茂木町の城2

飯野金比羅山城(茂木町飯野)
36.5548、140.2325
「芳賀の文化財 城館・陣屋編」の茂木町の北古屋城の説明の中に、「西側の山に「リュウゲンレイ」という物見台があったとの伝承がある。」という記述がある。
おそらく、その城が位置関係からこの城であろう。
「要害」が訛って「リュウガイ」「ユウゲイ」と呼ばれることがあり、この「リュウゲン」もその派生と推定される。
「レイ」は「嶺」(山)の意味であろうか?


↑南側から見た金比羅山城、南下を流れる沢からの比高は約50m。右の杉の木付近に金比羅社が建つ。
新那珂川橋の南約600m、南下する国道123号線は大きく東に膨らむ。
その膨らむ部分の西側の丘が「北古屋城」である。
さらに北古屋城(旧飯野小学校跡地)から西約500mに金比羅山があり、北古屋城から山に祀られる金比羅社に参道が延びる。

この金比羅山が城址である。「芳賀の文化財」の記述と矛盾しない。
城のある山の名前が「金毘羅山」というので一応「飯野金比羅山城」としたが・・・。
「北古屋要害」と言った方が妥当かもしれない。

城は物見台のレベルではない。
面白い形をしており、北側に突き出した部分があり、凸型をしている。

城域は東西約130m、南北最大約100mに及ぶ。
凸型をした主郭の周囲を帯曲輪または横堀が覆う。
帯曲輪の幅は約10mある。
主郭の大きさは東西約80m、南北最大80m、北側が若干高く内部は緩く傾斜しているがほぼ平坦である。
標高は112m、南下を流れる沢からの比高は約50mである。
周囲を取り巻く横堀C・帯曲輪Bは北西側が横堀状(土塁を持つ帯曲輪というべきか?)であり、他の部分は帯曲輪である。

@城址に建つ金比羅社、主郭東の曲輪である。 A主郭東側の堀切と主郭の切岸。 B突き出し部北端の帯曲輪と主郭の切岸
C主郭周囲の帯曲輪は一部土塁を持ち横堀状になる。 D金比羅社の東側にも平場がある。

西側の山続きの部分は堀切ではなく、帯曲輪、横堀の延長となる箱堀で仕切られる。
主郭東側に堀切Aがあり、馬出のような曲輪があり、その東側に金比羅社の石祠@が祀られる。
この曲輪Dは東西約40m、南北約15m、東下へ参道が下る。
城の規模からして物見台レベルではない。はるかに大きい。

北古屋城の西側を守る出城であり、詰の城であろう。
北古屋城は西から東に延びる台地の縁部にある。しかし、台地続きの西側には明瞭な城郭遺構がない。
台地西側から攻められたらひとたまりもない。
この金比羅山に城を置いたのは北古屋城への西側からの攻撃を牽制する意味もあろう。
北古屋城は佐竹氏の城とも言われる。
この金比羅山城、やたら広いので、住民の避難城でもあろうが、佐竹氏の下野進出時の軍勢の宿城の可能性もあろう。

北古屋城(茂木町飯野字北小屋)

栃木・茨城県境の那珂川にかかる国道123号線、那珂川大橋を北から南に渡ると、道路は山に沿って大きく東にカーブする。
このカーブの東端部分、飯野小学校付近に北古屋城があったという。

遺構は住宅地と畑となってほとんど分からないが、土塁や切岸のようなものが所々に見られる。
しかし、これが遺構なのか判断できない。台地末端部が主郭部であるという。

この台地、低地側からは比高20mほどあり、末端部は険しい傾斜を持っている。
台地は末端部に向けて西側から傾斜している。
末端部が主郭部なら台地西側からは丸見えである。
これじゃ小諸城と同じ「穴城」である。

多分、台地の西側には大きな堀がないと成り立たないと思うのであるが、埋められてしまったのか、その形跡も確認できない。
航空写真を見ると南側を通る国道123号線も堀のように思え、かなり西まで城域が広かったようにも思える。

佐竹氏の前進基地であるという説もあるが、佐竹家臣の茂木氏の城であり、那珂川対岸方面の那須氏の動向監視、那珂川下流域への侵攻(そのような可能性があったのか何とも言えない。)に対する牽制と監視の城であろう。

(余湖君のホームページ、芳賀の文化財参考。
航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)
この部分は堀跡だろうか。 岡の所々に土塁跡らしいものがある。 飯野小学校付近が主郭らしいが西側の方が高い。

城峰城(茂木町鮎田)
栃木県茂木町といえば「ツインリンク茂木」が有名であるが、そのツインリンクの西の山にある。
茂木市街地から南東の茨城県城里町の旧七会村方面に県道51号を約2q進むと、東小学校がある。ここから鮎田川をはさんで東にある山にある。
比高は70m、もちろん、道などある訳がない。

左の写真は西側、東小学校前から見た城址である。
頂上部の木がある場所が主郭部である。

山の南側にイタリアンレストランがあり、県道51号線沿いに駐車スペースがある。
そこから、余湖さん同様、北の山に直接登った。

ここを登れば@の堀切に出るのであるが、そこまでの山の斜面がきつい。何がきついって、勾配もあるうえ、広葉樹の山なので落ち葉が沢山ある。
それが滑ること、滑ること。

木の根や枝につかまりながら、ようやく尾根に出る。
尾根にさえ出てしまえば後は楽である。尾根伝いに歩くだけである。
登攀した尾根に@の堀切がある。
深さは1mほど、深さはないが、そこから延びる竪堀がかなり大きい。
しかし、それは自然の谷を利用したものであろう。
その堀切から北に高度で20mほどあがるとピークがあるが、このピーク、物見には使っていたとは思うが、特段、何もない。平地となっているだけである。
ここから西側に幅8mほどの平坦な尾根が続き、途中で北に曲がって急坂となる。

肝心の城の主要部はこのピークの北東側である。
尾根を北東に向かうと鞍部があり、その先に二重堀切Aがある。
この先が2段ほどになり、頂上部が主郭である。30m×40mほどの楕円形、切岸はしっかりしている。
周囲には帯曲輪Bが巡り、東の尾根に続く部分は小曲輪を介して堀切がある。

 主郭の北側は尾根に曲輪が何段も重なる。数えてみたが6段ほどある感じである。
結局、古臭い形式であり、規模も小さい。位置的に七会方面を監視する城である。
@ 南側の竪堀から見た@の堀切 A 二重堀切
B帯曲輪と主郭の切岸 C東に続く尾根から見た主郭部
「芳賀の文化財」では、延文元年(1359)、結城氏と戦って廃城となったという伝承があると書かれている。

多分、南北朝のころの話であるが、果たして結城氏がここで戦いをしたのかも分らない。

とても戦国時代まで使っていたとは思えないが、可能性があるとすれば、笠間氏の領土だった七会方面に通じる街道筋を監視する城ということになる。

しかし、佐竹氏家臣の茂木氏が笠間氏と対立することはあったとは思えないが。
なお、この麓の地名はセオリーどおり「堀ノ内」である。

(芳賀の文化財、余湖くんのホームページ参考)


城峰北城(茂木町林)36.5196、140.2106
林城と同じ山系の南西端、県道51号線に隣接して城峰城36.5183、140.2110がある。
その城峰城、東に続く尾根が平坦で広い。
ここも曲輪だったのかもしれない。

この尾根上、幅が約15mある。
兵や避難した住民の宿営も可能と思われる。

その尾根は北に曲がり、さらに北方向に延びていく。
その先に林城がある。直線距離は約800mなのだが、かなり尾根が複雑であり、尾根伝いに行けば、その3倍程度の距離となるであろう。

林城と城峰城の関係は分からないが、お互いが監視する範囲をカバーしあっていたように思える。
また、1つが北西方向に分岐して延び、城峰城とは谷を介して北側の山になる。

この山、いったん下りになり、標高130m付近が鞍部になる。
そして再度盛り上がり、標高は150mとなる。

北城はその盛り上がった部分に位置する。
城の位置する場所は城峰城からは谷を挟んで直線で150mの距離にある。

標高は城峰城が15m高く、北城を見下ろせる位置にある。
城は基本的に単郭である。

東側尾根続きの部分に深さ約3m、幅約7mの堀@があり、堀に面して土塁がある。
10m西側、少し高くなった場所が主郭?であり、東西約40m、幅約15mの広さがある。
南側に1条、北斜面に数条の帯曲輪がある。

西側は低地部に向けて高度を下げ、1mの段差を置いて突き出し約4〜5mの9条の小曲輪が確認される。
この曲輪は北斜面の帯曲輪につながっていると推定される。
一番下の曲輪の北側には竪堀がある。

@東側の堀切、立派な遺構はここくらい。 A主郭内部、けっこう平坦である。

この城、東側の堀@以外はたいしたものはない。
城峰城の出城であり、城峰城からは北城のある山は鮎田川北方面が死角になって見えないので、視界を補完する目的があったと思われる。

若宮城(茂木町増井字古館)
茂木市街地の東部、増井地区にある。茂木城からは東に1kmの距離である。
この地区で茂木城方面から延びた岡が途切れ、岡の下で国道123号バイパスが旧道に合流し、さらに茨城城里方面に行く県道291号線、51号線、北に行く県道27号が分岐する。
その交通の要衝を抑える城であったと思われる。

この岡、三段くらいの構造になっており、北側の最高箇所部分の畑が「古館」という地名であり、ここが館跡であったというが、ただの岡であり、土塁もないようである。

耕地化のため、破壊されてしまったのかもしれない。
南を流れる逆川からの比高は40mほどである。
館の北側には帯曲輪の跡が認められる。

左の写真は昭和49年の航空写真である。赤く塗った部分が字「古館」である。おそらくここが館跡であろう。
北西側に虎口跡のような部分が見える。

若宮某という者の居館であったということであるが、多分、茂木氏の家臣かではなかったかと思われる。
城というより、居館といった感じのものであろうか。
かなり古い時期に廃城になったような感じもする。
南西側から見た「古館」 北側に残る帯曲輪

高岡城(茂木町木幡)
茂木町の南部、県道206号線と芳賀広域農道が交差する木幡交差点の北東側の山一帯が城址である。
この地は道の駅「もてぎ」から約1.5km南に位置する。
伝承では茂木氏の隠居城であるというが、そんなことはない。
逆川を挟んで西側に木幡城がある。その距離、わずか700mという至近距離である。

この木幡城、益子氏の城というので、ここは境目の城である。
従来から茂木氏と益子氏は領土境界でもめ、仲が悪い。常に緊張がある地であったのであろう。
そんなところに隠居城は造らないだろう。ここは境目の城であったはずである。
その高岡城であるが、岡の北西端にある「日枝田ノ上神社」の南東の山という。

まずはこの日枝田ノ上神社に行く。
岡を20mほど登れば神社であるが、この神社、行ってびっくり。
これは城である。
南側には堀切のような場所があり、南東側は高さ4mの傾斜のきつい切岸となっている。

境内周囲には土塁があった感じの高まりとなっている。神社の南東側は窪地のようになっており、その先に畑になっている平地が続く。
この畑で作業していた方に城のことを聞くが、「城なんて、知らねえなあ」、もう1人は「聞いたことあるような気もするけど・・」とのことで曖昧。
まあ、とりあえず行ってみるかと山に向かうが、登りになる部分が虎口のようになっており、その手前に半分以上埋められてしまった堀の残骸と思われるものがある。
さらに進んで行くと、道が2つに分かれる。(結果として右に進めば郭Vである。)ここで左の上り道を選択。
ここを進むが、藪ばかり、曲輪という感じでもない。
その途中の藪の中が曲輪であったらしいが、藪でさっぱり分からない。
この西側下8mに平場が見える。ここが郭Vであり、南側の谷沿いに土塁が西に走る。
一方、山側の道を進んでいくと横堀状の場所に出る。

どうもかつては、この横堀を農道として使っていたようであるが、堀底道でもあったのであろう。
この横堀の東側が切岸になっている。
この横堀はそのまま、本郭Tに至る。

本郭はかつては畑であったようであるが、耕作はとっくにやめたようであり、半ば藪化しかけている。
60m四方程度あるようである。南側が一段高いようであるが、良く分からない。

この本郭の南側の藪を突破すると杉林となる。この杉林に中が郭Uである。
東西80m、南北30m程度の広さであり、若干、西側に傾斜しており、2段になっている。
その先端近くにかぎ型に堀と土塁がある。
この堀はかなり立派であり、深さ5m、幅10mほどの大きさがあり、総延長は60mほどある。

この堀の西側にも曲輪がある。一方、ここの南側が谷状になっており、ここも曲輪状である。
その南側の尾根にも堀切と曲輪があるようである。(花粉症の発作が酷くなり行ける状態ではなかった。)


西側から見た城址。
本郭Tの西側の横堀。かつては道だったらしい。 本郭T内部はかつては畑であったが、今は藪。 郭U内は杉林で藪は少ない。
郭Uの西側に立派な堀がL形に存在する。 西側にある郭V。
内部は植林されているが管理されていない。
郭Vの南側には土塁があり、その後ろは谷津。
城側から見た日枝田ノ上神社。これ城じゃない? 神社の南側にこのような土塁と堀が・・。 神社の切岸。城郭のようである。

以上が高岡城の概要であるが、かつては畑などに使われていたようであるが、藪化がかなり酷い状態になりつつある。
城の曲輪は広く、居館を兼ね、倉庫などもあったものと思われる。
日枝田ノ上神社までの間の畑も家臣の住居が有った感じがする。
日枝田ノ上神社の地は出城で間違いないものと思う。

(芳賀の文化財参考。航空写真は国土地理院の昭和50年撮影のもの)