諏訪山城(鹿沼市深程)36.5018、139.7040
旧粟野町の県道37号線沿い思川に大芦川が合流する地点の西側の山にある。
下南摩城が約2q北に位置する。
南下に「無量寿院」という寺院があり、その北側の山が城址である。

↑東下、県道37号線から見た城址、比高約120m!
城は約500m×200mの範囲にあり、本郭は最高箇所(224m)のほぼ北端部に位置する。
東下を走る県道37号線の標高が105mなので比高は約120mである。

無量寿院は一段高い場所にあり、ここの標高が120m、ここに車を置かせてもらい、その西側から山に入る。
配水施設まで石段になっている。
その石段を上がればいいのである。
配水施設が城の南端にあたり、ここまで北から竪堀@が下り、L字形に東に折れる。

ここの標高が142m、竪堀に沿って登る道があり、そこを登るが、この道も竪堀のようである。
けっこうダラダラした道である。

やがて標高167mの竪堀の最上部Aに出る。
竪堀はここから北の斜面に下る。最高地点は土壇状になっている。
南方向を監視する物見台であろう。

ここから東に曲輪は緩やかに下り、大きな堀切Bに出る。
堀切に面し土壇があり、南側は横堀Cとなる。
横堀に面して帯曲輪がある。

@頂上部から下る長大な竪堀がまずはお出迎え。 A @の竪堀の山頂部、北にも竪堀となって下る。
B東に向かうとでかい堀切がお出迎え。 C Bの堀切は東に曲がり横堀となる。

この堀切の少し東からここから山の勾配が急になり、登城路がうねうね曲がりながら続く、屈曲部は曲輪Dになっている。
そしてようやく主郭部の入口、虎口Eとなる。

主郭部は主に3つの部分からなり、南下から東下を覆う帯曲輪Fがあり、ここが三郭。
この曲輪からは東下に長大な竪堀Iが下る。

三郭の西側から北側が一段高く二郭というべき曲輪があり、段差を経てもう1枚の曲輪があり岩盤堀切Gを経て、本郭となる。
本郭Hはほぼ三角形をしている。
本郭から北西下に尾根が下り、堀切がある。

D 主郭部に向かうクネクネ道の途中は曲輪になっている。 E この虎口を入ればいよいよ主郭部である。 F 二郭内部、平坦である。
G本郭南下の岩盤堀切 H本郭内部 I主郭部東下を覆う三郭から東下に大竪堀が下る。

皆川氏の家臣である粟野城主、平野大膳の築城と言われる。
この頃は下野にも北条氏の勢力が拡大し、皆川氏もその傘下に入っていたようである。

そこに天正16年(1588)、佐竹氏の支援を得た宇都宮国綱が攻撃を加え、広照自らが諏訪山城に籠って戦うが、落城。
広照は布袋岡城へ撤退したという。

この経緯から築城には北条氏が関わっていたと言われ、北条氏流の築城技術が見られるという。
また、落城後は宇都宮氏の城となるが、佐竹氏の支援で整備したようであり、佐竹氏の築城技術の影響も見られるという。
いずれにせよ、籠城戦が行われた経験を持つ数少ない城の1つなのである。