武茂城(栃木県那珂川町)から常陸国までの狼煙リレーの城

那珂川町の旧馬頭町には武茂氏の本拠、武茂城がある。
武茂氏は宇都宮一族であるが、西側は那須氏の領土、宗家とは連絡が取れない位置にある。

那須氏とは本家同様敵対関係にある。
でも独力で対抗しなくてはならない。
必然的に武茂氏は那須氏と犬猿の仲である佐竹氏と提携する。

佐竹氏に安全保障をしてもらうことになるが、次第に家臣化していく。
当然、武茂氏が攻撃を受けた場合は佐竹氏が援軍を送ることになる。
もし、武茂氏が攻撃を受けた場合、狼煙リレーで異常を知らせることになる。
その狼煙リレーは武茂城から国道293号線が通る矢又川の谷沿いから鷲子山を経由して常陸側の高沢城方面に伝えるルートが想定され、高部や檜澤の軍団が支援に向かったのであろう。
しかし、矢又川沿いの狼煙台については何の情報もなかった。
そこで、狼煙台が存在しているのではないかと探った。
で、やはり見つかった。
以下にその狼煙台と推定される遺構を紹介する。

矢又館(那珂川町矢又)36.7216、140.2004
茨城県常陸大宮市から栃木県那珂川町馬頭に通じる国道293号線が伴睦峠を下り、馬頭市街地に向かう途中、国道北側の標高245m、国道からの比高約85mの山にある。
城のある山は南東約3.8qが茨城県境に位置する鷲子山、北西約3.5qに武茂城が位置する。

武茂城から鷲子山はかろうじて、直接見ることができるが、距離が7q以上あり、天候次第で狼煙信号が届かない可能性がある。
矢又館は両者のほぼ中間にあり、狼煙信号伝達の確実性を高めるための狼煙リレーの中継所の可能性がある。
しかし、矢又館の主郭からは鷲子山は見えるが、武茂城は西側の山が死角になって見えない。
このため、必ずしも狼煙台であったかは疑問が残る。

狼煙台であったら、矢又川が流れる麓で武茂城からの狼煙信号を確認して、主郭で狼煙を上げた可能性が想定されるが、非常に非効率である。
山の南山麓付近に城を管理する者の居館があったと思われる。
居館部が危機状態になった時の一時的な避難施設の可能性もある。

@南西に延びる尾根、標高220m地点にある堀切 A主郭内部

城からはここでの戦闘の意図は感じられなく、極めて簡単な構造である。
南西下の居館があったと推定される標高170m付近から尾根を北東方向に登って行くと標高220m地点に土橋を持つ堀切A@がある。
幅は約5m、かなり埋没しているが、竪堀が下る。
ここから主郭TAまでは比高25m、水平距離約80mであるが、緩い勾配の広い尾根を登るが、その間に明瞭な曲輪は確認できない。
ほぼ自然地形である。

B主郭北東側にある堀切からは竪堀が下る。 C主郭の北西下には帯曲輪が巡る。

尾根の最高地点に径約20mの主郭Tがあり、北東約20mに堀切BBがある。
幅は約7m、竪堀が東西に下る。堀切Bの先には遺構はない。

西側に下る竪堀の途中から主郭Tの北西下に帯曲輪UCが延びる。
一方、主郭Tの南東下には数段の腰曲輪があり、祠が2基ある。

翁山神社(那珂川町矢又)
那珂川町の矢又付近で狼煙台を探していて「もしかしたら、ここか?」と思ったのが、翁山神社がある山である。
この山、張り出した尾根の先端にあり、城を置くのに相応しい地形だったからである。

そこで登ってみる。
参道Bがジグザグ登るように付いていて、登城路みたいである。
そして境内Aに。「おお、なかなかいい雰囲気」。あと、山に続く尾根筋に堀切があれば、ビンゴ!なのだ。
それで、神社社殿裏の尾根を進む。
しかし、行けども行けども堀切なんかない。
って、ことで「見事にハズレ!」。ここは始めから神社だったようだ。城ではなかった。
神社を城に改装する例もあるけど、罰が当たるもんなあ。

南から見た翁山神社が建つ山
@翁山神社境内、段々になっており、いい雰囲気。 Aきれいに整備された神社参道。登城路みたいだ。 B社殿背後の尾根は行けども行けども、堀切なんかない!


矢又南館(那珂川町矢又)36.7155、140.1971
矢又館の南、矢又川を挟んで対岸の標高273mの山にある。
比高は約105m、矢又館の南南東約700mに位置する。

北西方向から南東方向に延びる尾根の南東部先端にあり、矢又館がある山に比べると斜面は急である。
どこからアクセスしていたのかは分からないが、北側の矢又館方面から登っていたのではないかと思う。

↑国道118号線から見た館跡。左先端部のピークが主郭T、右のピークがW
尾根沿い北西方向からアクセスするのが一番アップダウンが少なく楽である。
しかし、このルートは登城路としてはかなり長い距離を歩かなくてはならないのでその可能性は少ないと思われる。
山頂部からは木があって視認できないが、地図を見ると、この山からは武茂城、鷲子山の双方が見えると思われる。


@唯一明確な城郭遺構、西に続く尾根の堀切

矢又館も狼煙台の可能性があるが、立地上、狼煙台に相応しいのはこちらの方である。
城郭遺構は極めて少なく、最高箇所標高273mの主郭Tの西側下の尾根に二重堀切@があるだけである。

A主郭Tは細長い平場に過ぎない。 B主郭東下の平坦地U、ここは曲輪だろう。 C西側のピークWは平坦ではあるが、城外だろう。

主郭TAは約18m×6mの広さに過ぎず、東下に平坦地UBがあるが、その東は急坂となり、遺構はない。
堀切の西側に長さ30m×5mの平坦地Vがある。
Vの西側は鞍部となり、その西が標高267mのピークWCがあるがここは城外と思われる。
ここから北に尾根が下る。これが登城路か?

鷲子砦(那珂川町矢又)36.7007、140.2342
武茂城で受けた下野の異常事態は、狼煙リレーで常陸国に伝達されたと思われ、北西の麓の矢又館または矢又南館から上がった狼煙は鷲子山を経由して、高沢城または高沢向館に伝達されたと推定される。
・・という仮説が成り立つには鷲子山に狼煙台施設が存在しなくてはならない。
そこで調査した結果、それは存在した。

北西下矢又館前から見た鷲子山 @鷲子神社元(本)宮社殿、この裏が主郭である。

鷲子山にはふくろうで有名な「鷲子山上神社」がある。
この神社の参道の真ん中を茨城、栃木県境が通る。
砦は神社の地ではなく、大ふくろのモニュメントが建つ北側の山にある。

A主郭には配水タンクがある。 B主郭の東下にある堀切

大ふくろうの後ろに「本宮」@があり、その北側の山である。
標高456mの山頂部には配水タンクAがあり、その東側に堀切ABがある。
堀切のさらに東には平坦地がある。
タンクの北下にも堀切BCがあり、山頂部の西側を覆う。
さらに北下にも堀切跡らしい場所がある。
また、その北下の東の大那地方面に下る県道232号線の切通しも堀切跡の可能性がある。

C主郭北下の堀切 D北側の山の方が標高が高い。山頂に浅間神社が建つ。
しかし、ここには城郭遺構は確認できない。

この切通しの北側の浅間神社Dの建つ山が鷲子山系の最高箇所であり、旭岳という。
ここが城の主体部と思ったのであるが、ここは長さ約50〜100m、幅約15mのバナナ状の緩い傾斜を持つ平坦地になっているだけで城郭遺構は確認できなかった。
ここは高沢城または高沢向館が死角になっていたのかもしれない。

古館(那珂川町馬頭)36.7329、140.1798
ここは狼煙台ではないが、武茂城から常陸国までの狼煙リレーの間にあるので、参考までに掲載する。
県立馬頭高校の東の山が城址である。

↑南下、国道118号線から見た館跡。左の尾根から登れる。
しかし、この「古館」といネーミング、センスがないと言うか、どこにもある名前であるが、逆に言えば、城には名前がなかったという証とも言えるし、城主や来歴が不明という証でもあろう。。
館には西の先端部から上がる道がある。
頂上直下に祠Aがあり、その参道であるが、本来の登城路なのであろう。

@登城路(右)の脇に帯曲輪が確認できる。 A主郭直下に建つ祠

その参道沿い北側に腰曲輪@がある。標高174mの山頂部Bは広く、東側、北側に向けて段々Cに加工されていある。
どこまでが城郭遺構が分からないが、ほど山一帯に段々が確認される。
おそらく、これらは城郭遺構なのであろう。
肝心の土塁や堀は確認できない。
さて、ここをどう解釈すべきか?

B山頂の主郭、内部は平坦である。 C主郭北下の切岸、下に曲輪が重なる。

常陸国から下野に入り、平野部への出口部に立地する点や広大な平坦地の存在から推察すれば、多分、ここは武茂氏を支援する、あるいは下野に侵攻する佐竹勢の宿営所、宿城なのではないかと思う。

松野圷城(那珂川町富山)36.6999、140.1820
那須氏の本拠、烏山と那珂川を挟んで東岸、ここに那須氏と敵対関係にあった松野氏がいた。
その松野氏は戦国時代後期佐竹氏に従う。

その松野氏の本拠が松野南城(36.6983、140.1733、標高191m)である。
2022年11月、ここに16年振りに行ってみた。
しかし、16年前とは比べ物にならないくらい変貌していた。
悪い意味で荒れていた。
藪と倒木だらけで 16年前に訪れた城と同じものか困惑したくらいだった。

南の富山川の谷から見た城址。比高は約110mある。 松野南城から延びる尾根は非常に歩きやすい。

そこから約1q東に城郭らしいものがあるという。
この日、2022.11.12はその城郭らしいものを確認に来たわけである。
その城郭らしいものがある場所、どう行ってよいか分からない。

松野南城は東から西の那珂川の方面に尾根状に延びた山の末端に位置する。
その城郭らしいものは尾根の途中にある。
尾根の標高は200mくらいであり、それほどの標高差はない。
松野南城からなら登ることなく尾根を歩けば行けるのではないかと考えた訳である。
しかし、松野南城までの登城道の荒れ具合から尾根もかなり荒れているのではないかと思えた。

直線距離で約1qなので尾根筋が曲がりくねっていることを考慮すれば約1.5q、少なくとも1時間は要するのではないかとビビった。

@主郭内部は非常に平坦である。 A主郭南東側の切岸。主郭側が若干、盛り上がっている。
ところが、松野南城の東の末端から東に続く尾根、これが幅が広く、広葉樹の林のため、下草もほとんどなく、アップダウンも緩く、快適に歩けるのである。
おそらくこの尾根は道として使っていたのではないかと思われる。
その目標の場所までは約20分で到着した。

単郭であり主郭@は一辺約50m、45m、35mの三角形をしており内部は平坦、標高は213.5mである。
南西斜面に2段の帯曲輪Bが確認できる。
松野南城に続く北に延びる尾根Dの上部は平坦であり、加工されている。
ここも城域であろう。
主郭からは東と西に小さな尾根が派生しているが、この2つの尾根には堀切等はなかった。
B主郭(右)南西下の帯曲輪 C主郭北側の切岸は緩斜面である。 D松野南城方面に続く尾根上は平坦に加工されている。

総じて防御力は大したことはない。
もっとも南側の谷からの比高が約110mあるのでそれだけでかなりの防護力になる。

さて、この城、何だったのだろう。
松野南城とアクセスはできるが、支城とするのは距離がありすぎる。
支城ならもっと近くに造ると思うが、途中にそれらしい遺構はなく、ここまでの尾根はほぼ自然地形であった。

南側、富山川の流れる谷にある油畑集落の住民の緊急時の避難城の可能性もあろう。
または松野南城の緊急時に佐竹氏が送り込む援軍の駐屯地の可能性もある。

この尾根の先、南の富山川の上流は伴睦峠、そこのさらに先は茨城県常陸大宮市の鷲子である。
南西側の帯曲輪から南に下る道があり、途中には炭焼きの跡のような場所がある。
道は途中で消えてしまう。
強引にそこを突破し、麓に降り、伝承等を聞いたら、城と伝えられており「圷城」(または阿久津か?)と呼ばれているとのことであった。