標高171mの尾根鞍部G周辺に堀切を数条置き、南端の標高190m地点に南側を見る物見台のような場所がある。
@東の麓にある柏倉家、城主末裔であり、居館に今も住む。 A居館跡西の堀。左が四郭。 B三郭(左)と二郭間の切岸
C本郭東下の堀?土塁付きの曲輪に見えるが・・・ D本郭内部、広く平坦である。 E本郭から山頂までの尾根の南斜面には横堀がある。
F山頂の曲輪は物見台程度のもの G山頂に続く尾根には堀切が数条ある。 H山頂部北側の曲輪からは北方向の眺望が良い。

↑ Hの曲輪から見た北方向。右側の山は宇都宮方の拠点西方城、左の山は真名子城、さらに北に諏訪山城がある。

なお、城郭遺構がある尾根の北側にも尾根があるが、この尾根には横堀等はあるが、南側の尾根に比べると遺構は乏しい。

皆川氏の城と言われる。永正年間(1504-21)皆川成勝が整備拡張し、城代に柏倉兵部左衛門(現在も裾野にある家は柏倉さんである。)を置いたという。
皆川城は南南西約5qに位置する。天正16年(1588)宇都宮、佐竹連合軍が北条氏に下った皆川領に大攻勢をかけ、諏訪山城を落とされた皆川広照は布袋ヶ岡城に退却するが、ここも落とされ廃塵に帰したという。

城へは西側の栃木植物園側から登るらしいが、柏倉家の脇から登った方がよいと思われる。
(「とちぎの古城を歩く」「図説 栃木の城郭」を参考にした。)


神楽岡城(栃木県都賀町)36.4513、139.7232
東北自動車道西方PAの南側の南北に長い独立した岡が城址であり、西側を東北自動車道が通る。
岡の標高は100.6m、比高は25〜30mの緩やかな岡である。

↑ 東から見た城址のある岡、正面やや左に見える墓地がイラストの@、ここから城址に行ける。

城域は東西約80m、南北約450mあり、北側エリアが主要部である。
本郭は約100m四方あり、南側に二郭、三郭、馬出がある。
そして少し離れ、南に三宮神社Hがあり、神社境内も城域であろう。
本郭の北側には曲輪はない。


本郭が岡北端に位置し、岡の傾斜も緩いので本郭C周囲には深さ4〜5m、幅10〜15mの巨大な堀Dが回る。
この堀は二郭、三郭の西側も包み込みE、馬出の堀Fに合流する。
当時は埋没も進んでおらず、さぞ凄い規模だったと思われる。

南側に展開する二郭、三郭はだらだらとした感じである。
各曲輪間には堀Bがあったがかなり埋まっている。
馬出は20m×40mの大きさであり、角馬出である。
三郭からは木橋がかかっていたのだろうか?
角馬出となると北条氏から築城技術者が派遣されていたのだろうか?

この南東側は抉れた感じで畑や墓地等になっているが、ここはオリジナルのままか疑問である。
城内にはあちこちに古墳があり、一部は物見台に使われているようだが、破壊されたものは少ない感じである。

@南東側の抉れた場所が入口。ここはオリジナルか? A三郭南側の堀に通じる東側の堀 B本郭南の堀なのだが・・埋もれている。
C本郭内部、薮度はそこそこ。 D本郭周囲を回る壮大な横堀 EDの横堀は二郭西側に回り込む
F南側に位置する馬出先端を回る堀 G城内各所には古墳がある。 H岡南端にある三宮神社の地も城域であろう。

西方神社の社伝によると、西方氏が築いたといい、観応の擾乱で戦場になったと思われる。
戦国時代は皆川氏が宇都宮を警戒するための城として使ったと思われる。
本郭の広さからして、軍勢の宿営地、陣城のような使われ方であろう。
記録は明確ではないが、天正16年(1588)宇都宮、佐竹連合軍が北条氏に下った皆川領に大攻勢をかけ、諏訪山城、布袋ヶ岡城を落としているが、この時、東に位置する神楽ヶ岡城も皆川方の城であるため、落とされたものと思われる。
(図説 栃木の城郭を参考にした。)