須賀川要害2025(栃木県大田原市)

2025年4月27日、実に20年振りに再訪した。
前回行ったのは2005年2月11日だった。建国記念日だった。

今回は縄張図の作成を依頼されたためである。
20年前に縄張図を描いているが、
さっと見て描いただけなので、精度が悪くてとてもちゃんとした文献に掲載できるものではない。

この間、黒羽町だった自治体が大田原市に吸収合併されている。
茨城から見ると大田原といえば那須に行く途中の町である。
それが隣接市町村になっている。
八溝山山頂も大田原市と大子町の境なのだ。今だにピンと来ない。

この城のある須賀川地区は茨城県大子町に隣接する南北に長い谷であり、押川が流れる。
押川は南流し、東に向きを変え、大子で久慈川に合流する。
同じ栃木県の大田原市街地や黒羽市街地に行くにも明神峠を越えなくてはならず、東の茨城県大子町に行くにも山を越えなくてはならない。
山間の孤立したような場所である。

この須賀川の谷を見下ろす北端部の山にあるのが須賀川要害である。
この城は佐竹氏の城であり、佐竹勢が奥州に進軍する際の宿城であったと言われる。
城の東下には宿があったといい、宿地名が残る。

@大手曲輪群入口部の曲輪に建つ石祠 A大手曲輪の堀切D、ここから遺構が展開する。 B曲輪Wは緩く傾斜する。本郭側に堀切Cがある。
C本郭内部の削平度は良好、下草がほとんどない。 D本郭西の堀切A、幅15m、深さ約5mの見事なもの。 E本郭から南に延びる尾根に展開する曲輪X。
F曲輪Yから見た曲輪X、
斜面部の木が切られ藪化がすすんでいる。
G本郭西の曲輪U。 H曲輪U、V間の堀切B

しかし、立地を見れば、本当か?
佐竹氏が奥州方面に行く時の宿城とすれば、想定する敵は北方向、西方向であり、須賀川の谷は味方の領土である。
しかし、城から見えるのは味方の須賀川の谷である。
味方の領土を見てどうするんだ?

それに敵がいる北方向、西方向には物見とか出城もなう。ともかく山があって見えないのである。
奇襲を受けたら危ない。でも、何の対応もとられていない。敵は来ないと思っている感じである。
これは何だ?

推定としてこの城は佐竹氏が築城したものではない。
おそらく那須一族大関氏等が侵攻して来る佐竹氏を警戒して築いたものだろう。
見ている方向が佐竹氏の軍勢が侵攻して来る東、南方向である。

多分、その想定通り、佐竹氏が大子から須賀川の谷に侵攻し、この城を奪い、その後、宿城に転用したものであろう。
その奪う拠点にしたのが須賀川横山館だろうか。

北方向、西方向を全く強化していないことから絶対攻められないとい自信があったのだろう。
または、もっと先まで制圧しており、攻められる心配がなかったのかもしれない。

20年振りに訪れた須賀川要害、主郭部が全く変わっていなかった。
時間が止まっているようだった。綺麗だった。
主郭部は林に覆われ、下草が生えないのだろう。

しかし、周辺部は酷いものだった。
麓から登る大手道、藪化していてどこか分からないのである。
この城は斜面部に作業道が付けられており、一部、帯曲輪か後世の道なのか分からなくなっているが、その部分が結構、藪化しちゃっているのである。
最悪は南側斜面である。ここは木が切られ日当たりが良くなり藪化が酷い。
特に野ばらが凄いのである。

とは言え、遺構はほとんど完存状態にあるのは嬉しい。
風化も林に守られて進んでいない。で、↓が納品図である。

 

(以前の記事)
須賀川要害(大田原市(旧黒羽根町)須賀川)
 大子から国道461号線を西に向かい馬頭方面に向かう国道と別れ、県道大子黒羽線を進む。
 明神峠に登る手前で県道が左にカーブするが、その西側にある山が城址である。
 この付近は如来という地名であるが、その集落の西側にある山である。

 この付近は栃木県とはなっているが、大子で久慈川に合流する押川の水系であり、黒羽には明神峠を越えなくては行けない。
 このため、この地は栃木県ではあるが、地理的に大子の一部と捉えることができるのではないだろうか。
 城のある山は南西から北東側に突き出ており、北東側に向かって細い尾根状になる。

 付け根は鞍部になっており、この尾根は独立した感じである。山の3方は結構急勾配である。
 尾根の長さは400mほどあり、この尾根上に主郭部を置く。
 主郭部の標高は366m、麓の標高が280mであるので比高は90mほどである。

城へは押川の西岸、人家がある場所から登るのと行きやすいが、この登り口が民家の入口と紛らわしい。
 登り道は山上の尾根から派生した尾根筋にあたり、大手道であったようである。
 この尾根筋を登って行くと堀切に出る。土橋があり、両側は竪堀になる。
 
 さらに登ると直径15mほどの平坦地となる。ここが大手曲輪であろうか。
 この先を西に向かうと道は尾根沿いに回りこむようになっている。
 主郭がある尾根筋に近づくと、主郭部の切岸に曲輪が4段重なっているのが見える。
 この上が曲輪Wに当る。
 
 大手道は曲輪Tと曲輪Uの堀切に通じる。その東側は曲輪が段々に数段重なる。
 しかし、これが城郭遺構かどうかなんとも言えない。
 植林のために平坦化した可能性もある。

東から見た城址。民家の裏辺りから登る
ことができる。
大手道を登るとまず、この堀切に出る。 曲輪U、V間の堀切。
曲輪T、U(右)間の堀。大手虎口を兼ね
る。
曲輪W(手前)と曲輪T間の土橋。 曲輪W南側の帯曲輪。長さ100mほど。

尾根上の主郭は4つの曲輪からなり、列を作って4つが並び、曲輪間は堀切で区切られる。
北から2番目の曲輪Tが最高箇所にあるので本郭と思われる。
北東側の曲輪W側は3mほど下がり、土橋で結ばれている。この間も堀切状である。

 曲輪Wは平坦ではなく、北東側に向かい緩斜面となっている。先端部は高さ5mほどの鋭い切岸になっている。
 この曲輪の南側下3m、さらに5m下には帯曲輪が2段ある。幅は4m程度と狭いがそのまま曲輪Tの東側を弧を描くように廻っている。
 総延長は100m近い。結構しっかりしており、これは植林に伴うものではないであろう。

 曲輪Uは長さが70mあるが、幅は15m程度と細長いが非常に貧弱である。
 小さな堀切を隔ててさらに南西に曲輪Vがあるが、ここも貧弱である。
 曲輪Vは80mほどの長さがあり、先端は一気に高さで10m以上下り、鞍部に至る。
 この鞍部には堀等、防御施設はなく、その先にも城郭遺構はない。この鞍部が城の南端であろう。
 
 この城がいつごろ、誰が築いたかは不明である。
 大子方面から黒羽方面への道沿いにあり、佐竹氏の那須氏攻撃のための宿城ではないかと言われている。
 東側、大子方面に大手道があるのでその可能性はあるが、大関氏の城であり、単なる地形的に東に大手を置いただけかもしれない。
 したがって、佐竹氏の城であったとも断言できない。

 黒羽は那須一族の大関氏の領土であるが、大関氏は那須本家とは結構抗争を繰り返し、佐竹氏とは余り事を構えることは少なかったようである。
 佐竹氏が大関氏に援軍を派遣したこともあった。
 この時の援軍は恐らくこの城を経由した可能性が大きいと思われる。
 地形を上手く利用した城であり、単純な構造ではあるが、それなりの規模もある。
 宿城とすれは2000程度の軍勢は余裕で収納できるであろう。
 この付近の多くの城同様、山の東南斜面に帯曲輪が多いが、地形的理由もあるが、北風を避ける意味が大きいように思える。