常陸太田城の北にある山入の乱に関わる3つの小さな砦

常陸太田城、山入城、大門城は100年間断続的に続いた佐竹氏の内乱「山入の乱」に登場する良く知られた城郭である。
いずれも規模は大きい。

常陸太田城、山入城間は約8q、常陸太田城、大門城間は約6q、山入城、大門城間は約2qあり、二等辺三角形に近い形を描いた配置となる。
普通は3つの城の間には小さな出城、物見台等があるはずであるが、今まで、そのうな城の存在は報告されていなかった。
でもやはりあった。

2025年に至り、赤色図が公開されると怪しい模様が地図から浮かび上がり、それらを踏査した結果、3つの小さな城が見つかった。
いずれも微妙な位置にあり、それぞれ常陸太田城、山入城、大門城の出城のような存在と思われる。
これらの城が使われたのは1400〜1500年の約100年間のいずれかの時期であったと推定され、以降、500年以上も山中に眠っていたのである。

下大門天道山砦(常陸太田市下大門町36.5676、140.5097
常陸太田城と大門城の中間、下大門郵便局の北、腰巻地区の東の標高109.6mの三角点にある山が城址である。
源氏川からの比高は約70m、常陸太田城は南東約2.4q、大門城は北約2.4qに位置する。

この山は地元では「てんとう山」と呼ばれており、城の伝承はないが、以前から城らしいものがあり、大門城の出城では?と言われていたとのことである。
山には豊作を祈願する石の社@が祀られている。
おそらく、「天道様」が祀られていたようであり、山は「天道山」が訛って「てんとう山」になったと思われる。

城域は約80m×30mの広さ、基本単郭であり、主郭は約50m×30mの広さ、曲輪内部は三角点Aから東に向けて緩く傾斜し、天道様の石祠@ある。
西約3.5m下に帯曲輪B、北に延びる尾根に竪堀、曲輪東側に土塁があり、東に2重の横堀C、Dがある。
深さは1.5〜2m程度で埋没が進んでいる。

この堀は南に回り込む。南東に下る参道がおそらく登城路であろう。
南東側斜面はかなり緩斜面であり、段々状の場所がある。曲輪か畑跡が判断できない。
東に続く尾根に岩盤堀切Eに見える場所があるが、これは石切場の跡らしい。

@主郭に建つ天道様の石祠。 A主郭Tは西側が高く最高箇所に三角点がある。 B主郭の西下には帯曲輪がある。
C主郭Tの東側の堀、1本目。 D主郭Tの東側の堀、2本目。 E主郭Tの東側の東に岩盤堀切のような場所があるが、
どうも石切場跡のようである。

城からは大門城は見えないが常陸太田城の北にある正宗寺付近は見える。
山田川が流れる芦間方面から山(ゴルフ場)を抜けて、東の源氏川に通じる街道(旧街道?)を監視する位置にあり、南東側が緩斜面で無防備に近いため、常陸太田城が、山入城方面から延びる街道を監視する砦と推定される。
山入の乱の頃に使われたのであろう。

下大門下原砦(常陸太田市下大門町)36.5711、140.5075
下大門天道山砦の北約650mの山にある小さい城である。
谷を隔てた北の山に出城36.5729、140.5080がある。


↑西側から見た下大門下原砦と出城、両者は東側の尾根で繋がっている。右手が常陸太田城方面、左が大門城方面。
正面の尾根から登るのが一番楽(そう)である。

本城の標高は117m、比高は約70m。L形をしており、北に延びる尾根から登るのが一番楽?な感じである。
この山、かつては薪取りの山であったらしく作業道があちこちに通っている。
主郭部まで道が入っており、遺構は改変されている可能性もあり、どこまでが本来の遺構か判断が難しい。

北に延びる尾根には堀切が3本あったらしく、痕跡@が残る。
どうも堀切が通行の障害であったらしく尾根上の堀は埋められ、竪堀部は通路状になっている感じである。
北の尾根を登りきった場所が標高117mの最高箇所Aであり、そこが主郭と推定される。

そこから東側と南側に段々状の曲輪が展開する。
東に続く尾根には前面に土塁を持つ堀切B、Cが2本確認できる。
2本とも深さは1.5m程度、埋没が進んでいる。

@北に延びる尾根の堀切跡、堀部は埋められ切岸のみ。 A最高箇所の主郭、東に緩く傾斜する。
B東尾根の1本目の堀切、埋没が激しい。 C東尾根、2本目の堀切、ここも埋没気味、竪堀は明瞭。

東端は鞍部の平場となる。ここの標高は100m。
ここから尾根伝に北の出城まで行くことができる。
この尾根上にも作業道が付いているが、もう誰も歩かないので荒れている。

尾根を東側を大きく回り込むと北の出城である。
標高は113.6m、本城より若干低い。

出城には堀切は確認できないが、東側に高さ約3.5mの急勾配の切岸Dがあり、これが唯一の防御施設である。
頂上部は2〜3段の平坦地であり、直径は約20m、石祠Eが2基祀られる。
尾根が続く東側以外は急斜面である。

石祠はもう誰も来ないのであろう、管理がされず倒壊している。(管理人が修復しておいたが。)
出城からは北約1qに南大門城が見え、大門城との連絡の場と推定される。
本城からは出城のある山が邪魔になり大門城は見えない。それを補完している。

D北出城の切岸、急で登るのに苦労した。 E頂上部の平坦地にある石祠

以上のことからこの城は大門城が南を見張る城であろう。
本城の真西約1qに芦間砦があり、芦間方面から延びる街道が源氏川の谷に出る場所が見える。
その役目は天道山砦と同じであるが、天道山砦とは属する本城が違う感じである。
なお、天道山砦との間には深い谷津があり、尾根を大きく東に迂回しないと連絡が取れない。
この城も山入の乱の頃に使われたのであろう。

芦間砦(常陸太田市芦間町)36.5738,140.4975
常陸太田市中心部から水府方面に県道29号線が延びる。
この道は大門城方面に源氏川に沿って北上し、山を越えて谷津を通って水府の和田地区に出る。
この谷津沿い南側の山に芦間砦がある。
谷津の和田側出口部からかつてハイキングコースが東の城方向に延びており、城内を通る。
この道を行けばよいのであるが、この道は既に廃道になっており、ほとんど藪化している。
強行突破するしかない。

中世常陸国を揺るがした山入の乱、その主人公の城が、常陸太田城、山入城、大門城であるが、不思議なことにこの3城の間には物見台程度の城も見つかっていなかった。
2025年になってようやく小さな砦がいくつか姿を現した。この城もそのうちの1つである。

この芦間砦、北約3qが山入城、北東約2qが大門城、南東約4qが太田城と非常に微妙な位置にある。

城と言っても、城のある山には人は入っていたのだが、遺構が微妙すぎ、目が肥えていないとただの山として通り過ぎてしまうような感じである。
しかもハイキングコースの整備で堀切に橋が架けられたりして改変を受けている。
城とは気が付かないのは無理もない。
この城は管理人を含めてベテラン4人が見た。皆、城と判定するのに迷ったくらいなのである。

標高140.5mの場所にある主郭TAは西の山田川からは比高が約75mであり、一辺約30mの三角形であり、3つの頂点部に堀切@、B、Cを置く、そのうち2つ@、Bは土橋を持つ。
北西側が曲輪UDであり、主郭Tより標高が少し高い。
北西側は段々状になっている。
明瞭な城郭遺構はないが、削平度は良い。

しかし、ここが城域と言えるかは微妙である。
後世の造成の可能性も否定できない。しかし、ここまで来る道もありそうにないので城、オリジナルのものの可能性が大きいように思える。
曲輪U、通常なら北西側に堀切を置くのがセオリーであるが、ない。

@主郭T南側の堀切、土橋を持つ。 A主郭T、削平度は良いが狭いものである。 B主郭T北西側の堀切も土橋を持つ。
C主郭T東側の堀切、あるいは通路かも。 D北西側のU、平場になっており城域と推定される。 E南の尾根を通る横堀状の古道、砦との関係は?

したがって、北西側が味方の地、北西側の者に関わる城ではないだろうか、そこには誰がいたか?山入氏である。
運用していたのは常陸太田城を警戒する山入氏ではないだろうか。

なお、この城の一つ南の尾根を横堀状の古道Eが通る。
芦間地区から源氏川の谷に通じる道である。
この古道、現在、ゴルフ場になっている場所を通っていた可能性もあるが、城付近を通過し、東の小豆平方面に下っていた可能性もある。
それならこの城は関所城であろう。

なお、この付近には城の伝承はない。
しかし、県道29号線が通る谷津部の字名は「ケジョウヤツ」である。
これは「間丁谷津」とも書くらしい。あるいは「外城谷津」ではないかと思う。
なら外城に対して内城があり、それがこの城ではないかと思われる。
この場所に城を置くのは山入の乱の頃しか想定できない。
1500年頃までの期間に使われ、その後、存在が忘れられたものと思う。