花園城はどこだ?
花園城は茨城県北茨城市の西部、花園神社付近にあったと言われる。

平安時代末期、治承4年(1180)、源頼朝が平家方に付いていた佐竹秀義を攻撃する。
佐竹秀義は金砂山城に籠城する。
頼朝は和田義盛らに攻めさせたが、陥落せず、謀略により北側の諸沢の間道から内通者の手引きで侵入して攻め落城させたという。

秀義はかろうじて城を脱出し、花園山に逃れ、洞窟に隠れ、猿が運ぶ食料で命をつないだ。これが「金砂合戦」といわれる戦いである。
・・ということになっている。この合戦は2021年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」にも登場する。
この話は「吾妻鏡」に載っている。

吾妻鏡は北条氏の編纂したものであり、北条氏ヨイショの記載が多いが、佐竹氏に関わる記述は北条氏にとっては利害関係がないことであり、捏造、改ざんはなく、けっこう信頼ができると思われる。

この猿とは修験者のことらしく、金砂山城から秀義を脱出させたのも修験者である。
花園城までの間にある武生神社、東金砂神社、黒前神社等の修験にかかわる神社であり、その修験者ネットワークにより秀義を助けていたようである。

その後、文治5年(1189)佐竹秀義は奥州征伐を期に頼朝に下り、太田に戻り、佐竹氏を再興している。
佐竹秀義が抵抗を止めたのは、敵対する平家が滅亡し、対抗馬で自分の支援者である藤原秀衡が亡くなり、泰衡の代となり先行きに不安を感じたためであろう。
不思議なのは、殺すのが趣味の頼朝、よく佐竹秀義を殺さなかったものである。

さて、それは置いておいて、ともかく、金砂合戦からは、その間、9年間もある。

この間、佐竹秀義はどこにいたかというと、花園城にいたというのである。
金砂合戦で敗れてからずうっと洞窟に隠れていたのではなく、花園城を拠点にしつこくゲリラ戦を展開し、頼朝を悩ましていたのである。

おそらく、この9年間、修験者ばかりでなく、古くから協調関係にあった奥州藤原氏が彼を援助していたのであろう。
花園は奥州との境である。
ここのすぐ北は奥州は奥州藤原氏の勢力範囲であり、頼朝も手出ししにくいという立地ということもある。

秀義が9年間いた城が花園城である。
これだけの長期間いたのだから、この城、居住性は備えているはずである。

頼朝方の攻撃を受ける可能性もあるので、平安時代の城とは言え、それなりの防御力はあった、または背後の山に防御力のある城があったのではないかと思われる。
しかし、それらしい城と思われるものがあるとは聞いたことがない。

そこで2019年頃、この付近の城に関わる地名が残る場所付近を探索してみた。
その結果、見つかったのが「猿が城」の別名を持つ「才丸城」であった。
しかし、この城は戦国時代の街道を監視する城であり、居住できる城ではなく、平安時代の城ではなかった。
他にも才丸地区で「堀の内」等の地名の場所付近も探したがただの山に過ぎなかった。

あれから5年、再度、探索を試みた。
この付近の地名には「猿が城」「高館」「花立」「小屋下」等の城郭地名がいくつかある。
それらの付近を探索してみた。

「猿が城」「小屋下」には何も見つからない。

で、水沼地区の「高館」「花立」にチャレンジ、ここには城郭地名が2つ並んで存在する。
山の形も城があっても不思議ではないいい形をしている。
山の麓の平地部には居館跡のようなものはない。
もっとも平地部に居館があったとしても、約850年前のことである。
跡形もなくなっていても不思議ではない。

すると何かあるとすれば、背後の山か?そこで山に突入・・・
で、結果、どこもただの山だった。

@花立の山には古道がウネウネと・・城とは関係ない。 A鞍部には堀切が・・・ない! B高館の頂上には・・ただの平場が・・

城郭遺構らしいものは皆無。
見つかったのは横堀状にウネウネくねる古道@、でも花園城とは関係ない。
現在県道27号線は谷沿いを通っているが、それ以前の山を通る道のようである。
多分、才丸地区と水沼地区を結んでいた古道だろう。
鞍部Aには堀切が・・・そんなものはなかった。
高館の山頂Bのは・・ただの平場があっただけ。
ということで、花園付近の山には城らしいものは確認できなかった。

残る候補地は花園神社、そのものである。
神社境内を詳細に調べてみた。

神社南側には花園川の支流が流れている。
これは水堀の役目を果たす。

@神社(右)南側を流れる川は水堀の役目も果たせる。 A境内西、三本杉(右)近くの土塁? B貝吹場がある東の尾根にある平坦地

この川に面した境内西側には土塁がある。
これは城郭に伴う遺構ではないかと思われる。

じゃあ、東側は?神社を囲むように尾根があり、ここを貝吹場と言うそうである。
貝って、法螺貝のことである。つまり、物見台ということである。
で、登ってみたが、ちゃんと平場がある。

15m四方の広さである。
その下側にも平場がある。一番下の曲輪が「貝吹き場」らしいが・・。
この尾根の西側斜面、つまり神社側には段々状の腰曲輪のようなものが何枚か見られる。

ということで、東、南、西は一応、守られる構造になっている。
一方、神社北側、裏山は?
ここは普通の山、何もない。無防備である。
ただし、斜面は結構急である。
神社側以外からこの裏山に行くのは大変そうである。
つまり、北側の山に敵は回り込まないという前提のようだ。

これは「一の谷合戦」における平家方の「一の谷城」と同じではないか。
平安時代の城ならこんなものかもしれない。
もし、源義経が花園神社を攻めたら?やはり背後から襲撃するだろう。

ということで、花園神社、かなり城郭としての要件を満たすのである。
付近には僧房もあり、僧兵でもある修験者がいたので、兵が常駐していたとも言える。
もちろん、居館も建てられるスペースもあり、生活もできる。
以上より、金砂山城が西金砂神社そのものであったことと同様、花園城とは花園神社、そのものだったのではないだろうか?

ただし、疑問点も残る。
花園神社のある場所、谷間であるため、日当たりは余り良くなく、ジメジメしている。
居住、生活する場所としては、よい環境とは思えないのである。
住むならもっと日当たりの良い場所の方が理想的と思うのであるが・・・。
さて、真実は如何に?
でも、こういうこと謎のままの方がロマンがあっていいかもね!