上境要害(那須烏山市上境)36.6456、140.1798
烏山城の南東約3q、那珂川の東岸の山にある。山の北側を県道12号線が通る。
ここを東に行けば、佐竹氏の烏山侵攻の拠点である常陸大宮の大岩である。

一方、山の東下を県道171号線が通る。ここを行けば茂木の河合である。
いずれも佐竹氏の軍勢が烏山に侵攻するルートである。
この城は2つの街道の合流点を見下ろす位置にあり、西は那珂川に面する。
佐竹軍の侵攻を監視し牽制する目的であることは明白である。

城は南から街道合流点の北側に延びる尾根の先端部近くに位置し、主郭のある場所の標高は167m、北下からの比高は約80mである。
山の西側はだらだらとした緩い斜面であるが、北側、東側は急斜面であり、沢が東側から北側を渓谷を造って流れ水堀の役目を果たす。南側は細尾根で続く。

↑北下の県道12号線から見た城址。どの方向からも行きにくい。

この城には城南東の植林した斜面の作業道を通って主郭の東の腰曲輪に出るルートで行ったのであるが、幸い、棘のある植物が刈り払われた後に行ったので何とか行けたが、タイミングが悪ければ、無理だっただろう。
下山して気が付いたが東下で沢が暗渠になる部分があり、県道脇からそこに取り付けば登れそうである。
しかし、急斜面であり、このルートでも比高は60mくらいあろう。

西側斜面の勾配が緩く、西側からも行けるが一面の篠竹地獄、そこを突破しなくてはならない。
それ以外の場所からの登攀は藪と沢に阻まれて難しいと思われる。

@主郭南東側を覆う帯曲輪、低い土塁を伴う。 A最南端の堀切 B城内最高箇所にある主郭内部。平坦で藪もない。
C主郭部北端部 D主郭部北下の堀切 E Dの堀切の下部にある帯曲輪から東に竪堀が下る。

山頂部の2段の南北に長い曲輪が主郭Bである。
それぞれ20×8mの広さである。
その東側から南側を帯曲輪@が覆い、南に続く尾根に堀切Aがあり、細尾根が南に続いて行く。

F主郭部北西下の帯曲輪 GFのさらに下に土塁を持つ帯曲輪(横堀?)がある。 主郭部南の@から眺めた県道171号線、比高約80m。

一方、主郭の北に長さ約50mの平坦地Cがある。
その北東端下に堀切Dがあり、さらに下に帯曲輪Eがある。
この下が県道171号線である。

一方、北西側にはも堀切と堀切状の帯曲輪がある。
ここから西下、北下は篠竹地獄の緩い斜面が続くが、最下段部は崖状になる。
その上には段々状になっているが、これは畑の跡か?それとも居館か何かあったのだろうか?

大沢要害(那須烏山市大沢)36.6637、140.1859
烏山城の東約2q、那珂川が大きく東に蛇行した宮原地区から那珂川を渡った東岸、明和園入口バス停の南側、「リュウゲイ」と呼ばれる標高206mの山にある。
山の名称「リュウゲイ」は勿論「要害」が訛ったものであり、山上に城があることを意味する。

しかし、ここに城があったという話はない。
このため登って確認した。
やはり名前の通り、城は存在した。


↑ 北側県道29号線から見た城址。こちら側は崩落している可能性がある。

北下の県道29号線の東は常陸大宮の河内である。
そこは下野進出の佐竹氏の兵站基地を兼ねた要塞地区である。
そこから烏山まではこの街道を通れば約6qに過ぎない。
至近距離である。

この城はその侵攻ルートを監視し、侵攻を牽制するのが目的である。
城には北端の尾根から登って行く。
すぐにかなり急な登りとなるが、そこを突破すると傾斜は緩くなる。
しかし、登りで歩く距離が長く、疲れる。
遺構は全く出現しない。

@西の尾根にやっと現れた曲輪 A @から東に登っていくと堀切が現れる。 B 山の南斜面には帯曲輪が何本も見られる。
C山頂部、ただの平場に過ぎないが・・ D山頂部から下る竪堀・・・自然のものか?崩落か? E南東下の堀切または土塁を持つ帯曲輪

山頂部に近づくとようやく腰曲輪@が現れる。
そこから南の斜面に帯曲輪が延びる。
帯曲輪Bはここから上側に数条確認できる。
少し登ると堀切または土塁を伴う曲輪Aがあり、帯曲輪が延びる。

F Eの下にもう1つ堀切または土塁を持つ帯曲輪がある。 G Fの先、東に綺麗な尾根が続く。山上の古道だろう。 城址から見下ろした県道29号線。冒頭の写真の逆撮影。

この北側が崖状になっているが、これは当時からのものか?
それとも崩落、崖崩れが起きたのだろうか?
山頂部は径約8mの平坦地Cであるが、その周囲には明確な曲輪はない。
東側斜面にも3条の帯曲輪がある。
南東側が尾根続きであるが、堀切が2か所E、F(埋没が進んでおり、土塁付きの曲輪か?)を経て、尾根が南東に続く。
この尾根筋Gは土橋のように平坦であり、山上の古道だろう。