須賀川横山館(大田原市須賀川)36.8310、140.2440
東の山を越えると茨城県大子町の佐貫地区である。
この城も2023年末に見つかり2024年2月に確認した。
この谷には押川が南流し、大子で久慈川に合流する。

↑西側、県道13号線から見た城址、左の山が本城、右の山が南出城。両者は尾根を東に迂回すると繋がる。山裾を押川が流れる。

押川に並行して県道13号線が通り、本館前で西の那珂川町大山田方面に小元峠方面への街道が分岐する。
県道13号線を北西に進むと、須賀川要害がある。
この城は佐竹氏の勢力が拡大した時、那須領を狙う最前線基地として整備したものである。
当然、本館も佐竹氏の那須領進出に関わる城と考えるのが妥当であろう。
おそらく佐竹氏は古くからの佐竹領であり、多くの城館が密集する佐貫地区から山を越え、まず、ここに進出し、その橋頭保としてこの城を築き、須賀川を制圧し、須賀川要害を築き、大山田に進出して行ったのであろう。


@ 城の東端の堀切。
 この先、東に続く尾根上に道が延びる。

本館は押川の谷を西に見る東の標高327m、押川からの比高約80mの山にあるが、館から東に続く尾根には尾根上に歩きやすい道がついているのである。
場所によっては土橋状になっている所もあり人の手が入っていることが確認できる。
そして、ピーク上は物見台のように人工的に削平されているのである。
城の後方援護の物見も兼ねているのであろう。
この道が行きつく先が佐竹領である佐貫地区なのである。

A主郭内部、篠竹で見通しは良くない。 B西に下って行く竪堀状横堀。草もなく綺麗である。 C主郭(左)直下の腰曲輪。

館は東西に延びる尾根上に約150mにわたり構築される。
東端の堀切@は深さ約4m、幅約10m。
その西側が主郭部であるが、幅10〜15mの曲輪Bが西に約60m続き、本郭に相当する場所に出る。
残念ながら曲輪内は篠竹が多く、全く見通しが立たない。

西端部に出ると、段々に重なった曲輪が6段ほど展開し、その南側に曲輪Cと竪堀状に傾斜した横堀Bがある。
この部分は藪が全くなくきれいである。
さらに麓まで下るが、斜面は急になり、しかも藪が酷くなる。
降りた所に押川が流れ、水堀の役目を果たす。

(南出城)

なお、館からは北と西はよく見えるが、南側は山があり、押川の下流である南方面がよく見えない。
このため、南側の標高330mの山(36.8294、140.2444)に出城が存在する。
出城には本城の堀切@の東の尾根を進みGのピークから南に大きく迂回して行く。

ピーク上は削平され平坦になっている。
柵を回せばそのまま砦にもなる。
現実に中継所のような役目もあったのであろう。
尾根上は削平されており通路のように歩ける。

ピークGから東に続く尾根上Hも道のようになっている。
東に向かえば佐竹領の大子の左貫である。左貫との連絡路でもあったのであろう。
南出城南端の切岸 南出城の主郭部 南出城の東側の堀切

出城は後方に堀切Fを置き、前方を鋭い切岸Dに加工し、その間の山頂部Eが主郭なのであろう。
極めて簡素な構造のものに過ぎない。
物見の場なのでこの程度で十分なのであろう。

G本城と南出城間のピーク、きちんと削平されている。 HGのピークから東に向かう尾根。
ここを行くと左貫に通じる。