大峰山城(茂木町大字小井戸)
茂木城の真北約2qの標高202mの山が大峰山である。その山頂部が城である。
茂木城からはこの山を望むことができる。
逆にこの山の方が高いので茂木城が見下ろせるのである。
↑ 西側から見た大峰山
その山頂部が城なのであるが、今では行く道はない。
かつては道はあったかもしれないが・・・・。(西側に道が延び途中で途切れるので西側から登ったと思われる。)
この山、南側、西側、北側は傾斜は比較的急であるが、東側は非常に緩やかである。
登るなら東下の幻の鉄道、長倉線大峰山トンネルの上にある配水場から登るのが一番であろう。
ただし、結構、距離としては長い。
このルート、比較的藪は少ない。
あくまで「比較的」である。
南側から登るルートは篠竹地獄である。
そこを強行突破したのである。「狂」である。最短距離にはやはり「難」があるのだ。
山の山頂部は平坦で広い。
城は北西から東にバナナ形に湾曲し、少しづつ標高を下げる。
2つの曲輪が確認できるが、東側の曲輪は切岸で仕切られるに過ぎない。
その西側の曲輪が主郭である。
全長は約120m、幅は約30mの広さを持つ。
かつて山之神が祀られていた感じであるが、痕跡はない。おそらく麓に移転したのだろう。
東側に深さ約2m、幅約6mの掘Aがあり、堀に面して土塁がある。
南から西にかけて土塁があり、所々に土塁の欠けがあり虎口になっている。
南東端近くには内桝形虎口がある。
土塁の外側の切岸は高さが2.5mほどあり、横堀が巡る。B
この横堀の外側は帯曲輪があるが、一部土塁を持ち横堀状になっている。
北西端で曲輪は90°曲がり土塁、横堀があり、土橋が見られる。@
その外側は城外である。
北側は帯曲輪が巡り、中央部に坂虎口がある。
総じて、南西方向に厳重に造られ、北側は防御は弱い。
@北西端の掘と土塁 | A東端部の掘と土塁 | B南西側の切岸と横堀 |
南西方向にあるのが茂木城であり、この山から見ることができる。
城内は広く多くの兵士を入れることが可能である。したがって、茂木城を攻める陣城の可能性がある。
この山については、『芳香資料』という明治期の伝承などをまとめた資料に、源義家が奥州征伐の際に、ここに館を構えたという伝承があり、この山の西側の麓に「陣ヶ平」という地名が残っていたともされる。
城は構造から平安時代のものではなく、戦国時代のものと思われるが、この伝承はこの山に城郭が存在することを示唆している。
それが改めて確認された訳である。
陣城の可能性としては康正3年(1456)の足利成氏指示による那須持資による茂木満知攻めが挙げられる。
その要因は成氏に敵対する宇都宮氏攻撃に茂木氏が消極的だったことによるとされるが、真意は不明である。
この那須氏による茂木氏攻撃は3月から12月まで続けられたが、茂木城は落城しなかった。
この時、那須氏は茂木城近くに陣城を築き腰を据えて攻撃したという。
この大峰山城の構造を見れば、その陣城がここであった可能性は非常に大きいと思われる。
その後、この城は何かに使っただろうか?
この城からは茂木城が見えるため、茂木氏が後郷砦、四斗蒔砦からの狼煙等での異常信号を茂木城に中継する役目があったかもしれない。
(2024.3.5調査)
小井戸光福砦(茂木町小井戸)36.5489、140.1885
旧小井戸小学校の裏山、大峰山の南南東約1qの南下に塩田川を望む標高151m、比高約55mの山が城址である。
ここは茂木城の真北にあたり、直線距離で約1.2qである。
↑ 南西側、塩田川沿いから見た城址。中央左手の山中腹にある民家付近から山頂に参道が延びる。
城へは光福集落の山側、山の中腹にある民家(廃屋)に行く道から、参道が山に通じており、その道を行く。
この道を登って行くと曲輪U西下の腰曲輪にある祠@に着く。
この東上が曲輪UBである。祠から北西下に尾根を下ると鞍部に堀切Aがある。
城の長さは約100mあり、東西2つのピークT、Uが主郭で、その間を細い回廊Cで結んだひょうたん形、団子形をしている。
曲輪TDにはかつて祠が祀られていたが、麓に降ろされたようであり、祠の礎石が散乱している。
祠があった周囲を低い土塁が囲っていたようである。
この土塁は祠に伴うものであろう。
@曲輪U(上)西下の腰曲輪に建つ祠 | A曲輪Uから北西に下る尾根鞍部の堀切 | B曲輪U最上部、平坦であるが篠竹で全貌が掴めない。 |
C曲輪T、U間の回廊。遠くに見える山が大峰山城 | D曲輪Tには廃祠跡がある。周囲に土塁の痕跡が。 | E曲輪Tから北西に延びる尾根にある堀切 |
南東下に道が延びるがこれはかつての参道跡であろう。
曲輪T、Uの周囲には腰曲輪があり、曲輪Tから北東に派生する尾根に堀切Eがあるが、風化が進んで不明瞭である。
簡素な構造と風化具合から古い時期の陣城と思われる。
立地と遺構の状態から康正2年(1456)の那須氏が茂木氏攻めに使った前線の砦と思われる。
小井戸堀の内館(茂木町小井戸)36.5471、140.1829
小井戸の五霊神社付近は小井戸堀の内遺跡であり、中世遺物が出土するという。
ここに武家の館があったと思われる。
![]() |
でも館主が誰なのかは分からない。 |
北下から見た五霊神社(右)、正面の山に堀切がある。 | @唯一の城郭遺構の堀切 |