本郷館(常陸太田市小島町)36.5100、140.4843
この館が中世にまで遡るかどうかは疑問がある。
場所は常陸太田市南西部、金砂郷地区の南部の水田地帯である。
城館は河合城や藤田館があるが、いずれも平地城館であり、遺構の残存度は良くない。

この付近には水田地帯の中に島のように残った丘が点在し、それらの丘の上には梵天山古墳、高山塚古墳、中野富士山古墳等が築かれる。
それらの古墳の1つに「星神社古墳」がある。

↑南側から見た星神社古墳、写真撮影位置の後ろ側に館跡がある。
この古墳は丘の上にあるのではなく、水田地帯の中にポツンと存在する。
全長約100m、最高高さ8.6mの前方後円墳であるが、墳丘を積み上げたのではなく、小さな丘を削りだして造ったものではないかと思う。
その墳丘に星神社が祀られる。その管理者が「鴨志田」家であり、江戸時代に水戸徳川家からこの地を拝領したという。

その鴨志田家の屋敷が古墳の南にある。
その屋敷が方形館であり、北側と西側に掘が残る。
一辺の長さは約80mある。掘の外側には土塁が見られる。
当然、内側にも土塁があったと思われるが、崩されているようであり、内郭T側の堀に面した部分が若干盛り上がっている。
@北東側の掘、右側が内郭T A西側の掘、右側が内郭T、外側には土塁がある。

掘幅は4〜5m、一部、水が残っている。
掘は内側の土塁を崩して一部、埋められて狭くなっている可能性がある。
北東側に土橋があるが、これが当時のものか、後世のものか分からない。(何となく後世っぽい感じがするが)
東側には掘はなく、水田になっているが、昭和22年の航空写真を見ると掘らしい溝が写っているので、戦後、埋めたものと思われる。
本来、堀は一周していたのは確実であろう。
一見、戦国時代の館のような感じであり、どうやらさらに外側にも曲輪が存在していた感じである。

B西側の掘、ここは水堀、沼状態。 C南東側から見た館跡。水田部分に掘があったと思われる。

と、すれば二重方形館であった可能性がある。
江戸時代に武家屋敷としてこんな巨大な館を新規に築くとは思えない。
戦国時代の武家の館を再利用した可能性があると考えるのが妥当だろう。

ただし、疑念が残る。
館のある場所の標高は13.5m、周囲の水田地帯より1mほど高い程度である。
しかし、館の東に鹿島神社が建つ丘から続く丘があり、標高が18mなのである。
丘上から館内が見降ろせるのである。

河川港を管理する館等であれば、このような立地もあり得るが、普通、このような立地は避けるはずである。
常識的には丘の上に館を構えるはずである。
なぜ、丘から見下ろせる低地に館を設けたか?
周囲の水田を湿地として防御施設としたためであろうか?
それとも武家の館ではなく鹿島神社の宮司の居館だったのだろうか?

(参考)
星神社古墳は、常陸太田市の南部、小島町本郷地区の北西部に位置する。
常陸太田市の南方を流れる久慈川の支流である山田川と浅川に挟まれ、北西から南東に連なる久慈山地の南端に点在する島状の小丘陵の間にある水田の中に1基のみ存在する。
古墳のある場所を江戸時代に鴨志田家が水戸家から拝領したと伝えられていることから、別称「拝領山諏訪山古墳」ともいわれる。

本古墳の南東約750mの地点に所在する古墳時代前期の全長151mの梵天山古墳を主墳とする梵天山古墳群(県指定史跡)は、本古墳とは同地域にあるものの、通称「島」といわれる独立小丘陵に形成されており、本古墳とは立地の上で違いがみられる。
本古墳の現況は、古墳全体が樹木に覆われ、こんもりとした森の景観を呈している。
その中の前方部からくびれ部にかけての4か所に墓地が存在し、後円部には、明治15年(1882)に移築されたと伝えられる本古墳の名称のもととなった星神社(星ノ宮神社ともいう)が鎮座している。
これらの建造物があるほか、前方部の先端及びくびれ部南方に一部改変が認めらるが、全体的には旧状をよく留めている。

また、周溝は、周囲の圃場整備によって目視できないが、『金砂郷村史』によれば「後円部東側に幅1mほどで周堀の痕跡が残っていたというが、現在では用水路に姿を変えている。」と記載されていることから、周溝が存在したことが窺われる。
本古墳は、茨城大学の茂木雅博教授が主宰する考古学研究室により平成15年(2003)測量調査が実施された。
本古墳は、前方部が西を向き、主軸がおおよそ東西を示す、全長100m、後円部径54m、後円部高8.6m、前方部長46m、前方部幅39m、前方部高2.6mを測る県内有数の大型前方後円墳であることが明らかになった。

さらに、前方部と後円部の高低差が大きいうえに、後円部径に対して前方部幅が短く前方部が未発達であることから古式古墳の形態を有していることも明らかになった。
また、以前から後円部において突帯をもつ埴輪片、線刻・透孔(すかしあな)を有する埴輪片、赤色塗彩を有する埴輪片や焼成前底部穿孔壺形土器の破片が採集されてる。
それらの埴輪片の中には、器台形埴輪と想定される遺物もみらる。

これらのことから、本古墳は、古墳時代前期の4世紀代に築造された可能性が高く、伊勢山古墳(鹿嶋市)、王塚古墳(土浦市)、佐自塚古墳(石岡市)、長辺寺山古墳(桜川市)等とともに県内最古級の前方後円墳のひとつに数えられ、かつ、久慈川流域では梵天山古墳とともに最古の前方後円墳である。(茨城県教育委員会HPより)

上利員三峰砦(常陸太田市上利員町)36.5931、140.4445
2024年に確認された城郭である。
利員城の北側、上利員町の東の山にある。
鏡徳寺とは東西で浅川の流れる谷筋を抑える位置関係にある。
北側には谷津を挟んで北400mに鳥井戸物見台がある。
砦のある山の標高は150m、浅川からの比高は約100m、山頂付近に三峰社が祀られていたので三峰山と呼ばれる。

↑西から見た三峰山、堂々たる山であるが、南北に長い尾根状なのである。
この山、西側から見るとずんぐりした形に見えるが、南北の尾根が延びているためであり、実際は南北に長い尾根状の山ある。
さらに、山頂部は東にカーブしているため、上から見ればバナナ状をしている。
山の斜面には結構岩が多く、急斜面である。

管理人、どこをどう間違えたか、岩だらけの急斜面をよじ登るバカをしてしまった。怖かった。
安全に歩けるのは尾根上だけである。
登るには北側から登るのが望ましいが、北端部の民家からも比高は約90mあり、結構きつい。
砦は物見台レベルの簡素なものである。

山頂部Bは径5mほど、その付近に数段の曲輪がある。
北に延びる尾根に三峰社の祠Aがあり、その北下は段々状@になっている。
堀切があったと思われるが微妙である。
三峰社の参道でもあり、埋められている可能性もあろう。

@北に延びる尾根筋には数段の平場があり、
堀切もあったようであり、痕跡が残る。
A山頂のやや北下に建つ三峰社の祠 B山頂部、径約5mの平場になっており、周囲にも曲輪がある。

一方、東に延びる尾根の先は一気に8m下り、堀切Cがある。
その先は細尾根Dとなり、東の山に通じる。

C山頂から東に延びる尾根下にある堀切 D東の山に続く細尾根は細く加工されているようである。

一方、堀切から山の斜面南側に道があり、途中から南に尾根が分岐する。
その分岐点には二重堀切があったようであり、竪堀部だけが残る。
さらに、その先には狼煙台のような径4mほどの窪みがある。
これは倒木跡ではないだろう。
そのさらに南に平場があり、尾根が下って行く。

物見台であり、鳥井戸物見台や赤土館同様、山入の乱初期に浅川上流方向からの利員城への侵攻を警戒した砦であろう。
部垂の乱では利員城の北を警戒するために使った可能性もあるかもしれない。

上利員城?鏡徳寺(常陸太田市上利員町)36.5924、140.4340
ここが城だったと地元では言っている。
で、来てみたのだが・・・。

ちなみに鏡徳寺については次のように書かれている。(出典:沿革誌碑文)
『真言宗智山派の寺院、寺伝によれば大同年中(806~810)、慈覚大師の開山で、自ら本尊十一面観世音菩薩を彫ったといわれている。
昔より安産開運の観音様として厚い信仰を受けている。
後の承久元年(1219)、京都醍醐寺座主、僧・光賓が東国巡礼の際に、五色の紫雲がたなびくのをみて感得され、土中より五仏と円鏡を発見した。そのことから五彿山鏡徳寺と改名したと伝えられている。
その後、一時衰微したが、正安3年(1301)、僧・賢海によって再び中興され、中世期に於いては常陸の国をはじめ会津相馬にかけて十二ケ寺が賢海法流の寺として鏡徳寺の末寺であった。
開基帳によれば、寛文3年(1663)、御朱印十五石、常陸の囲を中心に奥州陸奥の他にかけ、末寺門徒を含め二二五ヶ寺を有していたとある。
しかしながら再度の火災により伽藍什宝等は総て焼失していて現存しない。
昭和9年本堂を再建、その後庫裡、大師堂を建立、近年では本堂の大改修と客殿の建立が行われ伽藍が整っている。』

これだけでは、始めからこの地にあったのか?他の地から移転して来たものかは分からない。

寺の建つこの場所、調べてみると結構要害の地である。
まず、寺のある地付近、北側と南側に谷津が入り込み島のような感じである。
東側は浅川沿いの水田地帯、残り3方はゴルフ場だったが、既に廃業し現在はグリーンに太陽光パネルが敷き詰められている。
中央部に谷津が入り島のような地形が南北に二分され、北側に寺がある。

この寺がある地の標高が90m、東の浅川方面の標高が50mなので比高は約40m、切岸Aが鋭い。
北東に丘が張り出し墓地になっている。

この寺が建つ平坦地には城郭遺構は確認できない。
寺の西側は山であり、登って行くと鞍部Dになる。
この鞍部から丘を二分する谷津Bが派生する。
どことなく堀切のようにも見える。

@ 鏡徳寺境内、ここが城としたら主郭か? A 鏡徳寺の切岸、かなり鋭く城郭級である。 B 寺南側の谷津は巨大な堀のようである。

南側は細長い壇Eがあり、西側は緩斜面となる。
一方、鞍部から北側に登って行くと20m×15mの平坦地CAがあり、神社の社殿がある。
北端は土壇になっている。

ここの標高は132m、木がなければ四方が見渡せるはずである。
ここから眺める太陽光パネル群、異様な眺めである。
この場所は城だったら物見台、狼煙台に最適である。
四方には堀切等の城郭遺構は確認できない。

C寺背後の山の平坦地に建つ神社、果たしてこの場所は? D背後の山の南北間の鞍部、堀切のようなものもある。 E山の南側は土壇のような場所があり、緩斜面が展開する。

結論として、決め手となる城郭遺構は確認できないが、この地、寺のある場所@が城郭の居館部であってもおかしくない。
立地と地形からしてかなりの防御性が感じられる。
そして背後の山が詰めの城兼物見台兼狼煙台といった谷戸式城郭と言える感じである。

浅川の谷の対岸に向館ともいえる鳥居井戸物見台があるのはどういう意味があるのか?
地元では城と言われているが、それは寺背後の山の神社の建つ場所だけを指すのか?
史料などで城郭としての決め手はあるのか?
もし城郭としたらここは「上利員城」と呼ぶべきか?
なお、寺からゴルフ場跡地を横切り久慈川に出る場所の山にあるのが、辰の口砦である。

城とは断言できないが、城とすれば、鳥井戸物見台や辰ノ口砦、赤土館でも述べたように
山入の乱の初期、応永30年(1423)、あるいは31年、白河結城氏の一族、小峰氏が鎌倉公方足利持氏の命で利員城を攻撃しているが、その攻撃ルートが浅川上流方向からであり、それに対応する砦であろう。
なお、部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城背後からの奇襲を想定し使った可能性もある。

赤土館(常陸太田市赤土町)36.6072、140.4422
西金砂神社への参道はいくつかあるが、南からのルートが赤土道である。
この道が表参道だろう。
平安末期、頼朝と佐竹氏が戦った金砂合戦では頼朝軍はこのルートで攻めかかったという。

この地区の中心は旧金砂小学校があった後宿地区であるが、そこから南に約600mに「立野」という地名がある。
後から考えればこの「立野」の「立」は「館」から来ている可能性があるのかもしれない。

その東に東から派生した尾根末端が盛り上がった独立した山がある。
北下は沢が流れる谷である。
山の標高は130m、比高は約70m、山頂に社がある。

↑ 西下の県道62号線から見た城址。下の民家の地が段々状になっており、居館があったか?

西下から登る参道がある。
山頂部は平場であり、祠があり@、周囲には帯曲輪のような場所がある。
よくある光景である。

しかし、北に下って行く尾根を行くと段々状に小さな曲輪Aが重なる。
曲輪は10つあり段差は1m程度であるが明瞭である。
これは城郭遺構である。

一方、山に続く東側は急傾斜であり約5m下に小曲輪が、さらに約8m下が土橋状の鞍部Bになっている。
堀切はないが、鞍部を狭く加工しており土橋のようになっている。

@ 山頂部には祠があり平場になっている。 A北に下る尾根には小さい曲輪が10段重なる。 B山の東下約20mが土橋状の鞍部になっている。

山の南側、西側は斜面が急傾斜であり明確な遺構はない。

この程度の遺構であり、物見台であろう。
浅川沿いの街道を監視する役目であろう。
西下の民家付近が段々状であり館主の館があったかもしれない。

北に下る尾根に小曲輪があることから、この曲輪に旗を立てたのではないかと思う。
それは北から街道を下る勢力に見せ、牽制するためではないかと思う。
となると、この館は南の勢力、すなわち利員城の出城だったと捉えるのが妥当であろう。
山入の乱の初期、応永30年(1423)、あるいは31年、白河結城氏の一族、小峰氏が鎌倉公方足利持氏の命で利員城を攻撃しているが、その攻撃ルートが浅川上流方向からであり、それに対応する砦であろう。
なお、部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城背後からの奇襲を想定し使った可能性もある。
西の麓に居館と思われる場所があり、さらに「館野」が語源と思われる「立野」という地名もあることから、利員城に通じる浅川上流方向の街道を恒久的に監視する役目があったのかもしれない。
(ただし、その伝承がないので何とも言えないが。

鳥井戸物見台(常陸太田市上利員町)36.5968、140.4426
赤土館のある立野地区から南に約1q、南西に鏡徳寺がある。
その東の山が城址である。
とりあえず字名を採り、物見台程度の規模なので「鳥井戸物見台」とした。

↑ 南西下の県道62号線からみた城址、一番高い場所が@に当たる。
山に登る道はない。
ひたすら藪をかき分け突撃あるのみ。
斜面に積もった落ち葉で滑ること、滑ること!
ともかく、悪戦苦闘の末、頂上部に着く。
で、到着した山頂部、そこが城址である。

比較的平坦で幅8mの細長い尾根上が城址である。
尾根は「へ」字形をしており、最高箇所、標高151mの屈曲部が主郭部である。
そこから北西約50mに堀切があり、北東側約70mに堀切がある。
その間、若干の段差がある曲輪がある程度の単純なものである。
一応、尾根の前後を2本の堀で分断し、その間が城域という城の基本的セオリーを抑えている。

@城の中心の曲輪、削平度は良好である。 A北東側の堀切、この先も尾根が続く。 B北西側の堀切。この先、尾根は下りになる。

南西に下る尾根に2つの腰曲輪がある。
一方、北東側の堀切Aの先に尾根が延び、その先に標高172mのピークがあり、さらに尾根が西に延びその先にもピークがある。
各ピークの頂上部は削平されており物見台のような感じであるが、堀切等の遺構は見られない。

ここも物見台程度のものである。
浅川沿いの街道を監視するものと思われるが、山下の民家の方に聞いたが、城に係る伝承はないとのことであり、城という認識もないとのことである。
遺構も簡素なものであり、臨時的な城だったようである。

山入の乱の初期、応永30年(1423)、あるいは31年、白河結城氏の一族、小峰氏が鎌倉公方足利持氏の命で利員城を攻撃しているが、その攻撃ルートが浅川上流方向からであり、それに対応する砦であろう。
おそらく、使ったとしてもこの1回限りではないか?
なお、部垂の乱の最終期、天文8年(1538)の激戦で佐竹宗家側が利員城を拠点に小倉城を前進基地として部垂城攻撃に出撃しているが、その時、佐竹宗家側の警戒網の1つとして利員城背後からの奇襲を想定し使った可能性もある。

常陸太田市中野の「ようがい」地名
常陸太田市の西側、旧金砂郷地区の最南端に中野町がある。
金砂郷と言えば、金砂山などがある山がちな地と思われるが、南部はほぼ平地であり、広い水田地帯が広がる。

そんな水田地帯に丘が点在する。
最南東端には梵天山古墳がある丘がある。
その西側に南北に長い丘がある。
丘の南端下を県道61号線が東西に走り、中野交差点で南北に走る県道62号線と交差する。

↑ 東から見た中野丘陵、中央右側が「ようがい」。右の道路は県道61号線。
長さは南北約700m、東西最大約500mあり、標高は約50mでそれほどの凸凹はない。
比高は約40m。真ん中で2つに分かれる。
この丘の南部分に中野富士山古墳(全長約70mの前方後円墳。後円部径48m、前方部幅31〜33m、測量調査時に壺形埴輪が採取されている。古墳時代前期の築造。)がある。

中野富士山古墳 前方部から後円部を見る。 諏訪古墳 諏訪神社が建つ後円部から前方部を見る。

肝心の「ようがい」地名は北側の部分である。
この北側部分は底辺約300m高さ約400mの三角形をしており、北端下に諏訪古墳(諏訪神社)、群戸小学校がある。
この丘の上に城があるのか?
でも、今までそんなこと聞いたことがない。
もし、あるならどこかに書かれているはずである。

まあ、それはともかく、まずは見てみないと・・・で行ってはみたのだが・・・。
丘上は雑木林である。
それほどの藪ではない。畑として使っていた感じも余りない。

中央部Aが凹んで桝形のような感じになっていた。
その南北には比較的広い平坦地@、Bがある。でも土塁もない。
しかし、一部、段になったような部分もあり、人工的に削平されていると思える部分もある。
丘下に竪堀のようなものが下るが遺構とは思えない。
若干、人の手は加えられていると思える部分もあるが、城とはとても思えない。

@丘南側の平坦地・・何もない。 A丘中央部のくぼ地。意外とスッキリしている。 B丘北端の平坦地。人工的に削平された感じではある。

じゃあ何で「ようがい」なんてついているのだろう?

推定であるが、何らかの合戦時にこの丘の上で軍勢が宿営したあるいは陣を置いたことがあったのではないだろうか?
宿営するなら、眺めはいいので敵を感知しやすいだろう。
中野富士山古墳は格好の物見台だろう。

それに襲撃されても丘の上なら安全性は高いだろう。
この丘、独立丘なので城を置くにはいいかもしれない。
しかし、城が危うくなった場合、四方が平地では脱出が難しいであろう。

似た独立丘としてJR常陸太田駅の南に峰山があるが、居館はあったようだが、ちゃんとした城はない。
やはり緊急時の逃走経路の確保も城の重要な要素なのであろう。