北高岡西砦(茂木町北高岡)36.5214、140.1647
道の駅「もてぎ」から南西の逆川上流方面に県道206号線が通じる。
県道を約1.2q進むと、左手西側に2棟の高層アパートがあり、その西側に急な山が聳え立つ。

↑ 南から見た城址、手前に県道206号線と逆川、城には中央下から薮の急斜面を登るしかない。

この山が城址である。標高141mは比高約50m、山の西には茂木変電所がある。
城に行く道はない。
かつては山頂に祠があり、南西下にある民家付近から参道が延びていたようで、道の跡が残る。
ほとんど藪状態であり、南側の急な荒れた斜面を登っていくほかない。

茂木城と高岡城の間に位置し、南北約100m、東西約40mの規模を持ち、主郭部の曲輪T、Uの南北を堀切A、Bで仕切り、堀切から延びる帯曲輪が主郭部西側を覆う形式である。
南側斜面を登って行くと段々状に3つの腰曲輪が現れ、堀切が現れるが、堀切というより帯曲輪Vの末端が土塁になり、竪堀が東に下っているだけである。
この帯曲輪V、西側から北側にかけて主郭部を覆う。

さらに約3m上に土塁を持つ曲輪となる。
ここが主郭部、曲輪Uである。曲輪Uは曲輪Tを包括し、南北約60m、東西約30mの大きさでる。
曲輪Uの中央部が1〜2m高く、ここが最高箇所、曲輪Tである。
その中央に7m×5mの土壇があり、周囲を溝が囲む。
ここに祠があったようである。
この溝は後世のものであろう。

@曲輪V東端は堀切状になり、竪堀が下る。 A曲輪U東端から竪堀が下る。

曲輪Uの北側は深さ2.5〜3mの切岸となり、下が南側から曲輪Uの西下を周り、北に延びてきたく帯曲輪Vである。
曲輪Vの北端部は土塁があり、東側は竪堀が東斜面を下る。
北は緩い斜面となり、北側は登りとなり、その上に平場がある。

天正15年(1587)、北高岡で茂木氏と益子氏の間で矢口台の合戦あり、それにかかわる茂木側の砦と思われる。
この天正15年、小田原の役の少し前である。国人領主のほとんどは巨大大名に統合され、さらに秀吉が全国を平定する直前の頃である。

B主郭である曲輪Tには祠が祀られていたらしい。
土壇の周囲にコの字形に溝が巡る。
C曲輪U(左)と北下の帯曲輪V。

戦国時代中期には各地でこのような領地争いによる合戦が見られたが、関東の片田舎では天下の趨勢に全く無縁の領主同士の領地争いによる合戦がまだ行われていたのである。
そんなことをしていたので、当事者の笠間氏、益子氏とも戦国時代を生き抜くことができず滅亡してしまうのである。

この戦い、元はと言えば宇都宮氏一族の笠間氏と益子氏の領地争いが原因である。
それが近隣の領主を巻き込んだ戦いに発展、結果として益子氏と茂木氏がぶつかることになったという。
逆川の上流方面、木幡、飯は益子領であり、逆川方面からの侵攻に対して茂木城を守る城の1つであり、東の東砦、南側の高岡北城とは一辺約500mの三角形を描く配置となる。
さらに南に対益子最前線の城、高岡城があり、それをバックアップしている形である。

北高岡東砦(茂木町北高岡)36.5197、140.1690
西砦から逆川を挟んで東側の標高152、比高約60mの山にある。
この山には遊歩道が通じており、南側から登って行くと容易に到達できる。
山頂部はアスレチック広場のようになっており、藪は全くないが、遊び場でもあるため、曲輪の縁部が磨滅した状態である。

山頂の曲輪T@から3方に延びる尾根に段々状に曲輪を展開させるが、曲輪の形状は把握しにくい。
山頂を中心とした一辺約60mの三角形の範囲が主郭部と言えるであろう。

↑ 西下、逆川付近から見た城址、写真右端付近から遊歩道が延びる。

山頂部から比高で6m北東下に平坦地、曲輪UCがある。
比較的広く平坦なのでここに小屋が建っていたと思われる。
頂上部との間に前面に土塁が付いた曲輪ABが2つある。

一見、堀切のように見えるが似たような曲輪が近隣の林城にもあり、同一の築城技術と思われる。
北側に下る尾根Dにも小曲輪の段々が連続するが、やはり風化している。

@山頂部、アスレチック広場なのでスッキリしている。 A北東側にある土塁付き腰曲輪。 B Aの1段下の腰曲輪
C Bから見た北東の曲輪U、ここに小屋があったかも。 D北に下る尾根にも段々があるが、よく映らない。

物見台と思われ、本城も西砦、高岡北城とともに矢口台の合戦にかかわる茂木側の砦であろう。
伝承はない。

ところでこんな里山で遊べれば、子供に取っては最高である。自然に触れ合えるし、色々な遊びができ感性豊かな人間になるだろう。

青梅砦 (茂木町大字青梅)36.5206、140.2341
県道51 号線から桧山方面に向かう道が分岐する青梅三叉路の北の標高185m、比高約45mの山にある。
ここは「ツインリンク茂木もてぎ」(現、モビリティリゾートもてぎ)の南側に当たり、東ゲートと南ゲートの中間地点にあり、山を北に向かえばツインリンクもてぎである。


南東側から見た城址。かなりの急傾斜であることが分かる。
右手の谷津部から登る。

南下を桧山川が流れ水堀の役目を果たす。
城は北から張り出した尾根の先端部にあり、北側以外は急勾配である。
城は南北約60m、東西最大20mという小規模なものであり、山に続く北側に堀切@を置く。
堀切から東下に竪堀Cが下り、自然の谷津に合流する。

@北側の堀切 A主郭は平坦であるが、南側は緩く傾斜する。
B主郭(右側)南下の腰曲輪。 C @の堀切は竪堀となって谷津側に下る。

主郭Aは23m×14mの広さを持ち、周囲に腰曲輪、帯曲輪を置くが、南側は緩斜面となる。
南下の帯曲輪は平坦であり、主郭側の切岸が明瞭である。

北側の尾根筋は幅が広がり緩やかに地勢を上げていくが遺構はない。
南の城里の塩子方面、東の桧山方面、西の茂木方面を結ぶ街道の交通を監視する城であろう。
麓の民家が居館の可能性があるが、城に関わる伝承はないとのことである。